【映画】「なれのはて」感想・レビュー・解説
なかなか面白い映画だった。
テレビやネットの記事で、「定年後は東南アジアなどの物価が安いところに移住して年金暮らし」などと特集されることがある。あるいは東南アジアでなくても、日本の田舎への移住でもいい。それまで住んでいた環境を離れ、まったく別の暮らしをする、という選択をする人もいるだろうと思う。
しかしなかなか、「その後」を知る機会はない。
この映画に登場する日本人は、様々な理由からフィリピンへと渡り、そこで生活をすることになった人たちであり、決して「定年後の年金生活をフィリピンで」などという人たちではない。ただし、普通に生きていたら見えない世界が描かれており(彼らが住んでいるのは貧困地区であり、監督は「こんなところでカメラ持ってたら危ないですよ」と忠告を受けたという)、そうならないという保証などない現実を切り取っていると感じた。
そして、「そうならないという保証などない現実」として見た時に、フィリピンは決して悪い選択肢ではない、とも感じた。
映画では4人の日本人男性が描かれる。その内の1人に、元暴力団の谷口という男がいるのだが、一度だけ日本に戻った時のことについて、
【自分が生まれた国はなんて冷たいんだと。
ここは自分が生きていく場所なんかじゃない】
みたいな言い方をしていた。4人の中で彼だけが、「お金以外の理由で日本に戻れない」という感じだと思うし、彼は日本で何か「事件」を起こしたらしいので、そういう人間が厳しい目で見られることは多少なりとも自業自得的な部分はあると思うが、しかしそれでもこの言葉は、映画全体を象徴するようなものだと感じた。
映画で最初に登場した嶋村という男は、元警察官だというが、フィリピン女性にハマって離婚して渡比するが、数年前に脳梗塞で倒れて生活が苦しくなり、フィリピン人の妻にも逃げられる。元警察官とは思えないようがガリガリの身体で、杖をつきながらよろよろと歩く姿は、なかなか悲惨なものがある。
しかし彼の面倒を、その貧困地区の人が世話してくれる。もちろん、無料でというわけにはいかないし、ほとんど収入のない彼にはなかなか厳しいだろうが、しかし嶋村の生活を見ていると、近所の子どもたちがワーワー言いながら嶋村の部屋に入っていったり、杖をつきながら歩いて飯を食いに行けば色んな人が話しかけたりと、孤立している感じはない。お金がまったくなければ立ち行かないのはどの国も同じだろうが、嶋村の「排除されていない感じ」はなかなか悪くないと思う。
また、元トラック運転手で、離婚してフィリピンにやってきた平山は、フィリピンで20歳ぐらい年下の女性と結婚し、子どもまでもうけている。
そんな彼は、フィリピン人の妻との生活について、
【お金はないけど、気分的には幸せだ。
日本にいる時は、お金はあったけど、幸せだと感じられたことなんてなかった】
と言っていた。彼のフィリピンでの生活もなかなかのもので、フィリピンでも最底辺と呼ばれる乗り合いバス絡みの仕事をしたり、借金をして屋台を始めるもその屋台が盗まれて無職になったりと大変だ。仕事がない時期には家の電気が止められることもあるが、しかしそれでも4人の子ども(全員女の子。1人は妻の連れ子、2人は親戚の子、平山と血の繋がりがある子は1人)は楽しげにはしゃいでいた。
僕が「悪くない」と思ったポイントは、「メチャクチャしんどいことは確かだけど、でも、最悪お金がなくてもなんとかはなる」という点だ。嶋村は身体の自由が利かないので、お金を払って身の回りのことをやってもらう必要があるし、平山は4人の子どもの学費なんかを稼がなければならないわけだが、「大変だけど、それなりの幸せを感じながら自分1人がなんとか生きていく」ことを目標にするなら、「悪くない」と思う。
日本ではまず無理だろう。日本ではもう、基本的に「お金がない」という時点でアウトだ。基本的に、社会構造からドロップアウトするしかない。日本では「貧困という社会構造」は存在せず、「貧困」の時点でもう「社会構造」から外れてしまう。
しかし、フィリピンに限らないかもしれないが、「貧困という社会構造」が存在する国では、その中で助け合いや人との繋がりや自分の存在意義などを実感できる可能性がある。
それは、「貧困という社会構造」が存在しない国より豊かなのではないかと思う。
誰だって「貧困」にはなりたくないだろうが、しかし自分は絶対にそうならない、と断言できる人も多くはないはずだ。特にコロナ禍で、それまで順調だった生活が一変してしまった人もいるだろうし、地震などの災害にいつ見舞われるか分からない。保険や貯蓄などでどれだけリスクに備えていたところで、思いがけない出来事は起こりうるし、まさに「一寸先は闇」と考えておくべきだ。
そしてそうだとした場合、「仮に『貧困』になってしまっても、貧困なりの日常が存在する」と思える世界と、「『貧困』になってしまえばジ・エンド」という世界のどちらがいいだろうか?
日本では、6人に1人が「相対的貧困」(家族の所得がほかの家族の平均的な所得の半分に満たない状態)とされている。思っているより多いだろう。先進国ではワースト7位だそうだ。
しかし一方で日本では「貧困なりの日常」はなかなか見えない。ファストファッションやファストフードなどが広まったことで、「実際には貧困なのだが、貧困だと悟られないような生活」がある程度送れてしまう世界でもあるのだ。
そういう世界には「貧困なりの日常」はなかなか存在し得ないし、「貧困は隠すもの」という認識にしかならない。そしてそうなればなるほど「貧困に陥る恐怖」に誰もが支配されるようになり、ますます社会はギスギスしていくことになってしまうのだと思う。
それよりも、「貧困でも貧困なりの日常が存在する世界」の方が、まだマシなのではないかと思う。
基本的には、彼らが普段どんな生活を送っているのかを映し出していく映画で、ドラマティックなことが起こるわけではまったくない。しかし、4人がそれぞれのやり方でなんとか異国の地で踏ん張っている様は非常に興味深いし、個人的には飽きることなく観ていられた。
ただ問題は、4人ともほぼ歯が無いので、「日本語を喋っている」ということは分かるが、聞き取るのが困難だった。聞き取れないセリフも多くある。また、監督はフィリピン語(タガログ語かな?)を話せないようで、現地でも、取材対象者である4人に通訳をしてもらうか、英語で話すかだった。だからだろう、映画の中でフィリピン人がわーわー喋っている場面に字幕も何もなく、ただ騒音を聞かされているだけ、という状態が長く続く場面があった。あの「遺品」や「墓」を巡る部分は、もうちょっと編集(あるいは字幕)の余地があったのではないかなぁ、と感じた。
なかなか興味深い映画だった。