【本】永井均「翔太と猫のインサイトの夏休み」

僕は普段から変なことばかり考えて生きている。このブログにこれまでもたくさん書いてきたけど、そういう僕の変な考え方をざっと羅列してみようと思う。
まず、北海道は実在するのか、という話がある。これは別に北海道でなくても別にいいのだけど、このブログで書いた時は北海道を使った。
僕は北海道に行ったことがない。地図で見たことはあるし、映像で見たこともたぶんあるし、そこに何があるのかも知ってるし、北海道出身の友人もいるのだけど、でも自分の目で北海道を見たという経験はない。じゃあもしかしたら北海道という土地は存在しなくてもおかしくはないのではないか、という話です。もしかしたら周りの人間が「ある」と言っているだけで、実際は北海道なんて場所は存在しないのではないか、なんてことを思っているわけです。
また、これは結構一般的に皆思っていることではないかと思うけど、人は皆色を同じものとして認識しているのか、という話です。
例えばトマトがあって、それは「赤色」をしているのだけど、しかし僕が見ているのと他の誰かが見ているのとでは色は同じなんだろうか、ということです。これは結局どうやったって検証できない問題だけど、違う色に見えていてもおかしくないな、と僕は思ったりしているわけです。
またこんなことも考えますね。僕は、世界中の人間から嫌われている、という風に思って生きているわけです。
これは特別な根拠がある話ではなくて、自分でそう決めたというだけのものです。僕は結局、ある人間が自分を嫌っているかどうかを外側から判断することは絶対に出来ない、という結論に達したわけです。相手が自分のことを嫌っているということは態度でわかるかもしらないけど、相手が自分のことを嫌っていないということは絶対的な確信を持って言うことが出来るわけがないな、と思ったわけです。
それで、ここからが大いなる飛躍なのだけど、だったら世界中の人に嫌われていると決めてしまった方が気が楽じゃないか、と僕は思い至ったわけです。僕の場合、誰かに嫌われているという状態が嫌なのではなく、誰かに嫌われているかもしれないしそうではないかもしれないというどっち付かずの状態が嫌なわけです。だったら、誰からも嫌われているという前提の元で生きている方が自分が安定できるのではないか、とまあそんなことを中学の頃に考え、今でもそれを実践しているというわけです。実際そう考えるようになってから、多少は生き易くなったかな、という風に思います。
また、科学は万能かという話もブログに書いたような記憶がありますね。つまり、世の中のことはすべて科学によって解明することが出来るのか、あるいは科学という立場からでは解明できないものは存在するのか、という話です。
僕は、科学で解明することが出来ないものがあってもおかしくない、という立場です。僕の実際的な気持ちとしては、恐らく世の中のほとんどのことは科学で解明されるだろう、と思っています。思っていますが、しかし科学で解明できないものが存在するということを否定することがやっぱり出来ないわけですね。もちろん、科学で解明できないものが存在する、という結論は実際には導かれることがありません。ただ、未だ科学では解明できないものが存在する、という事実が存在するだけで、科学という体系の中で『科学によってこれは解明することが出来ない』という結論が出てくることはまずありえません。それはもちろん分かっていて、しかしそれでも科学では解明できない問題がありそうな気がしてしまいます。そう感じてしまうのには、数学の不完全性定理のことがあるのかもしれません。この不完全性定理というのは、ある数学の体系の中には、その体系の中で真か偽かを決めることの出来ない問いが存在する、ということを証明したもので、これをそのまま科学に適応させれば、科学という体系の中で証明することの出来ない問題が存在する、ということになりそうかな、なんて思ったりするわけです。
また、科学で解明できない云々に関連して、不可思議な現象を信じるか、という話があります。幽霊とかUFOとかテレパシーとかタイムトラベルとかまあそういう話ですけど、こういう話を信じるかどうか、です。僕は、これも同じくまあそういう不可思議な現象を否定することは出来ないだろうな、という風に思っています。感覚的にはそういう不可思議な現象はありえないと思っているのだけど、でも絶対的な否定を出来るほどの根拠があるわけでもない、というような立場です。
あと、これはブログで書いたことはないと思うのだけど、古代には現代よりも遥かに高度な文明が存在していたのではないか、という可能性を僕は考えたりしています。現代より高度というのはつまり、今の携帯電話やパソコンなどの器機よりもさらに高度な器機が存在した時代があってもおかしくないのではないか、ということです。
これは実際遺跡なんかで発掘される出土品なんかから考えればありえない話です。でも僕はこういう風に思ってしまうわけです。
その古代にあったかもしれない高度な文明は、物質を土に還す技術を開発したわけです。それによって、不要なものはすべて土に還るようになり、そのためにその古代の文明の痕跡が一切残らない、ということになったわけです。
僕がこんなことを考えるきっかけになったのは、世界中に残るオーパーツと呼ばれるものの存在があります。オーパーツというのは、その当時の技術では作ることは不可能だったはずのもの、というような定義で、僕が今思い出せる限りでは、水晶で彫られたドクロ像なんかがあります。水晶というのは無茶苦茶堅いので、当時あった技術では彫刻を施すことは不可能だ、ということのようです。しかしそれは実際に存在する。また、飛行機なんてものが存在しなかった時代に飛行機の模型なんかがあったりするのもオーパーツと呼ばれたりします。
また、これもよく書くことだけど、50歳までには死にたいという風に思っています。50歳という部分に明確な根拠があるわけではないけど、とにかく長生きはしたくない、ということです。長生きをしたところでどんなメリットがあるのか分からないし、長生きをしたいという発想そのものが理解できないわけです。死ぬというのは怖いことだけど、しかし無駄に長生きをするというのも僕の中で同じくらい恐ろしいことだったりします。

