【映画】「20世紀ノスタルジア」感想・レビュー・解説
予想していたよりずっと素敵な映画だった。「初国知所之天皇 2022 デジタルリマスター版」があまりに意味不明で、ハードルがメチャクチャ下がってたってのもあるかもしれないけど。
映画を観始めてしばらくは、「とにかく広末涼子が恐ろしく可愛い」っていうだけの映画だと思っていた。とにかく、広末涼子が可愛い。別に僕は特別広末涼子のファンだったということもないのだけど、それでも、この映画に映し出される広末涼子の可愛さにはちょっと圧倒されるなぁ。正直、「広末涼子が可愛い」っていうだけで、この映画は「鑑賞物」として全然成立しちゃうと思う。
まあ、そういう映画だったとしてもきっと満足しただろう。
ただ途中から、この映画の非常に特殊な設定が、「繊細な人間関係を描き出すのにメチャクチャ良いんじゃないか」と感じるようになってきた。主演の広末涼子と圓島努はどちらも「演技が上手い」と言える感じではないが、その演技の拙さを「設定」が見事に補い、「繊細さ」を感じさせる人間模様が描かれている、と僕感じた。
というわけで、内容紹介も含めて、この映画の特殊な設定を説明しよう。
ざっくり内容を説明すると、「2人の高校生が、夏休み中東京都内各所で撮影した映像素材を編集して1本の映画にする」となる。高校2年制の遠山杏と、転校生の片岡徹が、お互いにビデオカメラを持って映画を撮影する。
映画の登場人物も、遠山杏と片岡徹である。しかし、これは正確な表現ではない。ただしくは、「遠山杏に憑依した宇宙人ポウセ」と「片岡徹に憑依した宇宙人チュンセ」の2人が主人公の映画なのだ。ちなみにこの「ポウセ」「チュンセ」という名前は、宮沢賢治の「双子の星」という作品からきているそうだ。
放送部に所属している杏は、橋の上でカメラテストをしている時に、徹に話しかけられる。徹は、「自分は実はチュンセという宇宙人なんだ」と言い始め、さらに「自分は今分裂して新しい宇宙人が生まれようとしている。杏の身体を貸してくれ」と重ねるのだ。杏はちょっと戸惑う素振りを見せつつも、徹の謎の発現をスッと受け入れ、チュンセから分裂したという宇宙人を自分の身体に移す。名前は「ポウセ」だそうだ。ちなみに、宇宙人は単性生殖で、アメーバのように分裂して増えるらしい。
それから2人は、カメラを持って東京中を巡る。それは、杏と徹にとっては「映画撮影」だが、ポウセとチュンセにとっては「地球人の調査」である。
しかし、観客にとってそれは、明らかに「デート」である。2人は、「撮影」「調査」と称して、ひと夏のデートに繰り出しているのだ。
しかししばらくして、そう考えていたのは杏の方だけだったことが分かってくる。はっきりとは分からないものの、徹にとって「宇宙人」は「杏と会う口実」ではなく「もっと切実な何か」のようなのだ。
この映画の冒頭では、既に徹は日本にいない。夏休みが終わるとすぐ、オーストラリアに旅立ってしまったのだ。膨大なテープと共に残された杏は、先生や友人の後押しもあり、テープを編集して一本の映画を作る決意をするが……。
というような話です。
僕がもの凄く良いと感じたのは、「お互いが宇宙人という設定を貫く」という点だ。これが、2人の距離感を縮めもするし遠ざけもする、非常に絶妙な要素になっているのだ。
例えば、どちらも何か発言する際に、それが「杏/徹のもの」なのか「ポウセ/チュンセのもの」なのかを選択できる。杏が徹のことを好きなのは作中から明白で、だから杏は、徹が直接間接に関わる場面で「お前がいなくて寂しい」という発現をする。エアメールで徹にビデオレターを送る際も、オーストラリアへ旅立つことを聞かされた時も、杏は「寂しい」と伝えている。
しかしそれを「杏は寂しい」という言い方にしていない。「ポウセは寂しい」「ポウセは待ってるぞ」という言い方にしているのだ。こうすることで、「真剣さ」みたいなものを隠すことができる。「宇宙人ごっこができないこと」を寂しがっているようにも受け取れるからだ。それでいて、「寂しい」という事実は伝えることができる。「ポウセ」という設定がなかったら、「私(杏)は寂しい」と言うしかなくなるが、杏はきっとそんなこと言えないだろう。だから「ポウセ」という設定は、「杏が寂しさを少しでも伝える」という意味で非常に重要なのだ。
