【映画】「流麻溝十五号」感想・レビュー・解説

いつも通り、何も知らずに映画を観に行ったので、物語の設定・背景については分からないところも多かったのだが、映画としてはとても興味深く見れた。これから本作を観ようという人は、僕が以下にまとめた「背景説明」は読んでおいてもいいかもしれない(公式HPの記述を基にしている)。読まなくても映画を観ていれば大体理解できるだろうが、先に知っておく方がより描かれている内容に集中出来るだろう。

物語の舞台は1953年、緑島(日本統治時代は火焼島と呼ばれていた)である。ここには、「政治犯の強制収容所」が存在した。第二次世界大戦後から、30年以上もそのような役割を持つ島だったそうだ。さらにそこに、「新生訓導処」という「思想改造・再教育のための機関」も設置された。それが1951年のことだそうだ。そして、本作のタイトルにもなっている「流麻溝十五号」は、島内で女性たちが収容されていた区域を指している。

映画の最後に字幕で表示されたところによると、この島には15000人以上の政治犯が収容され、その内1100人以上が処刑されたそうだ。そして、そのすべての決定に蒋介石が関わっていたが関わっていたのだという。字幕では、「1人の人間がすべての生死を決めていた」と表示された。この時代のことは「白色テロ時代」と呼ばれているそうだ。

さて、容易に想像は出来るだろうが、ここに収容されていた「政治犯」は、人にもよるのだろうが「大したことをしたわけではない者」も多い。例えば主人公の1人である高校生・余杏惠(作中では「杏子」と呼ぶ者もいた)は、「放送部(か新聞部かそれに類する部活)でポスターを描いた」というだけで政治犯扱いされてしまった。あるいは、ダンスが上手い陳萍は、妹を含む複数の女性が「共産党員であることを自白しろ」と迫られていた際、妹を守るために共産党員であると嘘の自白をして島送りになった。

公式HPのトップページには、「考えることが罪?」と書かれている。まさに彼女たちは、「『考えること』が罪に問われていた」と言っていいだろう。ある人物は作中で、「なぜ台湾は自治出来ないんだ?」と口にしていた。「白色テロ時代」は元々、1947年に台北市で反体制派が起こした「二・二八事件」がきっかけだったそうで、そこから40年という長きに渡り、中国国民党政権による反体制派の弾圧が続いたのだそうだ。

当時の台湾は、1949年に中国での共産党との闘いに破れた蒋介石率いる中国国民党が統治していた。そしてそれ故だろう、蒋介石は徹底的に共産主義を排除しようとしたのだ。まあ、それ自体は、時代背景を考えれば仕方ないことだろう。問題なのは、「何らかの思想を持つ人間は全員共産主義者だ」という決めつけである。本作は基本的に、そのような前提で進んでいくように思う。

例えば、新聞。緑島にはどうも「普通の住民」も住んでいたようで(恐らく、島民が住むエリアと強制収容所のエリアが明確に区分けされていたのだろう)、そして労働にも駆り出される収容者たちは、色んな手を使って住民とも接触を持とうとする。その中で新聞も手に入れるのだが、これは「住民から普通に手に入れたもの」なのだから、恐らく共産主義とは関係ない、一般に流通している新聞なのだと思う(少なくとも僕はそう判断した)。しかしそれにも拘らず、作中では「収容者が新聞を読んでいる」というだけで、大騒動になるのだ。

こういうことは、色んな国で起こる。以前何かで、カンボジア大虐殺の話を知ったのだが、この時はカンボジアの当時の人口の1/4に当たる人が殺されたそうだ。しかもそのほとんどが、いわゆる「知識人」だったという。恐らくだが、「頭の良い人間は、何を考えているか、何をしでかすか分からないから殺してしまおう」みたいな発想が根底にあったのだと思う。本作で描かれる思想犯の扱いにも、同じようなことを感じた。このような知識に触れる度に、人間の愚かさについて改めて実感させられる思いである。

しかし、意外と言うと少し語弊があるかもしれないが、本作で描かれる「強制収容所」は、僕のイメージと少し違っていた。例えば、「一人一事良心救国活動」について。これは、「それぞれが得意なことを行うことで、反共のためのメッセージを届けよう」というものだ。例えばダンスが陳萍は「反共ダンス」を踊る、と言った具合である。

しかし、我が子と引き裂かれた看護師・嚴水霞は、看守に向かって「自主制なんでしょ? だったら私はやらない」と拒否するのだ。このシーンは結構最初の方で描かれるのだが、個人的には結構驚いた。そんな反抗的な態度が許されるのか、と。ただ、映画を観た後で公式HPを見て、「新生訓導処」が1951年に設置されたことを知って、少し納得できた感じもある。本作の舞台は1953年なので、設置から2年しか経っていない時にはこのような雰囲気だったのかもしれない、と感じたのだ。

でも、それとはまた違うことも考えた。というのもこの「良心救国活動」について、処長(初め誤植かと思った。見慣れない表記だったので)からお叱りを受けた後の描写が興味深かったからだ。

さて、少し話を戻そう。「良心救国活動」は元々、各人が得意なことをやるという話だったのだが、しばらくして話が変わる。愛国心を示すために、「男は刺青」「女は血書」をしろという話になったのだ。映画を観ている時には「血書」の意味が分からなかったのだが、調べてみると「自らの血で文字を書くこと」だそうだ。

こうなってくると、志願するハードルは一気に上がる。男は「台湾では刺青はヤクザだ」と言って拒否するし、もちろん女性だって血書なんかやりたくない。そのため、当時の緑島にいた2000人の政治犯の内、「良心救国活動」に志願したのはたった100名だったのだ。そしてこの点について処長から怒りが飛び、職員は「志願者を増やす」ことに奔走することになる。

