【映画】「WILL」感想・レビュー・解説
いやー、これはメチャクチャ面白かった! 正直、観るかどうか迷ってて、観ない可能性の方が全然高かったので、マジで観て良かった。
観ない可能性が高かった理由は、シンプルに、東出昌大に特に興味がなかったからだ。それは別に、「スキャンダルを機に嫌いになった」とかでは全然なく、別にずっと特段の興味を抱くような対象ではなかった。役者としても、どちらかと言うと「この人は演技上手いのかなぁ」と感じてしまうような人だったし、それ以上に僕の琴線に触れるような事柄が特になかったので、関心の抱きようがなかったというのが正しいところだろう。
しかし僕は、本作を観て、東出昌大のことがかなり好きになった。積極的にその動向を追うことはきっとないだろうが、折に触れて「今どうなんだろう?」みたいに思い出す対象にはなったと言える。そして、ちょっと変な表現だが、「東出昌大は結果として、週刊誌報道で色々ゴチャゴチャして良かったのではないか」とさえ感じさせられた。
本作を観て僕が一番驚かされたのは、彼の「人間力の高さ」みたいなところだ。「人間力」というとちょっとズレるか。「人からの好かれやすさ」とでも言えばいいか。
本作は、狩猟免許を取得した東出昌大が、実際に山で銃を撃ち、狩猟を行う生活を中心に展開していく。もちろん、彼より遥か年上の猟師仲間もたくさんいる。そして東出昌大は、そういう人たちからかなり愛されているのだ。キャンプ場の経営者は、空いている時に自身が保有する小屋みたいなものを自由に使っていいと申し出るし、他にも色んな人が東出昌大に協力している。東出昌大が行っているのは「単独忍び猟」という、罠も仕掛けずに1人で山に入り猟を行うというスタイルなのだが、本作には、東出昌大が「単独忍び猟が一番うまい人」と評する服部文祥も登場する。そして彼もまた、スキャンダルで世間から叩かれまくっている東出昌大に対して、「大変だろうけど、山屋はそんなこと全然関係ないから、いつでも来い」と連絡したそうだ。
あるいは、猟師でもありシェフでもある阿部達也は、「猟師は銃を持つし、殺し合いも出来るわけだから、信頼した人としか山に入りたくない」とはっきり口にした上で、東出昌大のことを「命の取り合いで生まれた、一生の関係」と評するのだ。
他にも、まあ中には「俳優・東出昌大」にワーキャー言っているようなタイプもいるわけだが、そうではなく、「猟師・東出昌大」のスタンスに関心や敬意を抱き、様々な形で関わろうとする人たちが映し出されるのだ。映画の後半では、そんな「猟師・東出昌大」を知る者たちが口々に、「狩猟なんか趣味なんだから、彼には芸能界で頑張ってほしい」みたいに言うのだ。本当に、「東出昌大」という個人を純粋に応援しているという雰囲気が伝わってきた。
とりあえずこのような「愛され力」をここでは「人間力」と呼ぶことにしようと思うが、本作を観て、その点が最も印象的だった。
その「人間力」は、映画後半で最大限に発揮されると言っていいだろう。どうやって見つけたのか、週刊誌の記者とカメラマンが、山奥に住む東出昌大の元を直接訪ねてきたことがあったのだ。
初めは、猟師仲間として知り合った女性猟師のマツハシさんと一緒に車に乗っているところを撮られたそうで、記者から「新しい恋人ですか?」みたいに直撃されたそうだ。東出昌大は、それは違うんですよ、みたいなことを30分ほど喋った後、なんと彼らを自身が住む家に案内し泊めてしまうのだ。本作中には、その「直撃された時のことを再現したシーン」も映し出されている。
作中では、ワタナベというカメラマンとニイツという記者も出演しており、取材のような雑談のようなことをしている様子がカメラに収められている。ワタナベは、東出昌大が乗っているプリウスの錆が酷いのが気になったそうで、家に転がっていた錆取り剤を持ってきたといい、自らそれを車に塗りつけていた。普通に考えて、週刊誌と突撃された人の関係としてなかなか異様だろうし、さらにそれが「週刊誌報道によって大変な目にあった人物」であるならなおさらだ。
