【映画】「ニッツ・アイランド 非人間のレポート」感想・レビュー・解説

いやー、久しぶりにちょっとぶっ飛んだドキュメンタリー映画を観たな。「ドキュメンタリー」に限らないけど、「表現手法」なんかもうあらかた出尽くして、「新しいもの」なんて生まれないような気がしていたのだけど、もちろんそんなことはないわけだ。しかしなるほどなぁ、観れば確かに「こんなやり方がまだあったか!」ってメチャクチャ納得できるんだけど、これ、なかなか思いつかないし、思いついてもやらないよなぁ、普通(笑)。

さて、そんな本作には一体何が映し出されているのか? その異様さを少しずつ理解してもらうために、まずは「映し出されないもの」から触れていくことにしよう。

本作には「生きている人間」は映し出されない。それどころか、動物や自然など「生きとし生けるもの」すべてが映らないのである。もう少し言い方を変えると、「本物」は何も映らない、と言っていいだろう。

しかし、「描かれる」という表現を使うのなら、「生きている人間」も「動物」も「自然」もすべて描かれている。そんな世界である。

本作について事前情報を知らない人には、「そんなドキュメンタリー映画、存在し得るのか?」と感じるかもしれない。しかし、これを満たす世界が存在するのだ。それが「オンラインゲーム」である。そう、本作は、冒頭から最後まで「オンラインゲーム内の映像のみ」で構成された、異色中の異色と言っていいドキュメンタリー映画なのである。

さて、ここで、少し僕の話をしておこう。僕はまあまったくゲームをしない人間で、自宅で何らかのゲームをした記憶は、中学生ぐらいのスーパーファミコンとかで止まってるんじゃないかと思う。あと、友人宅でWiiを少し嗜んだことがある。RPGは一度も経験がないし、ガチャを引くようなスマホゲームも、パソコンで参加するようなオンラインゲームもまったく触れたことがない。だからよく分からないことが多いので、何か的外れなことを書いていたら「単なる知識不足」だと判断してほしい。

本作『ニッツ・アイランド』内では、なんという名前のオンラインゲームで、どういう設定で進んでいくゲームなのか、みたいな説明は一切ない。だからその辺りについては公式HPやネット検索で補うことにする。公式HPによると、本作の舞台となっているのは〈DayZデイジー〉という実在するゲームだそうだ。「サバイバル・ゲーム」としか書かれていないのでネットで調べてみると、Wikipediaの情報が出てきたので引用しよう。

【プレイヤーは架空のNIS諸国のチェルナルスで、謎の疫病により多くの人間が暴力的になったゾンビを相手に生き延びなければならない。 サバイバーのプレイヤーは食糧、水、武器、薬を手に入れ、ゾンビを殺したり避けたりし、または他のプレイヤーとも殺し合いや回避したり、時には協力をして生き残らなければならない。】

確かに映画の中でも、ゾンビが出てきていた。なるほど、あれを倒したり回避したりしながら生き残るゲーム、というわけだ。

さて、こんな風に書いているのだから、「ゾンビを倒すこと」がメインで描かれている映画ではない、ということは理解できるだろう。では一体何が描かれているのか?

とその前に大前提の話だが、僕が理解している限りの「オンラインゲーム」についての知識をまとめておこう。プレイヤーは「アバター」を操作してゲームに参加する。普段は「アバター自身の視界」でゲーム内世界を見ているが、たぶんそうではない「第三者視点」でも状況を把握できる、んじゃないかと思う。プレイヤーは、ゲームに参加してもいいが、しなくてもいい。つまり、「ただそのゲーム内世界にいるだけ」というのも認められている。本作中に出てくるある人物は、「自分は不眠症だから、毎日仕事終わりにここに来ては、1人で散歩するのが好きなんだ」と語っていた。その人物は、このゲーム内で既に1万時間を過ごしたそうだ。仮に24時間ずっとゲーム内の世界にいたとしても416日である。1日5時間だとしたら2000日。約5年半といったところだ。

さてそんなわけで、ゲーム内の世界では「許容されている範囲内で何をしていてもいい」ということになっている。となれば、そこに「様々な趣向を持つコミュニティ」が生まれるのも自然なことだろう。僕はやったことはないが、「『どうぶつの森』で気の合う仲間を見つけて遊ぶ」みたいなイメージをしてもらえればいいんじゃないかと思う。

