【映画】「リュミエール!リュミエール!」感想・レビュー・解説
さて、本作は、最初から最後までほぼ全編に渡って「リュミエール映画」と呼ばれる映像だけで構成されている(最後に少しだけ、フランシス・コッポラが出てくるが)。「リュミエール」と言えば、言わずと知れた「シネマトグラフ」の発明兄弟である。しかし彼ら(というか、主に弟のルイ)は、単に「装置」を作っただけに留まらない。彼らは1895年3月22日に初めて「シネマトグラフ」(その時点ではまだその呼び名はついていなかったが)をお披露目したのだが、「技術」ではなく「使い方」を提示すべきだとはっきりと意識していたという。
そのために必要なのは「映像」だ。つまり彼らは、「新たな映画システムの開発者」でありながら、「優れた最初期の映像作家」でもあったというわけだ。この点が、エジソンとは大きく異なる点だろう。
「映画の発明者は誰か?」は今も論争が続いているようだが、本作のナレーション(文章を考えているのは監督だろう)では「その論争に首を突っ込むことはしない」と宣言している。リュミエール兄弟がシネマトグラフを開発するきっかけは、父ワントワーヌがパリで見た「キネトスコープ」(小さな箱に入った映像を手回しで見る一人用の映画)だった。彼はすぐに、「映像を箱から出して、大きなスクリーンに映せばいい」と考えたという。同時に、「息子たちにやってもらおう」とも。そして兄弟は父の期待に応え、後に世界を熱狂させることになる「シネマトグラフ」を開発したのである。
さて、ナレーションでは「映画の開発者論争には首を突っ込まない」と言っていたが、印象的な言葉を口にしていた。それが、「リュミエール兄弟以後、映画の発明者はいない」である。ナレーションの文章を書いた者は、「リュミエール以前の関係者は全員、映画の革命家だ」と言っていた。特定の誰かが生み出したわけではない、と考えているということだろう。実際、リュミエール兄弟も、シネマトグラフを開発する際、既存のシステムを応用する形を取った。既にエジソンが開発した「キネトスコープ」が存在したことからも分かる通り、彼らは「ゼロから何かを生み出したわけではない」のだ。
しかし、話は脱線するが、それはスティーブ・ジョブズも同じである。彼は「iPhone(スマートフォン)」という革新的な商品を発明したが、しかし、スマートフォンを作り出すのに必要な技術は既にすべて存在していたそうだ。ジョブズは単に、それらを組み合わせた(組み合わさせた)に過ぎない。しかし、「ジョブズがスマートフォンを発明した」ことに異論を唱える人はいないだろう。それと同じようなものだ。
彼らが作り出した「シネマトグラフ」は、「撮影時間50秒」という制約が存在したようだ。そのため本作『リュミエール!リュミエール!』は、そんな50秒の映像を110本ほどつなぎ合わせて構成されている。主な撮影者は、ルイ・リュミエールと、リュミエール社が養成した7名のカメラマンである。
そう、彼らはカメラマンを育成し、世界中に派遣するなどして様々な映像を記録、観客を楽しませようと努力し続けたのだ。まだ「映画」の未来がどうなるか分からない時に、カメラマンを育成し、資金を投じて彼らを世界中に派遣していたのだから、「映像作家」というか「映像制作会社」という方が正しいだろうか。そんなリュミエール兄弟のお陰で、開国直後の日本の映像も残っている。当時のパリで日本がどのように捉えられていたのか知らないが、よくもまあ、ヨーロッパから見て「極東」と呼ばれるほど距離的に離れていた日本にもカメラマンを派遣したものだと思う。
さて、「(ルイ・)リュミエールが映像作家である」という点に関して、ナレーションでゴダールの言葉を引用する形で面白い指摘がなされていた。
【文法を変えたければ、非識字者に会え】
この話がリュミエールとどう関係しているのか。
リュミエールがシネマトグラフを発明した時は、「映画・映像の文法」は存在していなかった。だから彼らは、「文法そのもの」を自ら発明しなければならなかったのだ。つまり、彼自身が「非識字者」だったということであり、それ故に「文法を変えられた(作らざるを得なかった)」のである。
面白いのが、「リュミエール映画」はその名の通り「映画」だったということだ。どういう意味か伝わるだろうか?