また、何で自分は生きているのだろう、みたいなことも時々考えます。昔は時々どころではなく考えました。もちろん結論めいたものは特に出てこないわけだけど、でも恐らく自分が生きていることには意味なんて全然ないのだろうな、という風に思ったりします。
とまあいろいろ書いてみたわけだけど、考えている内容は全然違っても、まあこういうようなことは誰もが考えることだろうな、と思うわけです。考えることに意味がなさそうなもの、そんな結論を導いてだからどうなんだというものなどいろいろあるわけだけど、でもつまりこういうのは、考えることそのものに意味があるのだろうな、と思ったりするわけです。
正しい答えがあるというわけではなく、結局はどういう形に落ち着いてもいい。自分が納得できることが一番だけど、たとえ納得できなくても、そういう筋道で自分が『考えて』しまったのだとしたら、それはもはや受け入れるしかない、というようなことです。
要するに、そういうことを考えるということが『哲学』ということなのだろうな、と思います。本書でも、哲学というのは思想ではない、と繰り返し書かれています。哲学というのは主張の内容ではなく、その主張をする時にどうしてもついて回ってしまう枠組みそのものである、と。哲学をするのに本を読んでいてはだめで、とにかく自分で考えなくてはいけないのだ、と。そしてその考える問いというのは、答えが既に存在するものであってはいけない。その問いの前にたって呆然とするような、そんな問いでなくてはいけないのだ、と著者は言います。
また著者はこうも言います。14,5歳を越えた人間に本当の哲学は出来ないのだ、と。そして、あらゆる意味において、子供というのは哲学者なのだ、と。だからこそ本書は子供向けということで書かれている。
誰しもが実は生活の中で哲学をしている。答えのない問いを考えるということそのものが哲学であり、考えることで得た結論の中にではなく、考えるということそのものに哲学は存在する。誰もが、ある意味で哲学とは無縁ではいられない。これからも、くだらなくてもいいからあらゆることを考えながら生きていこう、とまあそんなことを思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、哲学者である永井均が、中高生向けに哲学というもの書いた本です。
本作は、翔太という中学生とインサイトという名の猫の対話形式によって構成されています。翔太は夏休みに入り、毎晩夢を見る。その夢の内容からインサイトと哲学談義に入る。本書を読むために哲学の基本的な知識は不要で、難しい言葉もそこまで出てこないので、確かに中高生から読むことが出来る本だと思います。
本書は大きく四つに分かれます。

「いまが夢じゃないって証拠はあるか」
この章ではタイトルの通り、今僕らがこうして過ごしていると思っている現実が夢であるということが考えられるか、というところから話が始まります。そこから、昔のSF小説で描かれた「培養液の中の脳」という話が出たり、あるいは人間の感覚や存在するということそのものなんかについての話になります。

「たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとは」
この章は、他人に心というものが自分と同じように存在するのか、ということと、自分がいないところでも他人はちゃんと存在して生活をしているのだろうか、という二つの疑問から話が始まります。そこから、ロボットには心があるのかという話や、あるいは脳がすべての感覚を支配しているというのは嘘ではないのか、『ぼく』が『ぼく』であるということはどういうことか、というような話になっていきます。

「さまざまな可能性の中でこれが正しいといえる根拠はあるか」
この章は、正しいということはどうやって決まるのか、というようなところから話が始まります。ナチスやオウム真理教が正しかったというような可能性はありえるのか、というような。そこから人間の認識や価値観なんかの話になっていきます。

