【映画】「ヒトラーのための虐殺会議」感想・レビュー・解説

この映画を観ると、「ナチスドイツ」や「ホロコースト」への捉え方がまた少し変わるような気がする。少なくとも僕は「アイヒマン」に対する印象は大分変わった。

映画は全編、「1942年1月20日に行われた会議」だけで描かれる。会議前後の様子も描かれるが、回想シーンなどは一切ない。会議を最初から最後までひたすらに描く、という、とてつもなくシンプルな構成で作られている。だからこそ、退屈と受け取られるかもしれない。僕自身、映画の初めの方は正直、何をやっているのか分からず、面白さが理解できなかった。

しかし次第に、「あぁ、なるほど、これはとんでもない『狂気』が描かれているのだ」と実感できた。

もちろん、「ホロコースト」そのものが「狂気」であり、そんな「ホロコースト」を具体的な計画にまとめあげたこの会議もまた「狂気」であることは、観る前から明らかだ。しかし、僕が言いたい「狂気」はそういうことではない。この映画で描かれるのは、「恐ろしいほど『理性的』に『狂気的な話し合い』が行われている」という事実なのだ。

とにかく僕は、会議が実に「理性的」に行われていることに驚かされた。僕らがイメージする「ホロコースト」は、「ヒトラーが強権を発動し、下の者たちに有無を言わさず強制的にやらせた」みたいな感じだと思う。しかし、この映画を観る限り、決してそうではない。彼らは、まるでオリンピックの開催について話し合っているかのように、細部に渡り様々な検討を行っている。「ユダヤ人を移送し、働ける者には働いてもらい、働けない者は『最終解決』を行う」という話の流れである人物が、「働いてもらうのであれば、宿舎と食料が必要ではないか」と低減する。あるいはこの映画においては、内務省次官であり次期内務大臣候補であるシュトゥッカートが「食わせ者」的に描かれるのだが、彼は自身が作った「ユダヤ法」を元に、議論の多勢の流れに逆らって自説を展開していく。それは決して「ホロコーストそのものに反対するもの」ではなかったが、「規律や秩序に則って行われるべきである」という固い信念の元、「横紙破り」のようなやり方には反対していく。

彼らは、「ユダヤ人を根絶やしにしなければならない」という意見で一致している。しかし、「じゃあそれを具体的にどうやるのか」については、様々な思惑や権力争い、人間性、合理性など様々な感覚が入り混じり、一筋縄ではいかなくなっているのだ。

ただし、この映画からは、「理性を失った者たちによる暴走ではない」ということが理解できる。そうではなく、「完全に理性的に『ホロコースト』が計画された」のである。そしてそのことが、とんでもなく恐ろしい「狂気」であると感じられた。

恐らく、この映画に登場する人物のほとんどが、「非常に優秀な人物」なのだと思う。それは、観ていて強く感じられた。しかしそんな「非常に優秀な人物」も、第一歩目で間違えてしまえば、その後もずっと間違い続けることになる。彼らがどのような議論を行おうとも、「ユダヤ人を根絶やしにする」というスタンスに疑問を呈しなければ誤りは改善されないのだ。そんな「第一歩目から間違えてしまう怖さ」が、とてもリアルに描かれていると感じられた。

この映画は、「ヴァンゼー会議」と呼ばれているこの会議の議事録を基に作られている。たった1部だけ、現存しているのだそうだ。映画は恐らく、議事録に記録されたやり取りに加えて、それぞれの人物について知られている性格や内面などを組み合わせて作られているのだと思う。この映画がどこまで真に迫っているのか、それは誰にも判断できないわけだが、映画の中では「ホロコーストそのものに異を唱えようとしたのかもしれない」という人物についても描かれている。恐らく議事録に残っているのだろう。

しかし、その人物が「ホロコーストに反対していると受け取られかねない発言」をした瞬間に、不穏な空気になる。「お前はユダヤ人を擁護しようとしているのか?」という視線が飛んでくるのだ。想像するに、実際にそのような雰囲気が、その時代には蔓延っていただろう。だから、仮に「ホロコーストはおかしいんじゃないか」と思う人間がいても、声を上げられなかったはずだ。あるいは、声を挙げた者はいたが、議事録からは削除されていたなんて可能性だってある。まあその辺りのことはなんとも言えないが、だから、「会議では誰も反対の意を示さなかった」と即断するのも躊躇しなければならないように思う。思うが、しかしやはり、「このようなビジネスライクの会議が実際に行われたんだろうなぁ」とも思う。

映画は、秘書を含め16名の人物が登場する。とにかく人が多いので、冒頭からしばらくの間は、誰が何なのか理解知るのはなかなか難しい。会議も、最初の内は正直、何が目的なのかイマイチよく分からなかった。ただ、物語を追っていく内に、「要するに、ナチス親衛隊が役人を丸め込みたいと考えている」のだということが理解できるようになっていった。

映画に登場するのは大雑把に分類すると、「親衛隊の人間」「役人」「占領地や周辺国を担当する代表」である。そしてこの会議は基本的に、「会議の主催者である親衛隊大将R・ハイドリヒが、様々な省庁に分割されている権限を親衛隊で掌握し、親衛隊の一存でホロコーストの計画を主導する」という目的で開かれているのだ、ということが理解できるようになった。

ユダヤ人やホロコーストに関する事柄は当然、様々な省庁にまたがっている。「ドイツ以外の国のユダヤ人を『最終解決』する」のは外務省が絡むだろうし、「混血児などをどの程度ユダヤ人と扱うか」は内務省が作成した法律が関係する。このように、様々な省庁に権限がまたがっていると、親衛隊が何か動こうとした際にいちいち「お伺い」を立てなければならなくなる。R・ハイドリヒはその状況を改善したかったのだろう。そこで、「様々な議題について皆で話し合う」という体裁を整えながら、実のところ「すべてを親衛隊の思う通りに動かす」ための布石を打ち続けていたというわけだ。

もちろんそんなことは、役人たちも理解していただろう。しかし、日本の「政治家」と「官僚」の関係と同様、「親衛隊」と「役人」の力関係は恐らく「親衛隊」の方が上なのだと思う。だから、権限を守るべきところと委譲していいところとを見極めながら、「親衛隊の好きなようにしたらいい」という感じになっていったのではないか。

「ヴァンゼー会議」は、たったの90分で終わったそうだ。結果として、600万人ものユダヤ人の命が奪われた。

「あり得ない」「信じられない」と口にするのは簡単だが、この映画で描かれるのは、「人は集団だとかようにも『アホ』になってしまう」ということでもある。私たちも人知れず、「アホ」としか言えない何かに関わっているかもしれない。そういう危機意識を持つべきだと感じさせられた。

ちなみに、私はアイヒマンについて「仕方なくホロコーストに加担させられた人」というイメージを持っていた。心理学の世界で「アイヒマン実験(ミルグラム実験)」は有名で、「権力に命じられたら逆らえない」ことを示したものとして知られているからだ。しかし、この映画を観る限りでは、アイヒマンは「積極的にホロコーストの立案に関わっている」と映る。この映画がどの程度アイヒマンを正しく描き出しているのか分からないが、私の中の「アイヒマン」の印象はかなり変わった。

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