【映画】「本心」感想・レビュー・解説
さて、ちょっと何とも言えない作品だったなぁ。平野啓一郎の原作は未読だから勝手な予想なんだけど、恐らく原作はかなりの長編なんじゃないかと思う。それを2時間の映画にまとめようとして、ちょっと断片的になってしまったんじゃないか、みたいな気がする。個人的には、ちょっと要素が多すぎて、映画1本のまとまりとしては弱かったような気がしてしまった。
さらに、本作は宣伝での打ち出し方として「AIで作り出した母親との対話」みたいな部分が全面に押し出されていると思うが、少なくとも映画では、この点がメインで描かれているわけではないと感じた(原作はどうか知らないが)。映画ではむしろ、「AIが当たり前に広まったことによって生まれた『リアルアバター』という職業」の方こそが中心に存在するように思えた。
「リアルアバター」というのは「ウーバーイーツの何でも屋」みたいな感じの説明が一番わかり易いだろう。リアルアバターは客からの依頼に応じて、カメラを持ったままどこへでも行く。入院患者の思い出の地を回ったり、それこそ「どこそこに何かを届けてくれ」みたいな依頼もある。何でも屋だ。そしてそんな「リアルアバター」が日常生活の中に当たり前のように入り込んでいる世界こそが、本作の中心軸に存在するように感じられた。
そしてその話は、個人的にはちょっと興味深く感じられた。特に、後半で描かれる、主人公・石川朔也が振り回されるような依頼については、凄くリアルだなと思う。僕らが生きている世界では、「タイミー」のようなスキマバイトアプリが少し近いように思うが、「評価制度をある種”悪用”するような形で他人を動かしていく」みたいなことは今もきっとあるだろうし、今後もっと増えるだろう。そういう、実に嫌な世界がリアルに描かれている感じがあって、個人的にはそっちの方が面白かった。
『本心』というタイトルは、「自由死を選んだ母親が話したがっていた『大切なこと』を聞き出すためにAIを作る」みたいな部分に絡んでくるのだと思うけど、この辺の描写はちょっと何とも言えなかった。まあ、平野啓一郎が原作なのだから、割と哲学的なちょっと難しい話で描写しているんだろうし(たぶん)、だとすれば、それをまるっと映像に落とし込むのは難しいだろう。
それはそれとして、映像的に打ち出しやすかったのは「接触」についてだろう。AIで作り出したVF(ヴァーチャル・フィギュア)には実体がないので、もちろん触れることは出来ない。それは、AIが扱われる世界ではよく描かれることだが、それと対比(なのか?)させるような形で出てくるのが三好彩花である(この三好彩花を、女優・三吉彩花が演じているのが何ともややこしい)。
三好彩花は「人間が怖くて触れることが出来ない」という存在として登場する。彼女と最も関わるのは主人公の石川朔也で、つまり朔也視点で言えば、「実体が無いからこそ触れられない母親」と「実体があるにも拘らず触れられない三好彩花」の2人と関わることになるのである。この辺りの描写は、小説よりも映像の方がやりやすいだろう。特に、「踊ろう」と言った後の振る舞いが印象的だった。
「触れる・触れない」という物理的な距離感は、ある種「心の距離」と読み替えることも可能だろうが、「心の距離」という意味でも「リアルアバター」の存在は興味深かった。だいぶ後半の話なので具体的には触れないが、ある人物がリアルアバターを使ってとても大事なことを口にする場面がある。「リアルアバター」というのは物理的な存在だが、その物理的な存在を介して繋がる者同士の距離は離れている。そして、「『リアルアバター』を使うこと」が当たり前になりすぎた世の中だからこそ、その事実、つまり「物理的な距離は離れているのに、『リアルアバター』を介して直接関わっているような感覚になれてしまう」ことが、逆に「心の距離」を広げてしまっているような感じもあった。ある人物が、あの場面でどうしてリアルアバター越しに大事な話をしようと考えたのか分からないが、なんとなくそんな「便利なツールを使いすぎた人間のバグ」みたいなシーンに感じられて、そのことも面白かった。
さて、「心の距離」とは少し違うかもしれないが、映画を観ながら、「やっぱり僕は、『AIが人間の人格を再現する』みたいな話には与せないな」と感じた。そのきっかけになったのが、VFを作成する会社の技術者である野崎将人のある発言だ。彼は、石川朔也にVFの使い方を説明する際に、「もし、普段と違うようなことを言ったら、『そんなことは言わなかったよ』と優しく語りかけて下さい。AIが学習して修正しますので」と口にしていた。
僕にはこの発言は、とても違和感のあるものに感じられる。その辺りの説明をしていこう。
さて、野崎の発言から、彼が「人格」というものをどのように捉えているのか類推してみよう。それは、「受け取った側の主観こそが『人格』である」と要約できるのではないかと思う。何故なら、「そんなことは言わなかったよ」と口にするということは、「私が捉えているあなたの人格」というものがあり、それこそが「あなたの人格」である、という認識でいると考えるしかないからだ。
もう少し説明しよう。X氏という人物がいるとする。そして、X氏のことを知る3名、A氏・B氏・C氏がいる場合に、「A氏が受け取ったX氏の人格」「B氏が受け取ったX氏の人格」「C氏が受け取ったX氏の人格」が個別に存在しているというのが、野崎の捉え方ではないかと思う。こう捉えなければ、「そんなことは言わなかったよ」と相手の人格を修正するような発言は出てこないだろう。
しかし僕は、「人格」というものをそうは捉えない。先程の例を使うなら、「X氏の人格」というものがまず存在し、それが「A氏には◯◯に見えている」「B氏には△△に見えている」「C氏には□□に見えている」というのが、私の「人格」の捉え方である。
さてこの場合、「そんなことは言わなかったよ」と諭したくなるような発言が出てきた場合の解釈が異なることになる。「X氏の人格」という単一のものを想定する場合には、「なるほど、自分にはまだ見えていなかった別の側面が存在したのか」という理解になるはずだからだ。そして僕は、そうでなければ人間関係は楽しくない、と考えている。僕は関わる人間に対して未来永劫、「へぇ、そんなこと考えてたんだぁ」と感じていたいと思っているし、そんなふうに感じられない存在とはあまり関わりたくないとも思っている。
そしてだからこそ、「AIが作り出した人格」に対して興味関心を持てないのだろうと考えている。
さて、少し話は変わるが、「未来世界の考古学」について考えてみよう。例えば、今から1万年後の世界だ。その世界では恐らく、2024年の「電子データ」を閲覧する方法は既に失われているだろう。その場合、我々が生きている2000年代の世界は、1万年後の人からはどう見えるだろうか?