「自分がいまここに存在していることに意味はあるか」
この章は、自分の存在というのは何によって明確にされているのか、というところから始まります。何がどうであれば『ぼく』という存在が存在していると言えるのか、という話です。そこから、意思と欲望の話、あるいは時間や空間というのはどういうものなのか、という話になっていきます。

というような感じの作品です。
なかなか面白い本だなと思いました。正直言って、結構難しい本だとは思いました。確かに文章は平易だし、難しい言葉も全然使っていないのだけど、それでも難しい。文章を論理的に咀嚼するというのは大変なんだと思うのだけど、それでもなんとか頑張って読んでいくと、なんとなく分かった気になる。この『分かった気になる』というのは本当は哲学としてはダメで、本当は自分で考えないといけないのだけど、それでもまあ哲学の入門の入門を体験するという意味ではなかなかいい本なんではないかなと思いました。
僕がこれまで考えていたような命題もたくさん出てきて、しかもそれらについて面白い考え方をしているわけです。まあ別に自分の考え方が間違っていると思ったわけでもないのだけど、そういう考え方も確かに出来るようなという風に思えました。
本書の中でかなり理解することが出来、なるほどこれはそうだなと思った話があります。それは端的に言うと、「そうである可能性は存在するけど、しかしそれに意味のある根拠がない場合、それ自体に意味はない」というような感じになります。これについてすごくいい例が最後に載っていたので書いてみます。
あるものさしがあるとして、しかしそのものさしの長さがなんかおかしいなと思ったら、別のものさしを持ってきて長さを比較することが出来ます。しかし、例えばだけどもしも世の中にものさしが一本しか存在しなかったとしたらどうなるか。確かにその一本しかないものさしの長さが違うという可能性は存在する。しかしそれは確かめようがないし(世の中にものさしは一本しかないのだから比較できない)、またもしそのものさしの長さが違っていたとしても、その『間違っている』ということに何か根拠を見出せない限り、『そのものさしの長さが間違っているかもしれない』という問い自体に意味がない、ということになるということです。
この論法を使うと、北海道が存在しないかもしれないという話と、人によって色が違った風に見えているかもしれない、という話が論破されるわけです。
例えば北海道の場合は、北海道が存在しないという可能性は確かに存在するけど、北海道が存在しないということに意味のある根拠が見出せないわけで、ならそれを考えることに意味はない、ということになります。同じく色の場合も、確かに人によって同じ色を違った形で見ているという可能性は存在するけど、しかしそうであることに意味のある根拠を見出すことは出来ないので、その問い自体に意味がない、ということになります。この論法はなるほどな、と思いました。
また、例えば北海道の場合、北海道が実在することを実際に行って確かめることが出来るわけですけど、でももしも実際に北海道が実在しないという場合でも話に変わりはないわけです。
その例として本書では、天動説と地動説の話が載っていました。地動説を唱えたのはガリレオということになっていますが、しかしそれよりも以前に地動説のことを考えたことのある人というのはいたみたいです。その人はその時代の文脈に沿ってそれを示すことが出来なかったわけです。つまり、その人はたまたま真理を当ててしまっただけで、真理について理解していたわけではないわけです。
もし実際に北海道がなかったとしても、僕はそれをたまたま当ててしまったというだけであって、真理について理解しているわけではありません。もし北海道が実在しないというのであれば、その実在しないことに何か明確な根拠を見出すことが出来ない限り、その主張に意味はないというわけです。この論法はなかなか面白いなぁ、という風に思いました。
というわけでまあ、哲学的な部分については難しいところもあって読むのが大変だったりするのだけど、それでもかなり面白い作品だと僕は思いました。
ただ一箇所、絶対間違っていると言える部分があって、それは例として数列の話が出た時のことです。

1、2、3、5、□、□
このように数字が並んでいる時、二つの□には、「7,11」と「8,13」という組み合わせが考えられる

みたいなことが書いてあるのだけど、これは絶対間違ってますね。
「8,13」の方の組み合わせはいいわけです。前の二つの数を足すことで次の数になるというフィボナッチ数列の話だから。しかし、「7,11」の方はダメですね。何故なら、この数列はつまり素数であるということを示したいのだと思うのだけど、「1」は素数ではないのでこの数列は成り立たないということになります。まあ、哲学的な部分について正しいかどうかを指摘することは出来ないけど、この部分だけは絶対間違っているだろうな、と思いました。
まあそんなわけで、正直子供が読むには多少ハードルが高い気がするけど、それでも頑張れば子供にも読めるだろうし、大人だってもちろん充分読める本です。普段考えているようなことについて新しい考え方が見えてくるかもしれません。なかなか面白いと思います。読んでみてください。

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