そしてだからこそ「ドキュメンタリー」として成立するのである。普通ドキュメンタリー映画は「現実世界でリアルに起こっていることをカメラに収める」ことによって「人間」を切り取ろうとするわけだが、本作は、「現実世界と同じくらい、あるいは状況によってはそれ以上の自由度を持つ世界で非リアルに起こっていることをカメラに収める」ことによって「人間」を切り取ろうとするのである。「人間」そのものは映し出されないのだが、「人間の趣味趣向や欲望を反映できる世界」だからこそ、「アバターの振る舞い」から「それを動かしている人間の姿」が垣間見えるのである。

その最も分かりやすいポイントが「殺人が許容されている世界」という点だろう。「サバイバル・ゲーム」だから当然なのだが、プレイヤーは皆銃や武器を持ち、それでゾンビだけではなく他のプレイヤーも殺すことが出来る。これは「現実世界を超えた自由度」である。そして、そんな世界でどんな風に振る舞うかによって「人間性」が浮き彫りになるというわけだ。

僕が最も興味深かったのは、このオンラインゲームで出会ったと思われる男女のやり取りだった。それぞれベルリンとオーストラリアでプレイしているようなのだが、女性の方が「私はビーガンで、現実世界では動物を殺さない生活をしてるけど、ここでは人を殺してる」みたいなことを言っていたのがとても印象的だった。また男性の方は、「僕は子どもを寝かしつけてからここに来ている。正直、子どもにはオンラインゲームをしてほしいとは思わない」と言っていたのも興味深かった。彼自身はもう、抜け出せないほどこの世界に依存してしまっているようで、「リアルなゲームは決して悪いとは思わないけど、『現実世界への興味を失わせる』というデメリットがある」と言っていた。彼らは矛盾を抱えながら、それでもこのゲーム世界から離れられずにいるようだ。

また、「サバイバル・ゲームである」という情報を、この感想を書くタイミングで知ったので、映画を観ている時には何とも思わなかったのだが、映画の冒頭でドキュメンタリーの取材班がコンタクトを取った相手が「すべての生き物を殺さない」という信条を持つ組織(宗教?)の集まりに関わっているという話が出てきた。「サバイバル・ゲーム」の世界の中で「生き物を殺さない」という信条を持つグループが存在するのだそうで、これもまたなんとも言えない矛盾を抱かせるものだなと思う。その信条は素晴らしいと思うが、しかし何故「サバイバル・ゲーム内でそんなグループを作る必要があるのか?」は謎である。

対照的だったのが、「深夜の闇」を名乗る集団だ。このグループを統べているのは女性リーダーで、取材を申し込んだ一行が指定された建物内に入ると、顔を隠し武装した面々が、半裸で机に横たわっている男性を囲みながら取材班を迎え入れた。机の上の男性が一般のプレイヤーなのか、それともゾンビ的存在なのかはよく分からないが(でも、小声で「助けて」と命乞いをしている音声が入ったから、一般プレイヤーなんじゃないかとは思ってる)、彼らにとっての「今日の標的」らしく、取材班のインタビューに答えている最中、メンバーの1人がその男性に向けて銃を発射し殺してしまった。

映画の舞台となっているのは、オンラインゲーム内に存在する「ある島」らしいのだが、彼女たちはその島を「自分たちのもの」と捉えているようで、恐らく自宅の庭なのだろう、ピーマンを植えた男性を捕まえては、「私たちの土地にピーマンなんかを植えたのか?」と詰めより、やはり殺していた。取材班は、このグループが「人食い」と呼ばれているという噂を聞きつけて取材にやってきたそうだが、噂通りの野蛮さだったようである。

彼女たちは、出自は様々だが、「殺しが大好き」という共通点があるそうで、「思うがまま、好き放題暴れまわっている」のだそうだ。まあ、「サバイバル・ゲーム」がベースなのだから、彼女たちのスタンスが間違っているとは思わないが、しかしやはり「異様」であるようには感じられた。

ただ、これは「オンラインゲーム内を撮影したドキュメンタリー映画」ならではだと思うが、「ゲーム内の話」だからこそ、「殺しが大好き」みたいな話を当然のことのように口に出来るのである。もちろんそこには、「身分が明らかにはならない匿名性」も要素として加わるだろう。だから、ある意味では「一般的なドキュメンタリー映画よりも、強く『人間性』が映し出されている」とも言えるのではないかと思う。

さて、映画が始まってしばらくの内は、「どんな人がこの世界にいるのか?」や、あるいは現実世界と同じように、きっと「どの人に取材したらいいだろうか?」みたいなことに時間が費やされたのではないかと思うが、しばらくしてくると、取材班がこのドキュメンタリーを撮ろうと考えた動機みたいなものが見えてくるようになる。それは結局のところ、「オンラインゲームの世界はリアルなのか?」という点に集約されるだろう。中盤ぐらいから、これに関係する質問を直接的に投げかけるようになっていく。

