【映画】「永遠が通り過ぎていく」(戸田真琴監督)感想・レビュー・解説
戸田真琴のことを初めて知ったのはたぶん、『あなたの孤独は美しい』という本だったと思う。その著者略歴か何かで、AV女優だっていうことを知った気がする。未だに、戸田真琴のAVは観たことがないと思う。
『あなたの孤独は美しい』を読んでぶったまげた。そして、久々に見つけたと感じた。「言葉の人」を。
僕は、「『考えること』が趣味」みたいな人が好きだ。というか、そういう人にしか興味が持てない。そして大体そういう人は、自分の思考を言葉で吐き出そうとする。僕もそう。だから、「言葉の人」になる。
なかなか「言葉の人」に出会うことは難しい。僕はこれまで、それこそたくさん本を読んで来たけれど、「言葉の人」だと感じた人は少ない。パッと浮かぶのは、乃木坂46の齋藤飛鳥、SEKAI NO OWARIの藤崎彩織、そしてAV女優の戸田真琴だ。
『あなたの孤独は美しい』『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』という2冊のエッセイを読んで、彼女が生きてきたなかなか壮絶な人生を知識としては知っているし、彼女のその人生がこの映画にも組み込まれている。母親が宗教にハマっていて分かり合えなかったのはそのまま事実だし、映画で流れる、戸田真琴の手紙をもとに大森靖子が書き下ろした曲の内容は、まさに戸田真琴の人生そのものだと思う。
しかし戸田真琴の凄まじさは、「処女のままAV女優になった」というエピソードを含めた、彼女の過去の「リアル」にあるわけではない。本当の凄さは、彼女がいつも「誰かのために言葉を届けようとしていること」にある。
『あなたの孤独は美しい』の中に、こんな文章があった。今でも時々思い出す。
【あなたが、世間からほんのちょっと浮いてしまった時、そんな自分を恥じるよりも早くに、私が大丈夫だと言うために駆けつけます。
あなたが、賑やかな集団に混ざれなくて、そんな自分を情けなく思う時、本心に背いて無理やり混ざりに行こうとするよりも早くに、私がその手を掴んでちゃんとあなたらしくいられる場所まで連れていきます。
現実には身体は一つしかないのでそんなことはできやしませんが、心という自由な空間の中では、あなたのところまでちゃんと走っていけるのです。こうして、本という形にして、いつでもあなたが開くことのできる場所に置いておくことさえできたならば。
そんな願いを込めた本にしたいと思います。
あなたが、あなた自身を恥じないで生きていけるようになるのなら、私はきっとどんな言葉も吐くでしょう。】
こんな言葉、普通の人が言えば「何を戯言なんか言ってるんだ」で終わりだろう。僕もきっとそう受け取る。そんな風に世界に対峙している人間なんか、いないだろうとどうしても考えてしまうからだ。
しかし、戸田真琴の文章を読んでいると、「あ、この人本気なんだ」ということが伝わる。「伝わる」ということが凄いと思う。仮にそれが本心だとしても、本心だとは普通受け取られない言葉を彼女は発している。もちろん、エッセイを読む人の大半は彼女と直接的に関わりを持たない人だろう。しかも彼女には「AV女優」という記号も付随する。そんな戸田真琴の言葉が、「本心なんだ」と、少なくとも僕には受け取れたし、そのことは僕自身にとっても驚きだった。
正直、映画を観ている間は、「よく分からないな」と感じることが多かった。しかし、映画後のトークショーの中で、戸田真琴がどんな風に映画を作ったのか話しており、それを聞いて納得できた部分がある。
ざっくりとだが彼女はこんなようなことを言っていた。
<確かにこの映画は、私の人生の「事実」をベースにしている部分もあるんですけど、でも「事実」に即しているかどうかは別に重要じゃない。「自分がどうして傷つけられたのか」より、「自分が傷つけられた時に何を感じていたのか」の方が大事で、その心象風景を映像にしようと思った。傷ついている時に見えている世界は、「事実」よりももっと鮮明でとんでもないもの。だから、心象風景を描くことで「事実」を照射したいと思って作った。>