恐らく文字情報は1万年後も残るはずだが、僕たちは既に文字をリアルに書くことなどほとんどない。印刷された本は一部出土するかもしれないが、「本で描かれていること」と「僕らが生きている世界」はなかなかイコールにはならない。SNS的な情報が一切ないまま2000年代を捉えることは不可能で、恐らく1万年後の未来においては、2000年代の生活はかなり誤解して伝わるんじゃないかと思う。
そして僕は、同じことが、縄文時代とか平安時代を捉える際にも起こっているんじゃないか、と思っている。確かに記された文字は残る。しかし、僕らが知らないだけで、2024年には解読不能何らかの情報がかつては存在し、それらがまったく存在しないことになっている、なんてことはあり得るはずだ。
例えば分かりやすいのは「歌」だろう。琵琶法師みたいな存在がイメージしやすいだろうが、「口伝で伝わったこと」というのは残らない。そして、2000年代の生活を捉えるにはSNSやインターネットの情報が存在しなければその輪郭さえ捉えられないのと同じように、昔の時代の生活も「歌(や喋っていること)」の内容を知らなければ全然捉えきれない可能性があると思う。
さて、何の話をしているかと言えば、「AIで人格を再現する時に入力する情報」の話に関係している。こちらの場合は、むしろ電子データの方が重視されるわけだが、それでも「人間を構築するための情報」がすべて手に入るわけではない。例えば「感情」。「その時何を感じたのか」という情報は、少なくとも今は「1次情報」としては手に入らないだろう。「その感情を言語化したもの」は存在しうるが、個人的にはそれは「2次情報」に感じられる。「感情を感情のまま保存・移植する技術」でも発明されればまた別だろうが、それは「脳を丸ごと作る」のと同じことだろうから、やすやすとは完成しないだろう。
というわけで、どんな情報をAIに入力しようが、それは「1万年後に、電子データ無しの状態で2000年代を再現しようとする」ようなもので、僕には意味があることには感じられない。正直、「脳に直接電極かなにかをぶっ刺して、直接情報を取り込む」ぐらいやらないと、「人格」は再現できないだろう。
ただ、本作でもちゃんと、「VFには人格は存在しない」と説明がなされる。そう、VFは決して「人格を再現しますよ」とは謳っていないのだ。そういう意味では良心的と言えるだろう。ただ、それはそれとして、野崎は「本物以上のお母様を作れますよ」とも口にする。これは一体どういう意味として捉えるのが正解なのだろう?
「本物以上」という言葉は普通、「定量的・定性的に数値化出来るもの」にしか使えないように思う。「この合成ダイヤモンドは本物以上の輝きを放ちますよ」とか、「この合成肉は本物以上の旨味がありますよ」みたいなことだ。しかし「人格」は数値化出来ない。だから「本物以上」というのがどういう状況を指すのか不明だ。イメージ出来るのは、「金の斧」をベースにした「きれいなジャイアン」だろうか。池に落ちたジャイアンが「きれいなジャイアン」になって戻って来るという話だが、「いやいや、池に落ちた本物のジャイアンを戻してくれよ」という話だろう。それと同じで、「本物以上のお母様」に、どんな価値があるのかは謎である。
まあそんなわけで、色々考えさせられる話であることは確かだろう。「AI」と「人格」という話はまあよくある取り合わせだろうが、「リアルアバター」や「自由死」という設定との取り合わせは良かったと思うし、人によって捉え方が様々な作品になっているんじゃないかと思う。
さて最後に。エンドロールに「田中泯」ってあって「えっ?どれ?」と思ったのだけど、そうかあのおじいさんだったか。全然認識出来なかった。ただ、未だに分からないのが「窪田正孝」である。どこに出てた? マジで未だに分からない。