しかも、そんな話はまだある。なんと今度は、「週刊文春CINEMA」が取材にやってきて、それも東出昌大は受け入れるのである。タカイチという編集長について東出昌大は、「その時信じたいと思って自分の行動を決めているから、その後で裏切られたとしても仕方ないって思う」みたいなことを言っていたが、まさに自身を追い落としたといっていい「週刊文春」と同じ会社の人間を笑顔で受け入れていく感じはなかなか凄い。
恐らく、そういう様を普段から観ているのだろう、誰なのか分からないが、ある女性が東出昌大に、「怒ったりイライラしたりすることってないの?」みたいなことを聞く場面がある。とにかく東出昌大の周囲にいる人は、彼がそのような姿を見せることが無いことに驚かされるそうだ。それに対して東出昌大は、「余計なカロリーを使いたくない」「人を責めてる余裕なんてない」みたいな話をしていた。
その流れで言うなら、週刊誌報道以降、色んな形でバッシングなどあったが、それらに対しても、「『人を吊るし上げよう』なんてマインドで生活してるのなんて辛いっしょ」「普段の生活辛いのかなって心配になっちゃう」とみたいに言っていたのだ。割とこういう発言を、作中の随所でしており、ホントにそんなふうに思ってるんだろうなぁ、みたいに感じさせられた。
週刊誌の報道で言えば、「東出昌大は山奥で、複数の若い女性の役者と同棲みたいな状態になっている」みたいに報じられたことがあった。僕も、見出しだけそんなネット記事をチラ見した記憶がある。その実態についても本作では描かれていた。
東出昌大は元々、ある場所に自力で家を建てるつもりだったが、道路に面していることもあり人目をなかなか避けられず、やむを得ず、キャンプ場経営者の私有地にある建物の中に住むことになったのだそうだ。で、しばらくすると、そこに東京から友人やら俳優仲間などがやってくるようになる。さらに、「いついつはいる?」みたいな連絡を受けた東出昌大が、「その時期は東京で仕事だからいない」と返すと、「まあそれでもいいや。近所の人に助けてもらうから」と、東出昌大が不在の時にも勝手に人々が集まるようになってきたというのだ。
そんなわけで、東出昌大が住む家は、地元の人たちと東京から来る東出昌大の友人・役者の後輩たちのたまり場になっていく。
そしてその中に、恐らく東出昌大に憧れてだろう、東出昌大が獲ったのだろう獲物をナイフで解体する女優が2人いる。ネットで調べると、普通に東出昌大との関係が出てくるので名前を出してもいいだろう。烏森まどと松本花林である(週刊誌報道では3人となっていたが、少なくとも本作に登場するのはこの2人だ)。「東出昌大で同棲!」と報じられるとなんか淫靡な感じもするが、映画の中では2人とも、鹿だかなんだか分からないが、ガチで動物の解体をしていた。しかも、先程も書いた通り、東出昌大の家は地元の人も集まるたまり場であり、「同棲中」という表現もちょっとしっくりこない。確かに、週刊誌が嘘を書いているというわけではないだろうが、本作でほんの僅かだったが女優との生活が映る場面から判断すると、週刊誌が報じるような雰囲気では全然無いのだなと感じた。
さて、冒頭で僕は、「東出昌大は結果として、週刊誌報道で色々ゴチャゴチャして良かったのではないか」みたいなことを書いたのだが、そう思う理由は、本作に映る東出昌大が実に生き生きしているからだ。彼は様々な場面で、「文明の中で生きていると深く考えずに生きていけるし楽だが、山の中はすべての責任が自分にあるし、生きているという実感が得られる」みたいな話をする。彼は元から、仕事の合間に食べるご飯に味を感じないと言っていたのだが、猟師としての生活をし、「生き物」を殺してその生を直接戴く生活を続けることで、「食べることが生きることである」みたいな実感にもなっていったそうだ。
僕は正直、「『文明からしか得られないもの』でしか自分自身を成立させられない」と理解しているので、山奥で狩猟をするような生活にはまったく憧れないのだが、文明から少し離れて、東出昌大のように生きることが性に合う人もいるんじゃないかと思う。服部文祥は本作の中で、「都市生活を行う者は、地球にとっての癌だ。自分は、癌になりたくないから狩猟の生活をしている」みたいなことを言っていたが、東出昌大と同棲していると言われる女優も、なり手が少ないと言われる女性猟師になった人も、そういう感覚から猟師的な生活に惹かれる部分があるのではないかと思う。