経験した「事実」は人それぞれ違うけれど、「傷つけられた時に感じたこと」なら共通しているかもしれない。それを映像化することで、誰かが何かを感じてくれたらいい、と語っていた。
また、こんな風なことも言っていた。
<人それぞれ、「自分にとっての『他者の愛し方』」ってあると思うんです。私の場合は、自分が普段観ている風景が不可思議ででも美しいから、それを見せてあげたいなって。興味がない人にはただ邪魔なだけなんですけど、でも「私が観ている世界を見せること」が、私なりの「他者の愛し方」なんです>
彼女のこの、「どこかの誰かのために、自分をすり減らしてでも何かを届けたい」という意思の強さには、やはりちょっと驚かされる。
さて、トークショーでの「心象風景を映像化した」という説明である程度腑に落ちたものの、映画を観ている最中には「よく分からない」という感覚が強かった。ただ、「映画としてどうか」という点を一旦外した時、やはり「言葉の強度」はとても強いと感じる。
映画では、「詩」そのものが朗読される場面があったり、「詩」を朗読しているかのような会話が展開されたりする。僕は「詩」を解する人間ではなく、「詩」を読んでもよく分からないと感じることの方が多いが、『永遠が通り過ぎていく』の中に出てくる言葉は凄く良い。それが映像や音楽と合っているのか、みたいなことはちょっと上手く判断できないが、映画の中から「言葉」だけを取り出してみたら、それ単体で自立するような強さがあると思う。
【殴ってくれさえすれば、この悲しみに名前がつくのに】
【あなたの頭がずっと私のことを考えてくれないと耐えられないから、その欲望が肥大する前に殺してほしい】
【それでも一緒にいたいと思わせてあげられなかった私たちだね】
登場人物たちが発するどの言葉にも、切実なまでの「切実さ」が内包されていて、その言葉の質感と重みを、映画を観ている間ずっと感じていた。
一番印象的だったのは、トークショーで対談相手の人も言っていたが、「足首」のセリフだ。
【もう二度と誰かの絶望から逃れたりしないように足を切ろうと思ったけれど切りきれなかったしその傷ももう治ってしまった】
物語らしい物語が存在するわけではないこの映画においては、少女によるこの叫びはとても唐突なものに感じられるが、しかし、唐突にそう叫ばなければならないほど彼女はキツい状況にいる。きっと、身体がバラバラになりそうな予感を必死に押し留めているのだと思う。
そう叫ぶ少女は、しばらくの間「とても楽しそうな少女」として映し出される。経緯こそ不明だが、一回り年上の男性とよく分からないまま邂逅し、男のキャンピングカーにそのまま乗り込んで旅をしているようだ。冒頭からしばらくの間、少女は天真爛漫に、自由に、楽しげに振る舞う。観ている側も、そういう少女なのだと思う。
しかしそうではない。その笑顔は表層であり、その奥にある、自分自身では制御できない何かを必死で押し留めるために「防波堤」にすぎないのだ。
それは、僕たちが生きている世界でも同じことが言える。楽しそうに、何の悩みもなさそうな人が、思いがけず何かを抱えている。僕もそういう人に何度も会ったことがある。そしてそういう人たちは、「マジョリティの無意識の暴力」にやられてしまう。
トークショーの中で戸田真琴が、「すべて同じ銀色のトーンで統一したカメラ、スマホ、ライトはすべて『暴力』を示唆している」みたいなことを言っていた。なるほど、と思う。カメラもスマホもライトも、さも当たり前であるかのように無遠慮に向けられることがある。それらを誰かに向けることに一切の躊躇がないと感じる人がいる。そしてそれはまさしく「暴力」と呼んでいいだろう。「マジョリティの無意識の暴力」は、分かりやすく「暴力であるという形」を取らない。当然、マジョリティはそれを「暴力」だなんてまったく思ってもいない。共通の理解に経った上で適切な距離を保つことがとても難しい。
