【映画】「アイアム・ア・コメディアン」感想・レビュー・解説


良い映画だったなぁ。僕は特に、村本大輔のことを好きでも嫌いでもなく、彼がライブの中で口にしていた表現を使えば、「目が合っていなかった」という感じだが、本作を観て僕は、彼と目が合った気がする。まあ、直接会ったことはないが。

本作は、お笑いコンビ「ウーマンラッシュアワー」の村本大輔に密着したドキュメンタリー映画である。本作では彼を、「テレビから消えた男」と評しているのだが、まずはその辺りの事実関係から触れていこう。

本作には、吉本興業のマネージャーが登場し、「ウーマンラッシュアワーのテレビ出演本数」について言及していた。彼らは2013年にTHE MANZAIで優勝し、翌年の2014年に130本、2015年に200本、2016年に250本と、安定してテレビ出演を続けていた。しかし、2020年(恐らく密着を開始した年だろう)には、テレビ出演は1本となっていた。

本作では、その1本の出演の様子にも密着していた。フジテレビのお笑い番組にウーマンラッシュアワーが出演するのだ。しかしその2日前、村本の元に連絡が入る。その日、フジテレビの出演時にやるネタを劇場で披露する予定になっていたのだが、フジテレビからその様子を撮影させてほしいと連絡が来ていたのだ。

どういうことか。それは、「村本が危なっかしいことを言わないかを確認したい」ということである。

もちろん、フジテレビ側はそのような言い方はしなかったようだ。電話を切った村本は、「漫才の中で『原発4つ』と言ってるけど、『もんじゅ』は正確には『原発』ではないので、表現として正しくないみたいなことを言われた」と話していた。まあ確かに、「情報を正しく伝えること」は重要だ。しかし、村本がやっているのは「報道番組」ではなく「漫才」なのだ。「漫才だったら不正確なことだってバンバン言っていい」などと言いたいわけではないのだが、普通に考えて、「漫才」の枠内であれば、「もんじゅ」のことを「原発」と表現しようが大した問題にはならないはずだ。少なくとも僕はそう感じる。

しかし、フジテレビはその点を基にしている。というか、その点を気にしているという体で、「放送に乗る前に漫才全体をチェックしたい」みたいなことなのだと思う。

この状況を「干された」とか「検閲」と呼ぶかどうかは個人の捉え方次第であるが、個人的には違和感を覚える状況である。

また彼は、NHKについても言及していた。かつてNHKの方から、「スタンダップコメディの様子を密着させてほしい」と連絡が来たそうだ。「スタンダップコメディ」とは、村本大輔が劇場やワンマンライブなどでやっている、「お客さんとの対話込みのしゃべくり」みたいな感じである。

さて、そんなスタンダップコメディの中で村本は、「日本は大麻を合法化した方がいい」と発言したそうだ。医療大麻の活用など含め、彼の持論のようである。そしてNHKは、その発言を以って企画のはしごを外したそうだ。村本自身も言っていたが、彼が大麻をやっているわけではなく、ただ「大麻を合法化した方がいい」と発言しただけだ。にも拘らず、NHKは彼をテレビで取り上げることを止めたのだ。これもまた、違和感を覚える状況に感じられる。

さて、本作のタイトルは英語で「I AM A COMEDIAN」なのだが、この文字は白と赤の2色に塗り分けられている。そして「COMEDIAN」の中の「MEDIA」が白色に塗られているのだ。「コメディアンである村本大輔」を追うドキュメンタリーなのだが、その一方で「村本大輔を取り上げないメディア」のことも捉えようとしている作品なのである。

ただ、個人的には、「政治的な発言ばかりするから村本大輔はテレビに干された」という表現にも違和感を覚える。というのは、こういう表現をすると「テレビだけの問題」に感じられるからだ。もちろん、テレビには問題があると思う。しかしそれだけではないだろう。テレビは何よりも視聴率を追っているのだから、大衆が村本大輔を望めば、彼がどれだけ危険な発言をしようが、テレビに引っ張り出してくるはずだ。

そしてそうなっていないということは、「大衆が村本大輔を望んでいない」ということなのだと思う。

さてここで僕が持ち出したい論点は、「『好き嫌い』ではなく『良い悪い』で語ろうとすることの是非」である。

僕は、「村本大輔のことが嫌い」とか「村本大輔の漫才がつまらない」みたいな風に感じることは全然良いと思う。「好き嫌い」は人それぞれで、完全に自由だからだ。しかし、「漫才に政治を持ち込むのはダサい」「お笑い芸人が社会問題を語るなよ」みたいな「良い悪い」で語ろうとする言説が、僕にはどうも好きになれない。