本作には、事務所を退所した東出昌大が最初に出演した映画『福田村事件』(森達也監督)の撮影の様子も映し出されるのだが、同じ作品に出演しているコムアイに東出昌大が髪を切ってもらうシーンも映し出される。そしてコムアイが会話の中で、「私むかし、鹿とか解体してて」みたいな話をするのだ。そういえば、彼女がかつて所属していた「水曜日のカンパネラ」は、ライブ中に解体ショーをやっていたみたいな話を覚えていたので、「なるほど、まさかそこで東出昌大と繋がるのか」と感じたりした。
さて、本作は実は、東出昌大が事務所を退所したから実現したと言える作品である。というわけで少し、本作が作られた経緯と、東出昌大が猟師になったきっかけについて触れておこうと思う。実はその両者は割と密接に関係しており、さらに、東出昌大のスキャンダルもまた、ある意味ではこの映画の制作が動き出すきっかけの1つになったとも言えるので、本作中で断片的に提示される情報を少し繋げて、私が理解した時系列順に並べてみようと思う。
僕はそもそも、「スキャンダルで東京にいられなくなったから、狩猟免許を取得し、山奥で暮らすようになった」みたいになんとなく理解していたのだが、全然そんなことはなかった。東出昌大が狩猟免許を取るきっかけになったのは、2017年に出版した写真集『西から雪はやって来る』(宝島社)だったそうだ。
この撮影の中で彼は、先程少し紹介した猟師兼シェフである阿部達也と出会う。実際に撮影の中で、猟師の格好をして銃を持ったり、獣を解体するような場面も収められているという。そしてその撮影の中で、「狩猟免許取っちゃえば?」みたいに言われたのだそうだ。東出昌大は、その時に食べた何かの動物のスペアリブが凄まじく美味かったと話していて、「もしこれがマズかったら、猟師にはなってなかったでしょうね」と言っていた。
そもそも、彼の父親がキャンプ好きで、山にはよく入っていたそうだ。また、藤岡弘、みたいな話だが、彼もまた幼稚園の頃に父親からナイフをもらったことがあるそうで、そのような経験も結果として、彼を猟師の道へと進ませるきっかけになった、みたいなことを言っていた。
さて、苦労して狩猟免許を取得した後、東出昌大はNHKで本を紹介する番組に出演が決まる。そこで、誰を呼びたいかとスタッフを打ち合わせる中で、猟師の服部文祥の名前を出したのだそうだ。こんな風にして彼は、スキャンダルが報じられる以前から猟師としての生活に少し足を踏み入れていたのである。
一方、本作の監督であるエリザベス宮地は元々、『いのちのうちがわ』という写真集を発表していた石川竜一の写真を元に、短編映画を作ろうと考えていた。その写真は、服部文祥と共に山に入り撮影した獣の内蔵の写真であり、そこからエリザベス宮地は服部文祥とも関係が出来る。
その中で、「東出昌大が猟師をやっている」という話を耳にすることになる。さらに、「東出昌大がお前(エリザベス宮地)の話をしていた」みたいなことも聞かされたのだ。実は2人は、MOROHAという音楽ユニットのライブ会場で何度か会う機会があったのだという。エリザベス宮地はMOROHAのMVを撮るなど元々関わりがあり、東出昌大の方もMOROHAのアフロとは長年の友人だったそうで、本作中にもMOROHAのライブ映像が使われている。
(しかし全然関係ないが、公式HPでエリザベス宮地の略歴を見ていて驚いた。優里の『ドライフラワー』のMVの人だそうだ。もしかして、前に「関ジャム」に出演していた人だろうか)
そこでエリザベス宮地は、「東出昌大が狩猟をするドキュメンタリー」という企画を作ったのだが、東出昌大の事務所がNGを出した。映画の中で東出昌大も、「俳優にとって、狩猟のドキュメンタリーなんか禁忌なのはもちろん分かってるけど」みたいなことを言っている場面があったのだが、正直理由はよく分からない。「動物愛護団体からの批判が云々」みたいなことも言っていたので、「そういう観点から批判が起こるだろうし、認められない」みたいな判断だったのだろうか?