この点について、まず大前提だが、少なくとも本作で取り上げられている人たちは全員、「これがゲームであり、リアルではないこと」をきちんと理解している。そこを本当の意味で混同している人はいない、ということを前提に、以下の文章を読んでほしい。

印象的だったのは、「ここでの冒険は記憶として残る」「現実のことよりよく覚えている」みたいなことを口にする人が結構いたことだ。確かに脳というのは、より関心の強いもの、より強く刺激されたことを記憶として残す性質があるだろう。また多くのプレイヤーが、このゲーム内でかなりの時間を過ごしている。そうなってくると、「脳内に保存されている記憶の中で、ゲーム内のものが最も鮮明である」なんていうことは普通に起こり得るだろう。

そしてそうだとしたら、「ゲーム内の経験が最も『リアル』である」という実感になるのも不思議ではないかもしれない。

映画を観ていて驚かされたのは、「風景だけだったら、もはやリアルと区別がつかないかもしれない」ということだ。人間の動きはまだまだ不自然なものが多く、人が動く様子を見れば「バーチャルの世界だ」と明らかに分かるが、風景はもしかしたら「バーチャルです」と言われなければ気づかないかもしれないと思えるレベルだった。恐らくこの点に関しては今後も一層改善されていくだろうし、人間の動きも含めて「現実世界と遜色ない」みたいなレベルに達してもおかしくはないと思う。

となればますます、「ゲーム内世界こそが最もリアルである」という実感が強くなる可能性はあるだろう。僕らは、例えば錯視画像を見た時などに、「理性では『そんなはずはない』と思うが、知覚が騙されてしまう」みたいな経験をするが、オンラインゲームもそれに近い存在になるかもしれない。であれば、もうそれは「リアル」と言っていいようにも思う。

ただ、それはそれとして、一方で僕が強く思ったことは、「雨や風、匂いなんかは感じられないんだよな」ということだ。この点についても今後技術が進むだろうとは思うが、現状では「視覚」以外についてはまともに実用化はされていないと思う。「視覚だけが異様に高解像度となり、それ以外の五感が置き去りにされている」という状況は、やはりまだまだ「リアル」から遠いようにも感じられる。

でも、映画を観ていると「そういうことじゃないんだろうな」という感じもある。つまり、「そこに仲間がいること」が彼らにとっては「リアル」の要件なのかもしれない、ということだ。何人かが「現実逃避」という言葉を使っていたが、やはりオンラインゲームにどっぷりつかるきっかけの1つに「現実逃避」があるようだ。どんな現実から逃避しているのかは知らないが、やはり「リアルの世界には『仲間』と呼べる人はいない」ということなのだと思う。そしてゲーム内に「信頼できる仲間」(そういう言い方をしていたプレイヤーがいた)がいるのであれば、やはりその世界を「リアル」と思いたくなるのも当然だろう。

まあこんなことは、本作を観なくてもなんとなく想像できることではあるのだけど、しかし、実際にオンラインゲームをしている人の「肉声」(声は加工されていないと思うので「肉声」と言っていいだろう)で知ると説得力が感じられる。ちなみに、ゲーム内では「牧師」として存在しているプレイヤーは、現実世界ではマッサージ師だそうで(これも自己申告なので本当かどうかは不明だが)、そして「リアルの世界でゲームの話をしたことはない」と言っていた。別の人物は、「現実から離れたいからここに来ているわけで、だから、現実の自分とは違う存在としてここにはいる」みたいなことを言っていた。完全に別物として存在しているのだろうし、だとすれば、「ゲーム内世界を『リアル』だと思いたい」という気持ちはより強くなるとも言えるだろう。

そんなわけで、「ドキュメンタリー映画としての斬新さ」と「色々考えさせるテーマ性」に優れた作品だった。正直、「映画としてメチャクチャ面白い」というわけではなかったのだけど、ただ、「オンラインゲーム上でドキュメンタリーを撮影する」というアイデアがあまりにも素晴らしかったので、その1点だけでも僕は本作を高く評価できる。取材班は、ゲーム内で963時間過ごしたそうだ。また、取材を行っていた期間中はコロナ禍真っ只中だったようで、そのこともまた、人々をゲームに向かわせ、連帯させた要因と言っていいだろう。

実に興味深い作品だった。

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長江貴士
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