【映画】「大きな家」感想・レビュー・解説

さて、今日もまた不思議な体験をした。ドキュメンタリー映画に、満員のお客さんがいたのだ。少し前に観た映画『どうすればよかったか?』も満員で、マジでどこからこの観客は来ているんだろう、と思った。普段僕がドキュメンタリー映画を観る時は、ガラガラであることが多いからだ。ただ、エンドロールを観て初めて知ったが、どうやらプロデューサーか何かに、俳優の斎藤工が絡んでいるようだ。それもあってのこと、なんだろうか。

さて、僕が本作『大きな家』を観ようと思った理由はシンプルだ。以前観て衝撃を受けたドキュメンタリー映画『14歳の栞』の監督である竹林亮が本作を撮っているからだ。

映画『14歳の栞』は、とある中学2年生のあるクラスに長期密着して撮影された作品で、「どうしてこんなに、カメラの存在を気にしないフラットな子どもの姿が撮れたんだろう?」という点でとにかく驚かされてしまったのだ。そして、そんな監督が児童養護施設でドキュメンタリー映画を撮ったというので、気になって観に行ったのである。

「繊細さ」という意味で、中学生に密着するのもそう簡単ではなかったと思うのだけど、児童養護施設となればそのハードルは格段に上がるんじゃないかと思う。児童養護施設というのは、死別・病気・虐待など様々な理由で「親とは暮らせない」と行政により判断された子どもたちを養育する施設であり、日本全体で4万2000人ほどの子どもが児童養護施設で生活しているそうだ。つまり、皆「何らかの事情でそこにいざるを得ない子どもたち」なのであり、カメラを片手に長期密着する対象としては難しい存在と言っていいように思う。

しかし、『14歳の栞』同様、そこで日々暮らしている子どもたちのフラットな姿を映し出しているような感じがして、さすがだなと思った。もちろん、「カメラを向けられているのに、本当の意味でフラットでいられるはずがない」ということは理解している。あくまでも、「そう受け取っても不自然ではないように見えた」というだけの話だ。

ちなみに、こちらも『14歳の栞』と同様、本作の上映に際しては、まず入口でチラシ的なものを受け取り鑑賞の注意事項が書かれていて、さらに映画冒頭と最後で同じような注意が表示される。入口で受け取ったチラシにかかれている文章を引用しておこう。

【この映画に登場する子どもたちや職員は、これからもそれぞれの人生を歩んでいきます。
SNS等を通じて、出演者個人に対するプライバシーポリシーの侵害やネガティブな意見、各家庭の詮索や勝手な推測、誹謗中傷を発言することはご遠慮ください。
また、ご近所にお住まいの方は、施設名や地名の言及をお控えください。
どうかご協力をお願いいたします。】

施設名については、映画の中で子どもたちが口にしているのだが(漢字は分からないが)、こういう注意があるので具体的なことには触れないでおこう。作中でメインとして取り上げられる何人かの子どもたちについては年齢と名前も表記されるが、この記事では一応名前も書かないでおこうかと思う。

で、このような事情があるからだろう、本作は「配信やパッケージ化」が予定されていない。「配信で観ればいいや」と思っている方、映画の性質上、配信されることは恐らくないので、劇場に観に行った方がいいでしょう。

さて、映画を観始めてすぐ、僕は「こんなこと感じていいんだろうか?」という感想を抱いた。それが、「児童養護施設、結構楽しそうじゃん」である。もちろん、言うまでもないことだが、親元にいられない(あるいは親がいない)彼らの生活は、色んな苦労と隣り合わせだろう。「楽しい」という感想でまとめるのは相応しくないかもしれないということも理解しているつもりだ。

ただ、一方で、本作を作った者たちの願いは実は、「思ってるほど可哀想な子たちじゃないんだよ」「楽しく過ごしてる時だってたくさんあるよ」と観ている人に伝えることだったんじゃないか、とも勝手に想像している。

