【映画】「生きる LIVING」感想・レビュー・解説
非常にシンプルだが、まさに「普遍的」な、現代にも通ずる物語だと思う。この物語が突きつける「テーマ」に、改めて自分の人生を思い巡らせる人もきっと出てくるだろう。
ちなみに僕は、この映画の元となった、黒澤明監督「生きる」を観ていない。
一番印象的だったセリフが、
【生きることなく人生を終えたくない】
というものだろう。この言葉は、昭和の日本だろうが、『生きる LIVING』の舞台である1953年だろうが、現代だろうが変わらない。多くの人がきっと、「生きることなく人生を終えたくない」と思っているだろう。
しかし、実際のところなかなかそれは難しい。それは結局のところ、「人生に対する『満足感』を、何に対して感じるのか」という話になるからだ。
それは人それぞれ違う。だから、他人に教えてもらうことはできない。選択肢の参考にはなるが、結局は自分で「これ」というものを見つけるしかないからだ。
また、「それ」がなんであるのか分かっていたとしても、必ずしも手に入るとは限らない。「些細なこと」で満足できる人はむしろ幸せだと言えるだろう。望んでも努力しても確実には手に入らないと分かっているものでしか「満足」を感じられない人生は、やりがいはあるかもしれないが、なかなか辛いものがある。
さて、映画の中ではもう1つ、困難さについて示唆されることがある。
【少しずつ変わっていったんだ。だから気づかなかった】
主人公は、長年公務員として働く人物だ。その人生の背景について詳しく描かれるわけではないが、「妻は既に亡くなっている」「息子は結婚しているが、奥さんと遺産の話をしている」「仕事では、面倒事はとにかく先送りする」というような状況にある。映画の中で、ある人物が彼に「ゾンビ」というあだ名をつけていたことが明らかになるが、まさに言い得て妙と言ったところだろう。
主人公は恐らく、人生の目標もなく、成すべきことも見当たらず、ただ無為に日々を過ごしているだけである。そういう風に描かれている。しかし、若い頃はそうではなかった。今とは違う、もっと溌剌とした何かがあったのだ。しかし、時間と共に少しずつ変わってしまった。何か大きなきっかけがあったわけではない。だから、その重大な変化に気づかなかったのだ。そんな風に語る場面がある。
先日、ちょっと印象的だった出来事があった。大学時代の友人と飲んだ時のことだ。その中に、1つ上の先輩もいた。本当に久々に会う人で、もしかしたら学生時代以降会ったことがないんじゃないか、と思うぐらいの人だ。
その先輩は、聞けば誰もが知っているような有名な会社で働いている。結婚して子どももいるようだ。そして僕は先輩から聞かれるがままに、今の仕事などの状況を話した。僕の場合は、お世辞にも「羨ましがられる」ような生き方をしていない。先輩の境遇とは真逆と言っていいだろう。
しかし僕の話を聞いていた先輩が、何度も「すげぇな」「羨ましい」みたいなことを言っていた。僕の感触では、「本心からそんな風に言っているんだろう」と感じた。初めは、先輩が僕の何を「すごい」「羨ましい」と言っているのか上手く捉えられなかったのだが、話の中でようやく少しずつ理解できるようになってきた。
その先輩は、「自分が『敷かれたレールの上をただ走っていただけ』なのではないかと感じている」ようなのだ。はっきりそう口にはしていなかったが、先輩はどうも現在の状況に満足できないようだ。しかし一方で、その悩みはなかなか表に出すことが難しい。何故ならその先輩は、傍目には「誰もが羨むような人生」を歩んでいるからだ。分からないが、恐らくそういう「葛藤」を他人に話す機会はあまり無いんじゃないかと思う。そして、別に良い意味ではなのだけど「普通ではない生き方」をしてきた僕の人生を知って、普段から抱えていたそのような感覚が思わず噴き出したのではないか、と感じた。
僕は、中学生の頃にはもう「サラリーマンにはなれない」という確信があったし、大学を2年で中退する頃には、「『普通のルート』を生きても面白くないし、っていうか絶対に死んじゃう」と思っていた。だからさっさと人生の階段を降りて、なんとか適当に生きている。
しかしもし、そういう「確信」が自分の中になかったら、僕は「向いてない」と思いながら就活をして、「向いてない」と思いながらサラリーマンになって、「向いてない」とようやく確信して人生をドロップアウトしていただろう。「普通」から外れた選択を未だに後悔していないのは、このためだ。