また、映画の中で特に広末涼子が可愛かった場面が、「宇宙人は排気ガスに弱い」という設定を徹が新たに付け加えた場面だ。歩道で道路を走るトラックを撮影している時に、そのまま後ろに倒れ込んだ徹は「排気ガスにやられた~」みたいなことを言って道路に寝そべり、その自分を手持ちカメラで撮っているのだが、そこに「私もやられた~」と言って杏が入り込んでくるのだ。
はっきり言って意味不明な状況ではあるが、しかし、「ポウセという設定があるからこそ杏はそんな行動が取れる」ことは間違いないだろう。それはまさに、2人の距離を詰めることに繋がっている。
この映画では、「それまで関わりの無かった2人が橋の上で邂逅し、すぐに意気投合してデートをする」という展開がいきなり始まるのだが、普通には成立し得ないそんな状況が、一定の許容が可能な範囲内に収まっているのは、まさにこの「宇宙人」の設定のお陰だと思う。また観客としても、「宇宙人」の方に違和感を覚えてしまうため、彼らの急激な「親密さ」みたいなものには目が向かなくなる。
以前、「空からクラゲが降ってくると主張する女の子」が出てくる小説を読んだのだが、少し近いものがあるかもしれない。トリッキーな設定が組み込まれることで、本来なら浮き彫りになるかもしれない違和感が気にならなくなる。それによって、物語がスッと入ってきやすくなるのだと思う。
2人の関係性的にも、我々観客の理解的にも、「宇宙人」という設定は絶妙だったと言って良いだろう。
しかし同時にこの設定は、彼らの距離を遠ざけるものとしても機能してしまう。痛し痒しと言ったところだ。
徹が「宇宙人」という設定の世界に杏を引きずり込んだ動機ははっきりとは分からないが、映画を観て理解できることは、「徹には徹なりの切実さがあってそうしていた」ということだ。杏でなければならなかったのか、カメラを持っていたからなのか、あるいは誰でも良かったのか、それは分からないが、少なくとも徹自身にとっては「宇宙人」はただの設定ではなく、彼がなんとか生きていく上で外せない要素だったのだ。
当然、最初からそんなこと理解できるはずもない杏は、「よく分からないけど何かの遊びなんだろう」という程度の理解で徹に遊びに付き合った。杏が徹の遊びに付き合った理由こそなかなか謎ではあるが、観客の立場からは「なにかピンと来るものがあったのだろう」ぐらいのことしか言えないわけだが、とにかく杏は、仕方ないことではあるが、初めから徹の切実さを捉えられはしなかった。
そして、その微妙な食い違いが、ちょっとずつ2人の関係を蝕んでいったのではないか、と感じる。
また、「撮影した映像を編集して映画にする」という設定も上手いと思う。杏の友人が冒頭で、「編集すると、片岡くんのこと思い出しちゃって大変だね」と杏に言うが、まさに「映像編集」は「過去の追体験」と同じような意味合いを持つ。彼らが制作していた映画は、「ポウセ/チュンセ」という名前で「杏/徹」自身を描く作品なのだから、余計その傾向が強くなる。
そして、その「過去の追体験」によって杏は、目の前からいなくなってしまった「片岡徹/チュンセ」という「人間/宇宙人」を改めて理解しようとするのだ。
こういう構成の部分がとても上手いと感じた。さらにその上で、杏と徹が実際に手持ちカメラで撮っただろう映像がふんだんに使われ、普通の映画ではあり得ないような躍動感やリアルさを感じさせる画になっている。昔『私たちのハァハァ』という映画を観たが、その時の映像を思い出した。こちらも、4人の女子高生が交代で撮影している手持ちカメラの映像が随所に組み込まれるのだ。
映画を観始めた当初は、「片岡徹役の俳優の演技がもうちょっと上手いといいんだけどなぁ」なんて思っていたが、段々と、「上手くないからこそ滲み出る狂気」みたいなものがあるなと感じられるようになって、結果的には良かったと思う。
そんなわけで、一見すると「マイナス」あるいは「プラスにはならない」要素が多いように感じられるが、なんだかいろんなものが絶妙に混ざり合って、結果として素敵な作品に仕上がっている。観て良かったなぁ。
あと、エンドロールを観ていて驚いたのが、「宣伝プロデューサー」として「古内一絵」がクレジットされていたこと。これは、小説家の古内一絵と同一人物なんだろうか?
ちなみに、この映画を僕は下高井戸シネマで観たが、『20世紀ノスタルジア』が上映されるちょっと前、映画館には広末涼子の『MajiでKoiする5秒前』が流れていた。
最後にもう一度。広末涼子がとにかく可愛い。