本作には、先に紹介したフジテレビのお笑い番組に出た後の反応なのだろう、ツイッター上の村本大輔に対する反応がいくつか紹介されていた。そしてその中に、先程僕が書いたような指摘もあったのである。そして僕は、そういう意見に「嫌だなぁ」という感覚を抱いてしまう。そして、「嫌い」という理由で村本大輔が望まれていないのであれば仕方ないが、「悪い」という理由で望まれていないとすれば、それはちょっと違うんじゃないかと感じてしまうのだ。

ここには僕の、「身体が動いている人間の方が好感が持てる」という感覚がある。

村本大輔は沖縄の米軍基地や原発、慰安婦問題など様々な問題に切り込んでいくのだが、彼はきちんと現地に足を運び、人々の話を聞いている。これが僕の言う「身体が動いている」の意味である。もちろん、間違った身体の動かし方をしている人もいると思うから、「身体が動いてさえいれば良い」というわけでもないのだが、しかし少なくとも、「空調の効いた室内でスマホをポチポチ押して他人の批判ばかりしている人間」よりは遥かにマシだと思う。

そして村本大輔の良さは、「自分の存在を、ある種の『拡声器』のようなもの」と思っているところにあるように思う。

ワンマンライブの中で彼は、沖縄に言った時のエピソードを語っていた。若者から写真を撮ってくれと頼まれたので応じていたのだが、そのやり取りの中で村本は「基地についてどう思う?」と聞いたのだそうだ。すると若者たちは、「基地は必要」「基地があるから仕事がある」と返したという。その後続けて村本は、「じゃあ、俺が基地に反対するような漫才をしているのを見ると嫌な気分になる?」と聞くと、若者たちはこう返したそうだ。

【無視しないでくれて嬉しいです。】

さすがにこんなことを言うからには、これは実際にあったことだろう。そして村本は、「『お笑い』という形で、社会の問題を拡声器的に届けたい」と考えているように思う。

それは、父親との話の中でも感じられた。父親は息子に、「社会を変えたいなら政治家になれ」と言う。しかし村本は、「内閣を決めるのは国民なんだから、国民の雰囲気を変える方が重要。そして、お笑いにはそれが出来る力がある」みたいな返答をしていた。たぶん村本大輔は、本当にそういうことをやろうと思っているし、出来ると考えているんだと思う。本作全体の雰囲気から、そんな「ピュアさ」みたいなものが感じられた。

「ピュアさ」というか、単純に村本大輔は「優しい」のだと思う。本作の随所から、そう実感させられた。

「優しさ」というのはとても難しい。僕は、自分で書くとちょっと嘘くさくなるが、「優しさ」に限らず、他人の感情に割と敏感なつもりでいる。そしてだからこそ、「優しく見えること」と「優しいこと」はまるで違うのだと知っている。

何故なら、「本当に優しい人」は「優しそうには見えない」からだ。

ワンマンライブの中で、村本はこんなエピソードを話していた。恐らくこれも実話なのだと思うのだが、どうなんだろう。

ある日劇場を出ると、車椅子の男性が待っていた。子どもの頃の事故で脚を失ったそうだ。そして彼は「村本さんの話を聞いて、僕もお笑いをやりたいと思っている」と言ったという。流れ的に飲みに行くことになり、その後1時間、その男性の面白くもない話を聞き続けた。そして最後に村本はこう言ったそうだ。「お前、腕も無いな」

さて、この話がなんなんだという感じだろうが、僕にはこの話は「優しさの発露」に感じられた。あくまでも僕は、このエピソードを「実話」と捉えて話を続けるが、普通に考えると、「脚の無い人に『腕も無いな』と発言すること」は全然優しくは見えないだろう。しかし、先程の沖縄の若者の話と同じだが、「腕も無いな」という発言は、「『障害者を目の前にしている』という事実を避けるどころか、ガッツリ入り込んで向き合ってくれている」という感覚になるように思う。当たり障りのない発言をすれば「目が合ってない」と思われて終わりだろうが、村本の振る舞いは、「無視しないでくれている」と受け取られるのではないだろうか。

まあもちろん、この辺りの感覚は人による。脚のない人が全員「腕も無いな」という発言に好感を抱くはずもないだろう。しかし、本作を観ていれば伝わってくるが、村本大輔はかなり目の前の他者の気持ちを汲もうという意識を持っているように見える。だから、そんな彼が「腕も無いな」と発言したのであれば、「そういう発言を受け入れる人だ」という判断ありきだと思う。もちろん、その判断を誤る可能性もあるわけだが、何も考えずに発言しているはずがないだろう。そういうことも含めて、僕には村本大輔が「優しい人」に見えた。