映画のセリフで、非常に共感したセリフがある。
【人間には、生まれとか育ちとかだけではなく、磁場みたいなものを感じ取ってしまう人がいる。それを「感じていないフリ」をすることができなかっただけだ】
この言葉、分からない人にはまったく伝わらないと思うが、僕はメチャクチャ分かると感じてしまった。
子どもの頃には自分の置かれた状況を正しく理解できなかったが、「同じ光景を見ていても、同じ空間にいても、自分以外の人には感じ取れていないものがどうやらあるようだ」ということに、大人になってからなんとなく気づけるようになってきた。別にそれは「スピリチュアル的なパワー」だとか、具体的な音や振動などではない。その場の雰囲気というか、その場にいる人間のやり取りが生み出す揺らぎとか、そういうようなものだ。
喩えるなら、モスキート音のようなものかもしれない。若い時には聞こえるが、年を取ると聞こえなくなるという音のことだ。そういう、「そこにあるのだけど、感受できる人とできない人がいる」みたいなものがあって、自分はそれに気づいてしまう側で、だから色々めんどくさいんだ、ということが、大人になるにつれてなんとなく分かるようになってきた。
まさに「感じていないフリができない」である。
モスキート音が聞こえない人に「今音鳴ってるよね」と言っても伝わらないのと同じで、僕自身が感じているこの「何か」を説明しても、感受できない人にはまったく伝わらない。さすがにもう、理解できない人にそれを理解してもらうことは諦めた。だから、「どうやって『理解できる人』と出会うか」だけが問題だ。
そういう意味で僕は、戸田真琴と知り合って喋りたいなと思う。たぶん、似たようなベクトルの人だと思うから。
ただ、戸田真琴の凄さは、「『感じていない人』のことを諦めていない」という点にあると言っていいだろう。冒頭で書いた通り、彼女は、辛さを抱えているどこかの誰かのために、自分の何かを差し出すようにして寄り添おうとする。彼女は、言葉だけではなく、ありとあらゆる手段を使って、ありとあらゆる人に何かを届かせたいのだと思う。
僕の中にはそういう感覚はない。たぶん戸田真琴自身も、「絶望的な伝わらなさ」を日々感じているはずだと思うが、それでも「世界を諦めていない」というのが凄いなと思う。
映画は、「アリアとマリア」「Blue Through」「M」の3作で構成されている。一番好きなのは「Blue Through」だ。この方向性の長編、あるいは中編をちょっと観てみたい気がする。「M」で、大森靖子が作詞作曲した歌を背景に映像が展開される。途中で、「MVみたいだな」と思ったし、MVだと捉えるととても出来が良いと思う。「アリアとマリア」は、正直ちょっとよく分からなかったが、2人しかいない登場人物の一方が、「母親」や「男性」など異なる役柄にスイッチしていく造りは興味深いと感じた。最初は「母親」として登場するのだが、明らかに母子の年齢が合わず、どういうことなのか分からなかったが、意味が分かるとなかなか面白い試みだと感じられた。
僕は、戸田真琴のエッセイを読んでいたから、作中で語られる様々な断片が「戸田真琴自身のもの」だと分かったが、そのような前情報を知らない場合、かなり散漫な受け取り方にならざるを得ないだろう。映像は美しいと思うし、トークショーの対談相手の1人が「クリエイティブがとても良かった」と言っていたので、そういうビジュアル的なものに関心が持てる人はそういう方面でも楽しめる作品だと思う。
どんな映画もそうだと言えばそうなのだが、『永遠が通り過ぎていく』は「誰が観るか」によって評価が大きく変わる作品だと感じた。
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