【映画】「画家と泥棒」感想・レビュー・解説
実に奇妙なドキュメンタリー映画で、実に興味深かった。最後の最後まで、「これはホントにドキュメンタリー映画なのか?」と疑ってしまったぐらいの奇妙さで、「こんなことが現実に起こったんだなぁ」という驚きに満ちた物語だった。
本作の主要な登場人物は2人。バルボラ・キシルコワとカール・ベルティル。タイトルから容易に想像できる通り、2人は「画家」と「泥棒」である。その関係は、「バルボラが描いた絵を、ベルティルが盗んだ」のである。
チェコ出身のバルボラは、とある事情(DVをする元彼から逃れる)ために、ボーイフレンドと共にノルウェーへと移住してきた。そしてノルウェーで初めて描いたのが「白鳥の歌」である。彼女はリアリズム画家と呼ばれるタイプのアーティストで、彼女が何かの賞を受賞した記念に行われたギャラリーに飾られていた「白鳥の歌」「クロエとエマ」の2作品を、白昼堂々、2人の男が持ち去っていったのだ。
その様子は防犯カメラに映っており、2人はすぐに逮捕・起訴された。しかし、盗まれた絵の行方は分からないまま。バルボラは、絵の行方に対する興味から、犯人の1人であるベルティルの裁判を傍聴することにした。
その時の(恐らく実際の)音声が残っているのだが(この音声が流れる間、画面は当時の様子を再現した絵が映し出される。恐らくだが、バルボラが描いたのだろう)、その中で彼女は裁判官に「彼と話してもいいかしら?」と断りを入れた上で、初めて会ったベルティルに対してこんなことを言った。
『画家として聞くわね?
また会えるかしら?
あなたを描かせてほしい』
そしてバルボラは本当に、8年間の刑期を終えた(って映画では言ってた気がするのだけど、さすがに長いよなぁ、と思ったら、公式HPには75日って書かれてる。何か捉え間違えたようだ)ベルティルをアトリエに呼び、彼の絵を描くことにしたのである。
本作は冒頭からしばらくの間バルボラ視点の映像で進んでいくのだが、中盤ぐらいからベルティル視点の映像も挿入されるようになる。そしてその中でベルティルはこの時のことについて、「仕返しするつもりだろう」「晒し者にしたいのか」みたいに思っていたことを明かしている。
しかしバルボラにはそんなつもりは毛頭なかった。彼女は純粋に、ベルティルという人間に対して惹かれていたのだ。
そんなバルボラについて映画の中で詳しく語るのがベルティルである、というのはなかなか奇妙な事実だろう。バルボラには、決して売れているとは言えない彼女のアーティスト活動を金銭面でも精神面でも支えてくれているボーイフレンド・オイスタインがいるのだが、彼はバルボラを心配するあまり、作中では彼女と口論するような場面ばかりが印象に残っている。そしてバルボラは、自身の胸の内を、ベルティルに話しているというわけだ。
ベルティル曰く、バルボラは「死に惹かれている」のだそうだ。名前のない墓石の主が1939年に亡くなったユダヤ人のものだと知って花を手向けたり、初めて「死」に触れたのは10歳の時、チェコの路上で人が倒れていた時で、とても惹きつけられたみたいなことを、ベルティルが語っていた。
また、作中では、「バルボラがDV男に殴られていた」という事実を観客が知るのは、ベルティルの口からが先だ。後にオイスタインが、DVの元彼との関係についてさらに詳しく話す場面があるのだが(それはそれで実に奇妙な話なのだが)、観客からの見え方的にはそんな話も「バルボラがベルティルに心を許しているのだ」という風に映る。
バルボラは、「献身的」という言葉を使っていいと思えるほど、ベルティルに寄り添う。
そもそもベルティルは薬物の中毒者で、バルボラの絵を盗んだ時も、「4日間寝ておらず、覚醒剤20グラム、薬剤100錠を摂取して頭がラリってた」そうだ。バルボラは、確かにベルティルその人に関心を抱いているのだが、それはそれとして、盗まれた絵の行方も気になっている。しかし、ベルティルに何度話を振っても、「頭がラリってて何も覚えていない」と返ってくるばかりだった。まあ、どうやらそれは本当のことのようだ。
ベルティルは、恋人に薬物治療の施設に入れられそうになりながら逃げ出してバルボラのところへと行ったり、さらに後半ではもっととんでもなく大変な状況になったりする。そしてそれらに対して、基本的にはまったく無関係と言っていい(というかバルボラは明確に「被害者」である)ベルティルを支え続けるのだ。
