【映画】「ボーンズアンドオール」感想・レビュー・解説
「BONES AND ALL」とは、「骨ごと」という意味だそうだ。もちろん続く言葉は「食べる」である。
「人間を食べる衝動を抑えられない人間」の物語だ。
こういうタイプの物語を観る度に、僕はどうしても同じことばかり書いてしまうが、物語の本質は「人を食べるかどうか」ではない。より重要なことは、「『自分のとっての普通』が『他人にとっての不利益・不快』になってしまう」という極限の状況だ。そして、そういう状況に置かれている人は、僕らが生きている世界にもいる。小児性愛や、「モノを盗むこと」をやめられないクレプトマニアなどもそうだろうし、「他者と違うことが受け入れられない」とより広い意味で捉えるなら、ADHDやLGBTQなどを含めてもいいだろう。
この映画を観て、「人を食べること」に着目できる人は、たぶん「マジョリティ」として生きられている人なんじゃないかと勝手に想像してしまう。否応なしに「マイノリティ」として生きざるを得ない人がこの映画を見れば、「人を食べること」以上に、「どこにも居場所がないこと」や「誰かと分かり合うことの困難さ」みたいな部分にどうしても視線が向いてしまうだろう。
「人を食べる」という狂気的な要素は表層に過ぎない。物語全体を覆うその”薄膜”を剥ぎ取れば、そこには「僕らが生きている世界にありふれた何か」で溢れていると言っていいだろう。
映画は、表向き「恋愛」を描いているように見える。美しい男女が、世俗を離れ2人だけで旅路を続けるその様は、とても「恋愛」っぽい。もちろん、彼らにしても、それは「恋愛」と認識されているかもしれない。
ただ、2人にとってより本質的なことは、お互いの存在が「居場所」であり「生きる理由」でもあるということだろう。なかなか、「恋愛」という言葉で括るには重い関係だと思う。
「好き」かどうかという判断以上に、「相手と離れれば、『居場所』や『生きる理由』が失われてしまう」という感覚が、暗黙の了解として存在する。そういう中で、2人がどういう状況でどんな決断を下すのかが描かれるというわけだ。
難しいのは、「人を食べる」ということに関する倫理観が、「イーター」と呼ばれる存在の間でも濃淡があることだろう。そこには、「人としてどうあるべきか」と「イーターとしてどうあるべきか」という葛藤が混在しているように見える。
実際に映画では、「人を食べることに対する葛藤」が描かれるシーンはほとんどない。それはとても自然と言っていいだろう。彼らは、生まれながらに「食べる衝動」を自覚してきたのだ。だから、そういう葛藤はずっとずっと前からしてきているだろうし、主人公マレンのように18歳にもなれば、外面を整えることは容易になると思う。
ただ恐らく、「人を食べる」度に、内面は葛藤し続けているはずだ。「イーターとしては仕方ない」と思いながらも、「人間としてはこんなことをしたくない」と思っている。
そして、訳あって旅に出るまで他のイーターと会ったことがなかったマレンには、自分の感覚が「イーターにとっての普通」であるかどうかさえ判断できなかった。そもそもだが、「人を食べたいという衝動を持つのは自分だけだ」とさえ思っていたのだ。
マレンは、他のイーターと出会うことで初めて、「自分の感覚との差」を知ることにもなった。どちらが正しいということもない。イーターの絶対数が少ないから正しさを決めることなどできないし、そもそも「すべて間違い」なのだから、その中で「正しさ」についてあーだこーだ言っても仕方ない。
ただ、初めて「違い」に直面したことで、彼女は18年間抱くことのなかった感覚に直面させられることにもなった。あらゆる環境が変化せざるを得なかったマレンの生活の中に、さらに想像もしなかった感覚が紛れ込むことになるのだ。かなりハードな旅路だと言っていいだろう。
「食べるか自殺か監禁か」みたいなセリフが出てくる。舞城王太郎の『煙か土か食い物』みたいだ。イーターにとっての選択肢は少ない。ほとんど選択の余地などない世界で、それでもマレンは「自分で選びたい」と言って自分の進むべき道を自分で探そうとする。その葛藤の旅路は、ほとんどどん詰まりのような世界にいる人にとって、ちょっとした勇気をもたらすものになるかもしれない。
ストーリー的にメチャクチャ良かったという感じではないけど、グロテスクだけどどことなく美しい映像と、主演の2人の「透明感と妖しさを兼ね備えた」ようななんとも言えない雰囲気、そして謎の登場人物サリーの異様さがとても印象的な作品だった。
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