ともかく、事務所NGによって一旦企画が頓挫した。しかしその後、東出昌大がスキャンダルでゴタゴタし、さらに度重なる色んなことがあった結果、東出昌大が事務所を退所するという話になったのだ。これをきっかけに、東出昌大からエリザベス宮地に連絡があったという。つまり、「事務所を対処するから、前に出してたあの企画、やれますよ」というわけである。
(ちなみに、この事務所の退所についても東出昌大は言及していた。彼は事務所には感謝しかないと言っていたし、事務所が発表したコメントにも、愛ある文章が散見されていて、嬉しかったそうだ。しかし一方で、それが報道に乗ると、どうしても「悪く書かれている部分」ばかりがクローズアップされることになるから、印象がどうしても自分の思っているのとズレていく、みたいに言っていた)。
さて、東出昌大は「事務所の退所」をきっかけにこのドキュメンタリーの企画を再始動させることにしたのだが、実はそこには別の理由もあったそうだ。実はその話こそ、本作のタイトル『WILL』に繋がっていくものだったりする。本作は、最後の最後に「WILL」というタイトルが表示される構成になっているのだが、これがとても上手かった。具体的な話は触れない方がいいかなと思うので、ここでは「東出昌大がこのドキュメンタリー制作に込めた想い」には触れないが、それを知ると余計に、「なるほど、そうだとするならば、本作の中で東出昌大は、一層『素の自分』を出そうとするだろう」と感じた。まあ、退所後に使用する宣材写真の撮影現場では、「カメラの前で『素の自分』なんか出ないですよねー」と言っていたが。
このようにして、「猟師・東出昌大」に密着する映画の制作が始動し、こうして完成までたどり着いたというわけだ。
元々狩猟免許を取り、猟師との関係を築いていたからこそ、スキャンダルが報じられた後、「俺たちには関係ないからこっちに来いよ」と言ってもらえたのだし、スキャンダルがあったお陰で「猟師・東出昌大」を撮るドキュメンタリー映画の制作が始動したわけだ。さらに、「普段僕はあんまり喋らないし、500時間ぐらい回してもらわないとなかなか分からないと思う」みたいに自分で言っていた東出昌大の中に、このドキュメンタリー映画に懸けるある「想い」があったからこそ、「今の自分を写し取り、そのまま残してほしい」という気持ちでカメラの前にいたのだろうし、だから余計に「東出昌大」という個人が全面に出る作品になっているとも感じた。元から友人だったMOROHAが歌う歌詞は、なんだかそのまま東出昌大の人生を切り取っているみたいな感じがするし、スキャンダル後も『福田村事件』『Winny』など俳優のしごとが途切れないからこそ、「『終わった人』のドキュメンタリー映画」みたいな見え方になることもない。
このような様々な要素が絶妙に絡まりあったことで奇跡的に成立した作品という感じがするし、そういう意味で、「情熱大陸」のような「人物に密着してみました」というだけではない深みみたいなものが放たれているように感じられた。
さて、本作には当然のことながら、「猟師・東出昌大」としての葛藤も様々に映し出される。その中で、結局最後まで心の整理がつかなかったのは、「自分が撃って殺しているのに、『可哀想』という感覚になる」という点である。
冒頭の方で、子鹿を撃った時の話になり、エリザベス宮地が「子どものこと思い出すます?」と水を向ける場面がある。それを受けて東出昌大は、「やっぱり自分の子どものこと思い出しますよね」みたいに返していた。やはりそこには、「可哀想」という気持ちが混じっているというわけだ。しかしそれでも、東出昌大は、鹿を撃つことを止めない。「どうしてなのか?」と問われた東出昌大は、普段からそのような思考を自分の中に抱いているのだろう、そしてその上で、上手く結論が出せないという感じに見えた。