この関係性が実に奇妙で、でもそこには美しさもあって、そしてだからこそ強烈に惹きつけられてしまった。
個人的に一番印象的だったのは、バルボラが初めて描いたベルティルの絵を彼に見せた時の反応である。なんとベルティルは号泣したのだ。その涙には大きく2つの意味があると思う。それらは、後にベルティルがバルボラに宛てて書いた手紙の内容から推測できる。
1つは「アートに対するベルティルの感性」である。2人は、バルボラのアトリエとベルティルの家を行き来するような関係になったのだが、ベルティルの部屋の壁にはぎっしりと絵画が飾られていた。また、棚にはアート作品が並んでいたのである。元からアートに対する感性みたいなものが強かったようだ。そして、そんなアートの世界に自分も関わることが出来たということに、言い表せないほどの感動を覚えたのだろう。
そしてもう1つが、「誰かに認められた」という感覚である。
ベルティルは学生時代、勉強が出来る優秀な生徒だったそうだ。しかし、8歳の時に両親が離婚、母親が弟と妹を連れて出ていってしまい、父と2人暮らし。父親は仕事でほとんど家にいなかったため、寂しい子ども時代を過ごしたそうだ。それが今でもトラウマになっていると言っていた。ベルティルは体中入れ墨だらけなのだが、7つ入っているという赤いバラの入れ墨は、その子ども時代のトラウマを象徴しているという。
そして結局、落ちぶれてしまい、「周りの人を失望させてきた」「幸せになっていいなんて思えない」みたいな感覚を抱くようになった。そして、そういう感覚が強まることによって、薬物に手を出してしまうようになったそうなのだ。
そんな状況の中で、「その人の絵を盗んだ」という特異すぎる形で関係が始まったバルボラが、自分の存在を根底から認めてくれたように感じさせてくれるような絵を描いてくれた。そのことが、彼の心を打ち震わせたのだと思う。「アートを見て涙する」という感覚を抱けたことは僕にはなく、ベルティルは多少特殊な状況にあったとはいえ、その純真さみたいなものが際立っていた気がするし、そしてそれが、「薬物中毒で窃盗犯で入れ墨だらけの男」であるというギャップもまた、非常に興味深いなと思う。
そんなあまりにも特異的な関係性を描くドキュメンタリー映画であり、その奇妙さに、僕はとても惹きつけられた。
さて、僕は本作を「ドキュメンタリー映画じゃないんじゃないか」と感じた、みたいに書いたが、その理由の1つが、「ベルティルが刑務所にいるところも撮影していた」からだ。彼が中庭を歩いている様子、他の囚人と食事をしている様子、そして出所する様子をすべて刑務所内部から撮影している。さらに、ベルティルはともかく、他の囚人にも一切モザイクが掛けられていないのだ。「そんなことあるだろうか?」と感じてしまったのである。
ただ、舞台はノルウェーである。「刑務所」と言っても日本のそれとはかけ離れており、「日本のちょっと狭い単身者アパート」みたいな部屋である。かなり快適そうだ。監視付きではあるが、外部との電話のやり取りも自由に行えるみたいである。そしてそんな刑務所であれば、日本とは違い、撮影の許可も出るかもしれないと思った。しかしそれにしても、日本の感覚ではまずあり得ないことだと思うので、ちょっとびっくりである。
さて、本作は一見、「ベルティルという奇妙な人物」に焦点が当てられた作品に思えるが、実際のところ、より一層奇妙なのはバルボラの方だと思う。もちろん、法廷でベルティルに「また会えるかしら?」と聞いたことだけを捉えてもその奇妙さは伝わってくるが、それだけではない。
他に印象的だったのは、バルボラが「カップルセラピー」と呼んでいた場面でのことだ。バルボラはこのカップルセラピーをけちょんけちょんにけなしていた。カップルがセラピストに話を聞いてもらい一層お互いの理解に努める、みたいなことだと思うのだが、バルボラの感覚では、話せば話すほど「自分がクソだ」と思えてきて嫌になるという。
さて、そのカップルセラピーの少し前のシーンで、オイスタインがバルボラに「ベルティルのような人物と関わることはリスクだ」と諭そうとする場面がある。さすが人権に造形が深い国らしく、オイスタインも決してバルボラを真っ向から否定するような言い方はしないが、それでも聞いていれば、「バルボラにベルティルと関わってほしくないんだな」ということがはっきり伝わってくるやり取りだった。
