【映画】「ダンサー・イン・ザ・ダーク 4Kリマスター版」感想・レビュー・解説
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を初めて観た。胸くそ悪い物語だが、観て良かった。公式HPによると、2022年6月に国内上映権が終了するらしいので、今回が劇場公開されるのが最後になるそうだ。劇場で観たいという方は逃さず観たほうがいい。
「母の愛」という言葉は、好きじゃない。
それは、「母親が子どもに愛情を持つなんて当たり前」だからではない。むしろその逆。「子どもに愛情を持てない母親もいるはず」と思っているからだ。
だからこそ、「母の愛」を「美徳」であるかのように語る言説は、どうにも好きになれない。まるで「母親としての愛情」が無ければ「母親失格」であるかのような印象を与えかねないし、恐らく世の中には、実際にそんな風に思っている人もいることだろう。
子どもに愛情があろうがなかろうが、子どもを無事に育てていれば母親としては素晴らしい働きをしていると言えるし、それで十分のはずなのだ。「母の愛」なんてことを言い出すから、子育てがしんどくなるし、社会がギスギスする。
これが、僕の基本的なスタンスだ。
しかし確かに時には、「母の愛」としか呼びようがない状況もある。そういう、ごく僅かな例外に対して「母の愛」と呼ぶのはいいのではないかと思う。
そしてまさにこの映画で描かれるセルマは、「母の愛」としか表現できないような生き様を見せる。
しかし、彼女の生き方を称賛していいのかはなかなか悩ましい。というのも、突き詰めれば彼女の問題とは「お金」であり、お金の問題が発生してしまうのは「障害」にあるからだ。
つまり、この映画が突き進む「最悪のラスト」を回避するための道は、いくらでもあったのではないか、と考えてしまうのだ。
セルマを「最悪」へと突き落とした人物による最低最悪の行為が起こる前の時点で、セルマとその息子が救われる道はあったはずだ、と思いたい。
だからこそ、セルマの「母の愛」を称賛することにためらってしまう。そんな”誰も喜べない形”で「母の愛」を示さずとも、ごく当たり前に普通の「愛」を息子に与えることができたはずだ、と思うからだ。
胸くそ悪い物語だ。そしてだからこそ、こういう現実の中で自分たちは生きているのだなとも感じさせられる。
内容に入ろうと思います。
危険な作業を伴う工場で働くセルマは、視力がどんどんと衰えている。病気で、いずれ失明することが分かっているのだ。この病気は遺伝性であり、彼女が女手一つで育てている息子・ジーンにも受け継がれてしまっている。息子はまだこの病気のことを知らない。13歳の誕生日を迎えたら手術を受けさせるつもりだが、その手術代を工面するために彼女は、「チェコにいる夫にお金を送っている」と嘘をつきながら、必死でお金を貯めている。
セルマとジーンは、ビルとリンダの夫婦が自宅の敷地内に有しているトレーラーハウスに住んでいる。ビル家は、セルマが働きに出ている間ジーンの面倒を見てくれる。また、同じ工場で働く年上の親友キャシーには、様々な面で頼りになっている。
セルマは、危険な機械を扱う仕事をしているが、目がどんどん見えなくなっていることは周囲に告げておらず、彼女が生きがいにしているミュージカルのスタッフにもそのことを告げずに、目が見えているフリをして稽古を続けている。
ある日セルマは、ビルからある告白を受ける。ビルは多額の遺産を受け取っており、金銭的に余裕があると思っていたのだが、実は妻のリンダが浪費家で、銀行に家を差し押さえられている状態なのだという。普段お世話になっているビルの知られざる悩みに触れたセルマは、自分の秘密も打ち明けるのだが……。
というような話です。
もちろん映画を観る前に、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』という映画の名前は知っていたし、映画史に残る傑作だという評判も知っていた。あと、言葉のセレクトはともかく、「辛い/酷い/胸くそ悪い」映画であるということも知っていた。そのほかに知っていたことと言えば、タイトルからなんとなく想像できる程度の、「目の見えないダンサーが出てくるんだろう」程度のことだ。それ以外の知識はない。
しんどい映画だということは知っていたので、映画の展開そのものに驚かされることはなかったが、もしこの映画をなんの前情報もなく観ていたら、やはり凄まじかっただろう。
僕がまず驚いたのは、ドキュメンタリー映画かのような撮り方だ。カット割りは明らかにフィクションなのだけど、手持ちのカメラで手ブレのまま映し出される映像は、非常にドキュメンタリー的で、その分リアルさや臨場感が増していると感じた。あまりにも事前情報を知らずに見ているので、最初は「もしかしたらホントにドキュメンタリーなんだろうか?」と思ったほどだ。主演のセルマを演じているのが、世界的歌姫のビョークだということさえ知らずに観ているのでこういうことになる。
というか、映画が始まってしばらくは、セルマとジーンが姉弟だと思ってたから、セルマが母親だと知って驚いた。ビョークのWikipediaを見ると、生年から判断するに『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に出演時は30代前半のようだ。マジでもっと全然若い人だと思ってた。