「リュミエール映画」には色んな種類がある。例えば、「街頭の一角にカメラを置き、街や人の様子をそのまま撮影する」「列車の上部にカメラを固定し、トンネルを出入りする様子を撮影する」みたいな映像もある。これらは「ドキュメンタリー映画」みたいな捉え方が出来るだろう。
しかしその一方で、「演出込みの映像」も作っている。有名なのは「水撒きの男」(みたいな名前だった気がするんだけど、ネットで調べると「水をかけられた撒水夫」という名前らしい)だそうだ。ホースで水を撒いている男が、水が出てくる先を覗き込んで水を被ってしまう、みたいな映像だ。これなどは、「リアルの映像を撮っているわけではない」ことがはっきり分かる映像と言えるだろう。
しかし中には、「そうと説明されなければ、『演出』されていることに気づきにくい映像」もある。農家の家族が、農地に散らばっている藁(だと思う)を鍬で掃く、みたいな映像なのだけど、これは、何も考えずに観ていたら「いつもの日常をそのまま撮っている」みたいに感じるんじゃないかと思う。しかしナレーションでは、「カメラを気にしてカメラ目線になっている」「地面に、動くルートを示す印があるのだろうが、子供たちは無視だ」みたいなことを言っていた。演出ありきで撮られた映像であることを示している。
当時の映画はモノクロだし、音声もないわけだが、それでも「映画の流れを示す脚本」は作っているのだろうし、それを元に「計算して映像を制作していた」というわけだ。これもまた「映像作家」と言える要素だろうと思う。
そしてそんな風に試行錯誤しながら、「映画・映像の文法」を自ら作り出していったというわけだ。ナレーションでは、「リュミエールは、仮に映画(シネマトグラフ)の発明者じゃなかったとしても、優れた映像作家として名を残しただろう」と言っていた。「リュミエール兄弟=シネマトグラフの発明者」ぐらいの認識しかなかったが、この指摘は非常に興味深かったし、なるほどという感じだった。
さて、「リュミエール映画」に関してはもう1つ、興味深い言及があった。
リュミエールは、1895年12月28日に、初の有料一般公開にこぎ着けたのだが、その2日後に最初の批評が発表された。その人物は「リュミエール映画」について、「死は絶対的なものではなくなるだろう」と書いたという。つまり、「生きている人間の姿がこれだけきちんと保存されるのであれば、仮に肉体が滅びたとしても、映像の中で”生き続ける”ことが出来る」というわけだ。この表現は、「リュミエール映画」を観た当時の人々の驚きが詰まった言葉であるように感じられた。
音声もなく、ほぼカメラが固定されたままの映像なので、正直、退屈と言えば退屈なのだけど、しかし「当時の人がこれを観たら、そりゃあ驚愕だろうな」とは感じたし、また、恐らく復元しているからという理由もあるとは思うのだけど、映像が思った以上に綺麗で驚かされた。
ちなみに、鑑賞後に知ったことだが、本作は前作『リュミエール!』に続く第2弾のようだ。タイトルの付け方が『ビートルジュース ビートルジュース』みたいだなと思った。どうでも良い話だけど。
あと、どうでも良い話ついでにもう1つ。珍しく、映画の字幕に誤植を見つけた。「リュミエール映画」は、主に弟のルイが撮影していたのだが、そんなルイが、
【◯◯はオーギュストが撮影したと名言している映像だ】
みたいに言ったと伝える字幕が表示されるのだけど、「名言」は「明言」の間違いですね。