そうして描かれるのが、「家族に会わせてやる」とか「家族からの差し入れを渡す」と言った「アメ」を用意してなびかせるというやり方だった。しかし僕は観ながら、「無理やりはやらせないんだな」と感じた。例えばホロコーストを描く映画を観ていると、女性の髪を無理やり沿ったり、番号の焼印を押したりしている。もちろん、「殺すつもりで集めているユダヤ人」と「再教育で矯正しようとしている政治犯」では扱いが違ってくるものなのかもしれないが、本作を観て僕は、「権力者たちは『本当に矯正させること』を目指していたのだな」と感じて驚かされた。それは、「大した容疑もないのに政治犯として連れて行く」というやり方とはどうにも相容れないように感じられて、とても不思議だったのである。

「とりあえず誰でもいいから政治犯として連れてきて無茶苦茶な扱いをする」というのなら、もちろん良いはずはないが、人間の行動として理解できなくはない。しかし本作で描かれているのは、「政治犯と言えないような人たちも集めてきて、彼らを『改心』させようとしている」ということである。彼らの中で、そこに矛盾はなかったのだろうか? 矛盾がなかったとすると、やはりこう考えるしかない。つまり、「彼らを本当に政治犯だと信じていた」というわけだ。そして僕には、そのことがとても恐ろしいことに感じられる。あまりにも「考えないことが罪」だと思えてしまうのだ。

しかも作中には、どんな状況でのものなのかは触れないが、「上がアカだと言えばアカなんだ」というセリフが出てくる。これは台湾に限らず、アカ狩りの嵐が吹き荒れた時代に世界中で起こっていたことだとは思う。本当に共産主義者であるかどうかに関係なく、「共産主義者かもしれない人」あるいは「悪意によって共産主義者というレッテルが貼られた人」が、どんどん追放されていったのである。

そして普通に考えて、「上がアカだと言えばアカなんだ」という発想と、「大した容疑もない人物を政治犯だと信じ込む」というのは、相容れない。だから本当に僕には、「新生訓導処」を運用していた者たちの感覚が理解できない。本当に、何も考えていなかったのだろう。そしてそんな「何も考えていない者」が権力を持つことの恐ろしさが強く描かれているように感じられた。

僕は割と幸せな時代を生きていて、法的に「誹謗中傷」と判断されるようなことでない限り、誰がどこで何を言ったり書いたりしようが、何も問題ない。「テロ等準備罪」が出来たことで、場合によっては「犯罪を計画しただけ」でも逮捕される可能性があるし、あるいは宗教にあまり親和性のない日本では宗教的な思想はあまり受け入れられにくいが、そういうものでもない限り、どんな「思想」を持っていても大体問題なく生きられるはずだ。

しかし世界を見渡せば、そういう国ばかりではない。ロシアでは、先ごろ「獄中で死亡した」と世界的に報じられたナワリヌイが、プーチン批判をしたために暗殺未遂に遭ったり、中国では「改正反スパイ法」により、外国人でも入国時にスマホのチェックを受けたりする可能性がある(恐らく、場合によっては逮捕されるのだろう)。

いや、日本が安泰かと言えばそんなこともないだろう。少し前、タモリがテレビで「新しい戦前」という言葉を使ったことが話題になった。「徹子の部屋」に出演した際、黒柳徹子から「来年はどんな年になるでしょう」と聞かれ、「新しい戦前になるんじゃないでしょうか」と答えたのである。それ以上具体的な言及はなかったが、僕もそのような感覚は理解できる。特に、安倍晋三が総理大臣だった頃によくそれを感じていた。

僕自身は経験していないのだが、「戦争が始まる前、社会はこんな雰囲気だったのではないか」と感じさせるような世の中になっているように感じられるのだ。僕たちもいつ、本作で描かれるような「言論統制」の時代を生きなければならなくなるか分からない。考えることが好きな僕には、本当にしんどい時代だ。マジでそうならないで欲しい。

しかし、万が一そうなった時にどうするか。僕はきっと諦めが悪いから、権力に反抗して強制収容所に送られるんだろうな、と思う。まあ、嘘をついたり権力に媚びへつらったりしてまで生きている意味はないと思うので、それは仕方ない。そしてその上で、覚えておこうと思うことがある。本作中でも、かなり印象的だった場面のことだ。ある人物が、「その時が来たら、笑ってみせる」と言うのである。

「その時」というのが何を指すのかここでは触れないが、なんとなくイメージは出来るだろう。そして僕も、そういう時には「笑ってやろう」と思った。本作には、結構珍しい構成だと思うが、エンドロールとかではなく作中で、当時の実際の写真と思われるものがいくつか表示された。僕もそういう生き方をしたいものだ。

さて最後にいくつか。まず、本作に日本語が結構出てきたことに驚いた。最初は聞き間違い化と思ったほどだ。もちろん知識としては、台湾が日本統治下にあったことや、台湾には日本語を喋れる人が多いことなど知っていた。しかし本作では、台湾人同士の普通の会話の中に、ちゃんぽんのように日本語が挿入されるのだ。初めは、「看守に聞かれたらマズい内容を日本語で話している」のかとも思ったのだが、どうもそうではなさそうだ。作中では、字幕の表記からの判断だが、「台湾語」「中国語」「日本語」「英語」がかなりちゃんぽんで話されており、当時の台湾人にとっては、日本人にとっての「外来語」みたいなイメージで、当たり前のように日本語が使われていたのかもしれない。

あと、余杏惠(杏子)を演じた女優がメチャクチャ古川琴音っぽくて驚いた。凄く似てるというわけではないのだけど、全体の雰囲気が近いんだよなぁ。まあだからなんだってことはないんだけど。


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