【映画】「KNOCK 終末の訪問者」感想・レビュー・解説

「好きかどうか」と聞かれたら、「好き」とは言いにくい。でも、メチャクチャ引き込まれたし、っていうか全然嫌いじゃない。
 
みたいな、なかなか評価の難しい作品だった。しかし、よくもまあこんな設定で物語をギリギリのラインで成立させているものだよなぁ、と感心させられた。
 
ざっくりと内容の紹介をしよう。
 
6日後に8歳になるウェンリン(ウェン)は、旅先のコテージがある森の中でバッタを獲っている。そこに、一人の大男がやってくる。腕中に入れ墨の入った男だ。レナードと名乗った男は、自分はバッタ獲りの名人で、パパたちと友達になるためにここに来たんだ、と語る。よく分からないものの、優しい雰囲気に引きずられるようにして会話を交わすウェン。しかしそこに、なんだか恐ろしげな武器を携えた3人の男女がやってくる。レナードが、彼らは仲間なのだという。
 
恐怖を感じたウェンは、すぐにコテージへと戻り、2人の父親(ゲイカップル)に「すぐに家に入って」と忠告する。その緊迫さをまだ理解しきれないでいたエリックとアンドリューだったが、しばらくしてドアがノックされ、「無理やり入りたくはないから開けてくれ」という謎の訪問者の存在を認識し、恐怖する。
 
果たして、彼らは無理やり家に押し入り、2人を椅子に縛り上げた。しかし、「危害を加えるつもりはない」という。彼らはいう。
 
【私たちは、”終末”を防ぎに来た。君たちの”選択”に懸かっている。家族3人のうち、進んで犠牲になる者を1人選べ。さもなくば、世界は滅びる。】
 
そんなことを言われて、「はいそうですか」となるはずもない。エリックとアンドリューは、意味不明な訪問者たちの理不尽な要求を突っぱね続けるが……。
 
というような話です。この内容紹介だけでも、まあ意味不明でしょう。これは、ざっくりと紹介した内容だから意味不明なのではなく、映画全編において、この意味不明さが貫かれるという感じになります。
 
ただ、「意味不明だ」と捉えているだけでは話が進まないので、もう少し踏み込んで考えてみたいと思います。
 
映画を観ながら、「もし自分が、レナードたちの側だったら、どうするだろうか?」と考えた。彼らの言動はあまりに「狂気的」だが、それはあくまでも「常識的な判断」によるものだ。彼らには彼らなりの「理屈」「根拠」「切迫さ」がある。それは、観ていて伝わってくる。彼らは、「自分がイカれたことを言ったりやったりしていること」も、「こんなことを言っても信じてもらえないこと」も分かっている。分かっているからこそ、「目的達成」のために仕方なくやらざるを得ないこと以外、可能な限り「誠実さ」や「信頼感」を作り出そうとする。
 
もちろん、そんな意図はエリックとアンドリューには伝わらない。当然だ。なにせ、訳の分からない男女が武器を持って突然押しかけて来て、自分を縛り付け、「終末を防ぐために、3人の内誰を殺すかを選べ」と言われているのだ。そんな中で「誠実さ」「信頼感」なんかが醸造されるわけがない。
 
ただ、「だからこそ」と繋げるのはおかしいが、だからこそ彼ら4人の切迫さが伝わるし、その支離滅裂さが、ある意味で間接的に、「彼らが本当にそう信じているのだ」ということが伝わってくるといえる。
 
さて、もちろんそれは「観客視点」でしかない。
 
もし自分がエリックとアンドリューの立場にいたら、そんな悠長なことを考えてはいられない。なにせ、大切な家族3人の誰か1人を殺す選択を強いられているのだ。意味が分からない。そんな意味の分からない状況を受け入れる必然性など当然無いとしか思えないのだから、相手の「切迫さ」がどうだろうと、そんなことを考慮する必要などない。
 
この絶望的に噛み合わない両者の「異様な」接点が、森の中のコテージで展開される、というわけだ。
 
繰り返すが、普通の観客の立場からすれば、訪問者4人の主張はイカれていると感じられるし、だからこそエリックとアンドリューの視点で物語を捉えることになるだろう。しかし世の中には往々にして、「訪問者4人」みたいな人(集団)がいるし、もしかしたらいつ自分がそっち側になってもおかしくないとも思う。
 
例えば、コロナワクチンに関する様々な主張が一時期氾濫した。もちろん、それらの中には、「医学的に耳を傾けるべき真っ当なもの」もあったとは思うが、「コロナワクチンを打つと身体に磁石が付くようになる」みたいな、明らかな嘘も数多くあった。しかし世の中には、そういう話を無批判に信じてしまう人もいる。
 
アメリカには、「トランプ元大統領は、世界を支配している悪魔崇拝者の秘密結社と闘っているのだ」なんていう、「何をどうしたらそんな話を信じられるのか意味がわからない」という話を信じている人たちがいる。そういう集団は「Qアノン」と呼ばれている。
 
そういう特異的な話を持ち出さなくても、例えば「自分が信じる政党の応援」をするような場合、人によっては「訪問者4人」のような振る舞いになってしまう人もいるのではないかと思う。
 
ちょっと持ち出した例がよくなかったかもしれないが、僕は別に「正しい/間違っている」の要素をこの議論には含めていないつもりだ。映画の話に戻れば、「訪問者4人」と「3人家族」のどちらが正しいかは明らかなように思えるかもしれないが、決してそうではない。「3人家族」の立場からすれば当然自分たちが正しいとなるが、それは「訪問者4人」の側も同じだ。「訪問者4人」の立場からすれば、「当然自分たちが正しい」のだ。
 
先程出した例で言えば、「コロナワクチン」であれば科学的知見が、「Qアノン」であれば「オッカムの剃刀」みたいな話が、「どちらか一方の正しさを強くする理屈」として働くだろう。しかし、この映画においては、そのような「何か」はない。実際にはあるかもしれないが、スマホの電波の届かない森の中のコテージという、かなり孤立した環境で、かなり限られた情報にしか接することができない設定においては、「正しさ」を決するような「何か」は生まれようがない。感覚的には「明らかに『3人家族』の方が正しい」と感じてしまうだろうが、客観的に判断すれば、同じぐらいの確からしさで「『訪問者4人』も正しい」といえるのだ。
 
そういう中で、「『訪問者4人』側に立たざるを得なくなってしまった」としたら、自分はどんな風に行動するのだろうか、と考えたりした。
 
僕は「占い」というものを基本的にはまったく信じていないが、しかし古今東西長い歴史の中で、「何らかの未来予知的な能力を有していた人」がいた可能性までは否定しない。まだ人類が科学で捉えきれていない何らかの「現象」「能力」はあってもおかしくないと思っているからだ。
 
もし、自分がそういう「予知能力」を持った人物だとして、その場合、自分の中には「未来にはこういうことが起こるという確信」が存在することになる。しかし一方で、それを客観的に証明することは出来ない。実際に「それ」が起こるまで、「それが起こること」の「正しさ」を証明することはできない。
 
もしも「それ」が「世界の終末」であり、その「世界の終末」を防げる手段まで知っているとすれば、やはり、「訪問者4人」のような行動をしてしまうのかもしれない。
 
そう考えた時、「訪問者4人」を単なる「狂人」扱いすることも出来ないと感じるのだ。
 
どんなメッセージや意図を込めた作品なのかなかなか推し量るのが難しい作品だが、なんとなくそんなようなことをグルグルと頭の中で考えてみた。
 
変な話だったし、人にはなかなか勧めにくいが、個人的には「観て良かった」と思える映画だった。
 

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