ミュージカル映画だということも知らなかったので、最初のミュージカルシーン(確か工場で踊ってるのが最初だと思うけど)には驚いた。基本的にミュージカルって僕はあんまり得意じゃなくて、話題になった『ラ・ラ・ランド』なんかも、「なんでこの人たちは突然踊るんだろう」と気になって個人的には好きになれなかった。「なんで突然踊るんだろう」というのは、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に出てくるジェフも同じことをセリフとして言っていた。
ただ、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』はミュージカルシーンも受け入れられた。何故ならこの映画においては、「ミュージカルシーンはセルマの妄想である」ということがはっきり明示されるからだ。そしてだからこそ、映画の中でミュージカルシーンが非常に効果的な役割を担っていると感じた。
セルマは常に、厳しい現実の中で生きている。シングルマザーであり、失明することが分かっている。しかし周囲に失明のことは話しておらず、さも目が見えるかのように振る舞っている。息子にも目の異常が遺伝しており、だからこそその手術代が必要なのだが、そのために日常的にはジーンに良い思いをさせてあげられないでいる。ジェフは、そんなセルマに恋心があることを伝えてくれるが、セルマとしてはとにかく目が見えなくなってしまう前にお金を稼がなければならないから恋愛をしている余裕もない。
セルマはこんな風に、誰もが「やってられない」と感じるだろう状況にいる。
そしてそんなセルマにとって、空想にふけることは唯一の現実逃避であり、その空想は、彼女が生きがいだと感じているミュージカルで展開されるというわけだ。
つまり、「陽気なミュージカルシーン」が始まるということは、逆説的に、セルマが非常に辛い状況にいることを示唆する、というのが、この映画の仕組みなのだ。突然陽気に踊られてもなかなか受け入れがたいが、「陽気に踊っている場面が、セルマの現実の辛さを引き立てる」というこの映画における役割は非常に効果的だと思う。
映画の中でセルマは、「ミュージカルが好きな理由」について、「ミュージカルでは悪いことは起こらない」と語っている。まさに、「悪いこと」の連続の中にいる彼女にとって、「空想の中でミュージカルに逃避する」ことは、自分を保つための必要不可欠な要素だったと言っていいだろう。
「ミュージカル」という実に陽気な要素を、「スイカに塩をかけると甘くなる」の逆のような形で「辛さを倍加させるもの」として組み込んでいるのは、非常に印象的だった。
映画全体で言えば、セルマを「最悪」へと引きずり込むきっかけとなった出来事までは、「目がほとんど見えていないのに、それをおくびにも出さずに強く生きる女性」という部分が非常に印象的だが、その「最悪の出来事」以降は、「恐怖や絶望に押し潰されそうになる女性」という部分が強く描かれていく。
さらに印象的なのは、「最悪な出来事」以降のセルマが、一体何に恐怖や絶望を抱いているのか、という点だ。この点については、「2056ドル10セント」をめぐるから察することができる。確かに、自らの命を賭してでも実現したかったことが成されないかもしれない、という恐怖は僅かながら理解できる気がするし、是が非でもそれを避けたいと考えて行動するセルマの決断も理解できるような気もする。
しかし、映画の展開上仕方ないとはいえ、この「2056ドル10セント」を巡るある人物の決断は、ちょっと想像力に欠けると言わざるを得ない。彼女が覚悟を持ってその行為を行うのであれば、せめて弁護士に口止めぐらいはしておくべきだろう。どれだけセルマに後で恨まれようとも自分の決断を押し通すつもりだったのであれば、口止めは必須だ。ちょっと想像力が無さすぎる、と感じてしまった。
あと、これも映画的に、つまり「観客に伝えるため」に仕方ない展開だと分かっているつもりだが、獄中のセルマに対してジェフがした質問もいただけない。確かにジェフがした質問は、「観客に向けて、映画を完結させる」という目的の上では必要だったかもしれないが、実際あのような場面で本当にあの質問をする人間がいたら、ちょっと軽蔑するだろう。
そして、それに対するセルマの答えにも、胸が締め付けられるような思いがする。
僕は、それがどんな理由であれ、法を犯した人間は罰せられなければならないと思っているし、情状酌量の余地が十分あるとはいえ、確かにセルマは法を犯したのだから、無罪放免というわけにはいかないとは思う。
しかしなんというのか、セルマのような人こそ正しく報われる社会であってほしいと思っているし、セルマの行為だけを捉えて非難するような人間になってしまえば、そんな社会はますます遠のくだろうとも思う。
セルマが、このような形でしか「愛」を示せなかった、ということそのものが悲劇であるし、そんな究極の選択をせずとも、当たり前に存在する「愛」が当たり前に届くような世の中をいつも望んでいる。