【映画】「対峙」感想・レビュー・解説
映画館でチラシを観て、「あ、これは絶対に観よう」と思った映画だ。銃乱射事件を起こした加害者家族と、その事件で息子を喪った被害者家族が「対峙する」という物語だ。すげぇじゃないか、と思った。
その後、この映画の予告を観て、「なるほど、ドキュメンタリー映画ではないのか」と思った。この映画に関しては、その事実を先に知っておいて良かったかもしれない。最初から、「これはフィクションだ」と知って観たことで、混乱せずに済んだ。
しかし、公式HPによると、脚本を書き上げた監督は実在する銃乱射事件に着想を得たそうだが、その中で、銃撃犯の両親と犠牲者の両親が会談を行ったという事実を知ったそうだ。「2008年のパークランドの高校で起こった銃乱射事件」がどこまで反映されているのかは僕には分からないが、事実を反映させた映画であることは間違いないようだ。
映画の中にも、「アメリカには実際にこのような制度がありそうだ」と示唆するセリフがあった。被害者の父親が、「あなた方を訴えなかったのか、今日この日のためだ」みたいなことを言うシーンがある。「この日」というのは要するに、「加害者家族と被害者家族が対話をする日」である。具体的にどんなシステムなのかは不明だが、「訴える権利を放棄した場合に、双方の同意の元で対話が可能になる」みたいな仕組みが存在しているのだろうと感じた。
なかなか凄まじい映画だった。映画は、双方の家族が会う前の描写から、家族の去り際まで描かれるが、その大部分が「ある部屋の中で対話し続けるだけ」である。被害者の少年や加害者の少年に関する回想や、銃乱射事件の描写など一切出て来ない。ひたすら、4人の男女が対話し続けるだけである。それを、自分もその場にいて聞いているかのような臨場感と共に映し出している。
個人的に一番凄いと思ったのは、「支離滅裂さ」や「脈絡の無さ」である。
それらが全面に打ち出されるのは当然だと言える。なにせ、対面しているのは「殺した側」と「殺された側」なのだ。事件は、全米で大々的に報道されただろう。加害者の父親が何度か、「自分たちには発言権がなかった」「自由に何かをする権利を奪われていた」みたいな発言をしていた。弁護士なのか国なのか、誰が彼らを制約していたのかはよく分からないが、恐らく「報道被害」みたいに言ってもいいだろう状況に置かれていたのだと思う。
銃乱射事件が頻発するアメリカとはいえ、やはり1つ1つの事件の際にはとんでもない取り上げられ方になるのだろうと想像できた。
そんな重大事件の、加害者家族と被害者家族が、立会人無しで向き合っているのだ。そりゃあ、支離滅裂にも脈絡が無くなりもするだろう。
しかし、これはドキュメンタリーではなくフィクションである。つまり、演技でその「支離滅裂さ」や「脈絡の無さ」を成立させなければならない、ということになる。
それが凄かった。カメラワークやカット割りなどから、明らかに「ドキュメンタリー映画ではない」と分かるものの、しかし、画面を支配するある種の「異様さ」は、そこで本当に「加害者家族」と「被害者家族」が向き合っているのではないかと思わせる凄まじさを感じさせられた。
もちろん、どちらもいい大人であり、また、恐らく事前にかなり様々な契約を経てこの場に臨んでいるのだと思う。だから、「お互いを罵倒する」ような展開になることに対して、双方が大きな自制心を働かせている。単に対峙するのではなく、「抑制的に対峙する」という状況が描かれるのだ。
一応そのような了解が双方できちんとなされているのだろう。対話の冒頭は、かなり穏やかに進んでいく。もちろん、まったくの穏やかなわけはないが、表面上「お互い穏やかに進めていこう」という意思を強く明示している。そのやり取りは、「加害者家族と被害者家族のもの」としては、むしろ不自然に感じられるかもしれない。
しかし、少しずつ状況が変わっていく。冒頭では、やはりというべきか、女性が会話をリードしていく。しかし次第に、双方の男性が話し合いを支配するようになっていく。
被害者の父親は、常に妻の様子を気遣い、「妻が気に入らない話題には立ち入らない」というスタンスを守っている。異質な4人が話す場を、積極的に回していくようなポジションも取っていると言えるだろう。自分よりも「妻」や「この場」のことを優先する理性的な人物に見える。しかし、少しずつそのタガが外れてしまう。
一方、加害者の父親は、妻をさほど顧みず、「確かに加害者側だが、主張すべきことは主張する」というスタンスを崩さない。確かに彼の主張は、とても筋が通っているように僕には感じられた。彼の主張の根底には、「確かに私たちは失敗したし、そのことを否定するつもりはない。ただ、間違いなく努力もしたのだ」という感覚がある。そして、「失敗した」という指摘は受け入れるが、「努力しなかった」という指摘は受け入れないのだ。
その姿は、全体的に「冷徹」なものに見える。被害者家族からすれば、余計にそう感じるだろう。出来るだけ口に出さないようにしているものの、「お前の息子が、ウチの息子を殺したんだぞ」という気持ちは間違いなくあるのだし、そういう視点で見れば、加害者の父親はあまりにも「冷静」に見えてしまう。
しかし、被害者家族の2人は対話の冒頭、加害者の父親が発したある言葉に引っかかる。その言葉を正確には覚えていないのだが、「自分に責任があると感じている」みたいな表明に対してだった。被害者家族の2人は確か、「そんな話を聞きたいんじゃない」と言ったのではなかったか。いずれにせよ、加害者の父親の「自責の念を抱いている」という言葉に、違和感を示していたことは確かだ。それでいて、今度は「感情が見えない」みたいなことを言う。このような「支離滅裂さ」が、映画の中に充満していて、異様な緊迫感に包まれていると言っていいだろう。
映画の中盤は、僕的には「被害者家族に対する違和感」が募っていった。先程も書いたが、どう考えても「加害者の父親」の主張の方が真っ当に感じられてしまうのだ。彼の「冷静さ」がマイナスであることを考慮しても、僕は「加害者の父親」のやり取りに軍配を上げたいと思った。
そのまま行けば、そのままの印象で終わっただろう。しかしそうはならない。というか本当に、どういう方向に展開するのかまったく予測のつかない作品で、ずーっと「そんな風な展開になるんだ」と思わされる感じがあった。「立ち上がってティッシュを取りに行く」みたいな些細な行動にも、二重三重にも意味を考えてしまいたくなるような状況においては、誰かのほんの一言が、誰かのちょっとした行動が、大きな揺らぎをもたらすことになってしまう。その繊細さが溜まりに溜まって随所で爆発する展開は凄いし、ってか役者が凄い。この作品、ホントによく成立させたものだと思う。役者が凄い。
「状況設定」と「会話」だけでこれだけの作品を生み出せることが凄まじいと感じた。とんでもない映画を観たなという感じだ。