その上でオイスタインはさらに、カップルセラピーの中で、「何故自分たちがチェコからノルウェーへと逃れてきたのか?」について話し始めた。バルボラとオイスタインは、バルボラの元彼に殺されそうになったそうなのだが、その時点でバルボラと元彼は恋愛的な意味では別れていた(オイスタインと付き合っていた)。しかしバルボラはなんと、「絵を描く場所を元彼に提供してもらっていた」そうなのだ。先述した通り、バルボラはその元彼からDVを受けていた。そしてそんな人物と、「絵を描く場所を借りる」という形で関係が継続していたのである。
このことについてオイスタインは、「子どもが道の真ん中で遊んでいるようなものだ」と指摘、「大切な人がそんな危険なところにいたら心配して当然だ」と主張する。しかし、これに対するバルボラの返答がまた狂気的で面白かった。彼女は、「私の子どもだったら、絵を描きたいかもね」と言ったのだ。これはつまり、「『絵を描く』という優先順位の高いことのためなら、多少以上の危険は許容する」という宣言だろう。
バルボラとオイスタインのやり取りを聞いていると、オイスタインはあまりにも常識人であり、そしてそれ故にバルボラと相容れないように見えた。一方、ベルティルはあまりにも常識から外れているため、バルボラは関心を抱けるし、「竹馬の友」みたいな関係になれているような気がする。
しかし、じゃあオイスタインと離れられるのかというとそんなこともない。バルボラにとってオイスタインがどういう存在なのかはっきりとは分からないものの、少なくとも、彼女が創作活動を続けていくためには、オイスタインによる「金銭的な支援」は不可欠である(別に、バルボラがオイスタインのことを金づるだと思っている、などと言いたいわけではない)。彼女にとっては「絵を描くこと」はとにかく重要なことで、一日も欠かさずに絵を描いていると言っていたように思う。彼女が、自分が描いた絵を売って生計を立てていけるようになれば話は別だろうが、少なくとも映画撮影時点ではそんなことはなさそうだった。作中には、督促状を開封するシーンや、アトリエの家賃を滞納している現状についても映し出されていた。
さて、映画はラスト、思いも寄らない展開になる。この展開もまた、「これはホントにドキュメンタリー映画なんだろうか?」と感じさせるポイントだった。ホントに? こんなこと、実際に起こり得る? 映画の始まりも奇妙なら終わりも奇妙というわけで、俄には信じがたい作品なのだが、まあドキュメンタリーだというのだからそうなのだろう。まさに「事実は小説よりも奇なり」と言ったところだろう。
あと本作では、「カメラの存在」が完全に消えていることもまた興味深い。例えば「情熱大陸」などでは、メインで映し出される人物がカメラ(撮影者)に向かって話しかけたりする場面も使われるが、本作にはそういう場面は一切無かったと思う。カメラは完全に黒子であり、そういう場面しか使用していなかったこともまた、フィクションっぽさを感じさせたポイントと言えるかもしれない。
あと最後に。「ノルウェーで英語を喋るんだなぁ」と感じた。「ノルウェー語」というのが存在するはずだけど、チェコからの移住者だからだろうか、バルボラはずっと英語で喋っていたと思う。ベルティルは、バルボラとは英語だったと思うけど、別の場面では聞いたことのない言語(たぶんノルウェー語)で話していたりもしたかな。その辺り、特に字幕の表記の違いなどで区別されていなかったのでよく分からないが、「英語なんだなぁ」と思った次第である。
最近ドキュメンタリーを観る機会が少なく、僕は勝手に「コロナ禍があってドキュメンタリー映画が撮れなかった影響が今出ている」と勝手に思っているのだが(撮影して編集して作品を作るのに数年掛かるとすれば、「コロナ禍中に撮影できたはずの作品」は、本来であれば今頃公開されるのではないかということ)、久々にドキュメンタリー映画に、しかも超絶奇妙なドキュメンタリー映画に出会えてとても良かった。やはり個人的には、フィクションよりもドキュメンタリーの方が一層関心を抱けるなと改めて感じた。