と言って別に、今僕が「人生に対して満足感を得ている」かと言えば別にそんなこともないのだが、少なくとも、先の先輩が抱いているような「敷かれたレールの上をただ走っていただけ」みたいな感覚に陥ることはないと言っていいだろう。
レールの上を走っているという感覚がある場合、そこから外れることはなかなか容易ではないだろう。時間が経てば立つほどなおさらだ。『生きる LIVING』の主人公も同じだろう。まさにレールの上をただひたすらに走ってきただけだ。映画の中には、蒸気機関車で通勤する場面も描かれるが、まさにそこからも「レール」の存在を感じ取ることができる。
主人公にとって、そのきっかけは、余命宣告だった。そして、余命宣告を受けて初めて、自分が「生きていない」ということに気づいたのだ。
そんな「ゾンビ」が、どう「人生」を取り戻すのかの物語である。
市民課の課長として働くウィリアムズは、部下に煙たがられながらも、杓子定規な仕事・生活を続けている。判で押したようなその「堅物」っぷりは、ウィリアムズが「早退する」と言うだけで課内をざわつかせるほどの力を持っている。
病院に赴いたウィリアムズは、そこで「余命半年」を宣告される。長くて9ヶ月だと。
電気の点いていない部屋でぼーっと思案した彼は、すぐさま行動を起こす。貯金を半分下ろし、仕事をサボって海辺の町へとやってきたのだ。しかし彼には、「どうやって人生を楽しめばいいか」が分からない。たまたまカフェで知り合った劇作家に、余命宣告と今の悩みを打ち明けたところ、その劇作家が一緒に色んな酒場に連れて行ってくれた。確かに、これも「楽しい」のかもしれない。しかしウィリアムズには、どうもしっくりこない。それからもずっと職場放棄を続ける彼は、ある日、課内で事務作業を手伝ってくれていたマーガレットと街でばったり会う。彼女は転職先で内定が出ているのだが、今の職場の推薦状が必要で、出社してこないウィリアムズを待っていたのだ。ウィリアムズは、それは迷惑を掛けたと言い、お詫びに昼食をごちそうする、そこで推薦状を書こうと提案した。
結果として、マーガレットとばったり会ったことが、ウィリアムズの人生を大きく変えることになるのだが……。
とにかくウィリアムズの存在感だけで映画が成立しているような、そんな作品でした。公式HPを読むと、脚本を担当したカズオ・イシグロが、主演のビル・ナイに当て書きしたみたいなことが書かれていました。というか、黒澤明監督の『生きる』をリメイクするという話が浮上したのも、ビル・ナイの存在あってのものだそう。詳しくは公式HPを読んでほしいが、プロデューサーとカズオ・イシグロが話しているところにビル・ナイもいて、その時にカズオ・イシグロがビル・ナイに「あなたの次の主演作が思いつきましたよ」と言った、みたいなことが書かれている。
カズオ・イシグロは、黒澤明の『生きる』に昔から感銘を受けていたそうで、いつかこれをイギリス版として撮る人が現れないか、と思っていたそうだ。とはいえ、別に自分が脚本を担当するつもりではなかったそうだが、プロデューサーから強く請われて引き受けたそうだ。そして、「カズオ・イシグロが脚本を担当する」という事実が、黒澤明の権利者たちの気持ちを動かし、この企画の実現に至ったそうだ。なかなか興味深い話である。
カズオ・イシグロは、「黒澤明の『生きる』と、ストーリーは相当共通している」と言っているので、たぶんそうなのでしょう。しかし面白いことに、カズオ・イシグロは、それまで人生の中で何度も『生きる』を観てきたが、脚本を担当すると決まってからはたった1度だけ観て、それ以降はどんな『生きる』に関するすべての情報に触れないまま、英語の脚本を書き上げたそうだ。
映画において、映像的に印象的だったのは、「覚醒したウィリアムズ」が、土砂降りの雨の中踏み出すシーン。それまでとはまったく違うウィリアムズの姿もいいし、傘をバッと広げた場面もいしい、そこから一気に場面転換する構成にも驚いた。
あと、最後の方で「結局そうなるんかー」みたいな展開も興味深かった。「1人の人間が為せることは小さいが、まあそれは仕方ない」みたいな感じなんだろうか。しかし映画では、「それでもいいんだ」というメッセージも込められていて、それも良かったと思う。
派手さとは無縁の、非常に静かに淡々と展開する物語だけど、そのあまりの普遍性に、人生を考え直したくなるような作品ではないかと思います。
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