作中には、猟師仲間であるナカザワの師匠であるフジナミと話をする場面もある。そこでも東出昌大は、「撃った動物に対して『可哀想』と思ってしまう」という話をする。しかしフジナミは、「そんなことを思ってると、逆にやられるぞ」と、東出昌大の感覚を真っ向から否定していた。しかしそれに対しても東出昌大は、「フジナミさんがそう言うから、じゃあ分かりました、明日から悩みません、みたいに言って蓋をするのも違う」と、この悩みはまだまだ抱え続けていくのだという感覚を表明していた。
服部文祥は、自分が撃つ動物一頭一頭に対して抱く気持ちは、撃つ事に薄れていくと言っていた。しかし、薄れてはいくものの決してゼロになることはなく、一定の存在感は保っているし、何よりも、どれだけ薄くなろうとも、これまで感じてきたものが堆積しているという話もしていた。
服部文祥は確か、「『食べる』という行為には、生きる上での良いことと悪いことが全部詰まっている」みたいなことも言っていたと思うのだが、まさにそれも、「殺す」という部分と「美味しく戴く」という部分のせめぎあいの話である。そして、そのような複雑な感覚を抱かされるからこそ、狩猟は良いのだみたいなことも言っていた。
狩猟そのものの話で言えば、これも服部文祥だったと思うが、「『いつか自分もこうなる』って感じることが一番面白い」「『生き物を殺したらどう感じるか』は、実際に殺してみないと絶対に分からない」みたいな話もしていた。とにかく、「自分も生きている存在でありながら、目の前にいる別の生に銃弾をぶち込み殺す」という行為は、人を思索家にするようだ。
作中では、「『狩猟』のことを何だと扱うか?」みたいな話も度々なされる。東出昌大は、「狩猟は趣味」だとは言えないそうだ。命を戴いているのに、さすがにそれは失礼だ、と。しかし、「仕事」ではないわけで、じゃあ「趣味」と呼ばずに何と呼べばいいのか? という話になる。それに対しては阿部達也が、「『生活』でいいんじゃない?」と言っていた。「食べるために獲るんだから、『生活』だよね」というわけである。
ちなみに、有害捕獲された動物の内、9割は埋設処理、つまり「食べずに、死体をそのまま埋める」という形で処理されるのだそうだ。その背景についても、東出昌大が語る形で説明された。
基本的に猟師というのは農家であり、本来的には「自分の畑を荒らす獣害を駆除する」という目的で猟を行っている。撃った動物を解体するのは時間と労力をかなり必要とする。だから、農家と兼業で猟師をやっている場合、とても「解体し、肉を食べる」ということまで手が回らないそうだ。
だったら売っておかねにすればいいのではないか? と思うかもしれないが、そうもいかないそうだ。販売するためには、定められた基準に則った工場で処理されるなど条件があるそうで、「猟師が自身で撃ち取った動物の肉を販売する」ことは禁じられているという。感染症や食中毒など色んな問題があるだろうから仕方ないとはいえ、なかなか難しい問題である。
また、本作を観て初めて知ったのだが、「動物が畑を荒らすようになった要因」の1つが、「戦後行われた植林」なのだそうだ。というのも、植林で植えられた針葉樹から落ちる葉は、野生動物の食料にならないそうなのだ。動物たちは基本的に、広葉樹の葉を食べるのだという。そして、戦後に針葉樹を植えまくったせいで、森には動物の食料となる広葉樹が少ないことになり、そのため人里に下りて畑を荒らすようになったのだそうだ。このような説明も東出昌大自身がしており、猟そのものの知識だけではなく、地域が抱える問題を含めた形で狩猟と向き合っていることが理解できた。
さて、とても長くなった。そんなわけで、とにかく、東出昌大の「人間力」が存分に映し出される作品であり、とにかくひたすらに興味深かった。思いがけず、メチャクチャ面白い作品に出会えたのでとても満足している。「生きるとは? 殺すとは?」みたいな、全体に通底するテーマも面白いし、高齢者の猟師仲間から若手女優まで惹きつけるその人間性の表出もとても興味深かった。とにかく、メチャクチャ観れて良かった作品だ。「東出昌大なんて顔を見るだけで不愉快になる」みたいな人で無ければ、僕のように東出昌大に興味の無い人間でも結構面白く観れてしまう作品ではないかと思う。とても素晴らしかった。