その話に続けて、彼はこんな風にも言っていた。

【「障害者には皆、何かしらの才能がある」みたいなこと、よく言われますけど、才能の無い障害者もいます! ただ生きてるだけでいいじゃないですか。「障害者で才能の無い自分はダメなのか」みたいに感じさせられるのって辛くないですか? 「良かれと思って言っていること」が、全然相手のためになっていないみたいなこと、よくありますからね】

本当にその通りだなと思う。「障害者には皆、何かしらの才能がある」みたいに言う人は一見「優しく見える」し、「才能の無い障害者もいる」と口にする村本大輔は「優しく見えない」かもしれない。しかし、少なくとも僕の感覚では、事実は逆だ。前者は本質的に優しくないし、村本大輔は本質的には優しいのだと思う。

あくまでも僕の肌感覚でしかないが、最近は、「自分が心地よいと感じるものしか取り込みたくない」というタイプの人が増えたように思う。少し前からよく聞くようになって驚かされるのは、「小説や映画、マンガは『ネタバレ』を知ってから触れる」という人が多いという話。「自分が不快に感じるラストだったら嫌だから、『安心できる終わり方』であることを確認してからでないと手に取れない」ということらしい。僕にはちょっと信じがたい感覚だが、現にそういう感覚の人が増えているのなら仕方ない。

SNSやグーグルなんかは「検索履歴からのサジェスト」が恐ろしく最適化されているので、「興味関心のあるもの」以外は視界に入らないようになっているだろう。つまり普段から「心地よいものだけに囲まれた情報生活」を送っていることになる。そしてそういう社会であればあるほど、村本大輔のような人間は排除されていくことになるはずだ。

「漫才・お笑い」を心地よく感じる人にとって、村本大輔は「異物」でしかないからだ。今の時代、情報の判断は一瞬でなされるため、「優しく見える人」は厚遇され、「パッと見では優しく見えない人」は嫌われていく。本来的には、前者ほど優しくないし、後者ほど優しい可能性が高いのだが、「心地よいもの以外はあっさりと排除されていく世の中」においては、そんな本質が理解される機会はどうしても少なくなるだろう。

僕はずっとそういう世の中に違和感を覚えてきたし、だからこそ、本作が描く村本大輔の姿にはとても共感できてしまった。

現代人は「心地よいと感じられないもの」をどんどん視界から外していくが、村本大輔はむしろ、そういうものこそを視界に入れていく。多くの人が見ていないものこそ、自分が見るべきだと感じているのだと思う。

その理由は恐らく、彼の幼少期にあるのだろう。本作には村本大輔の幼馴染も登場し、飲みながら話をしていたのだが、村本大輔は勉強も運動も全然出来なかったそうだ。それでいて、優等生グループと仲が良かったこともあり、劣等感を強く抱いていたという。また、両親は仲が悪く、学校から帰ってきても両親とも家にいないことの方が多かった。そのため、学校でも家でも、「誰も自分のことを見てくれていない」みたいな感覚を強く抱いていたのだそうだ。

だから彼は、ライブに来てくれた人に、「聞いてくれることはとても嬉しい」「皆さんに生かされました」みたいなことを口にする。これはつまり、「あなた方が自分のことを”見て”くれるから、自分は今生きていける」みたいな感覚なのだと思う。そして、彼自身がそのような実感を強く抱いているからこそ、「自分も『あまり見てもらえていないだろう誰か』のことを視界に入れよう」という感覚を強く持っているのだろう。

そんな彼は、僕には「とても優しい人」に映る。本作を観ると、割とそんな風に感じる人は多いんじゃないかと思う。

さて、最後に1つどうでもいいことを。本作は、全編「英語字幕付き」だったので、字幕の方もちょいちょい見ていたのだが、とても興味深い表現があった。お笑いの「ネタ」が「material」と訳されていたのだ。確か「ネタをやる」は「do material」だったように思う(こっちはちょっと自信ない)。英語圏の人にどういう意味合いで伝わるものなのかよく分からないが、「へぇ」と感じたので書いてみた。

そんなわけで、冒頭でも書いた通り、僕は別に村本大輔には特段興味も関心もなかったのだが、本作を観て「ちょっと良いな」と感じた。東出昌大を扱ったドキュメンタリー映画『WILL』を観た時に近い感覚である。一般的に村本大輔がどんな印象で見られているのかよく知らないが、「村本大輔のアンチ」以外の人が本作を観れば、彼に対するイメージは結構変わるんじゃないかと思う。個人的には、なかなかオススメ出来るドキュメンタリー映画である。公開館はかなり少ないのだが、興味がある人は是非観てみてほしい。

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