僕が「児童養護施設、結構楽しそうじゃん」と感じたその背景には、「児童養護施設」が物語の中で「悲惨な場所」として描かれることが多いという理由がある。映画でも小説でも、「児童養護施設で壮絶な虐待を受けた」みたいな経験を持つ人物が登場することは結構ある。また、施設は良い場所だとしても、「施設で暮らしている」ということで学校でいじめに遭う、みたいな設定も多いだろう。フィクションの物語の中で、「児童養護施設」がポジティブな場所として描かれることはまずないので、どうしても「児童養護施設=辛い場所」みたいなイメージが強くなってしまう。

しかし、普通に考えれば、「すべての児童養護施設がそうなわけがないし、すべての児童養護施設で暮らす子どもがそうなわけがない」のだ。そしてそのことを、本作『大きな家』を観て「そうだよな」と実感できたというわけだ。

さて、本作の舞台となる児童養護施設は、ある時点で「暮らしている子ども99人、職員120人」という規模だったそうだ。これは、ネパールにボランティアにいった職員が、現地の人に話している会話の中で出てきた数字だ。児童養護施設としてこの規模が大きいのかどうか分からないが、「99人の子どもの共同生活」というのは、かなり大きな規模に感じられる。

で、その中の10人程度の子どもたちに特に焦点が当てられるのだが、「彼らが何故児童養護施設で暮らしているのか」についてはほとんど触れられない。もちろん、子どもたちが自分で「親は僕が3歳の時に死んだ」とか「高校の話をし始めたから、母も姉も僕を帰らせる気はないらしい」みたいに自身の境遇を話すことは時々あって、それで若干推測出来るようなこともある。ただ本作は、一人ひとりの事情を詮索するみたいなことではなく、「児童養護施設のいち風景」として子どもたちを捉えているので、そこに深入りすることはない。

まあそれ自体は全然いいのだけど、個人的に理解できなかったのは「親がいるのに児童養護施設で暮らしている子ども」の存在だ。取り上げられていた10人ほどの子どもの中にも、「今日はお父さんと会う日」「外泊に行ってきます」みたいな話をする子が多くいた。

果たしてそれは、どういう状況なのか?

親がいるのだから死別ではないし、児童養護施設まで迎えに来ているから「病気で育てられない」みたいなことでもなさそうだ。虐待だったら親元に一時的にでも帰したりしないだろうし、そもそも子どもたちが親に会いたがっているから「虐待」のイメージからも遠い(虐待されていても親に会いたがる子どももいるとは思うが)。

そんなわけで、「やはり世の中に知らないことは色々あるなぁ」と思わされる鑑賞体験でもあった。どうしても僕の日常生活の範囲外の世界ではあるので、「知らなかったことを恥じる」みたいなことは別にないが、「やはりもっと色んなことを知ろうとする意識を常に持ち続けよう」と改めて実感させられた。

ちなみに本作は、「子どもたちの事情」だけではなく、映像で映し出されるすべての状況に対して説明がない。もちろん、先程話に出した「ネパールへのボランティア」のように、「職員が子どもたちに説明する」という形で観客も状況を知れる、みたいなことはある。しかしその一方で、「突然雪山で遊んでいる(恐らく旅行だろう)」「『あいなちゃんにおめでとうって言いたい』と言っている女の子の存在(事情はまったく不明)」など、「何の場面なのか分からないこと」も多い。とにかく「制作側からの説明は一切含まれず、ただただ映像と音声だけを提示する」というスタンスに徹している。カメラマン(や監督?)が子どもたちに質問する場面もあるので、「ただ日常を捉えているだけ」というわけでもないのだが、かなりそれに近い構成になっていると言っていいだろう。

さて、個人的に最も興味深かったのは、本作のタイトル「大きな家」とも関係する点である。制作側は子どもたちに度々、「◯◯ちゃんにとってこの場所はどういうところ?」「一緒に暮らしている人たちは家族みたいなもの? ベストフレンドみたいな感じ?」と言った質問をする。制作側は、一旦この「児童養護施設」を「血の繋がらない『家族』が暮らす『家』」と捉え、その認識を実際に住んでいる子どもたちにぶつけてみている、というわけだ。

そしてこれに対して様々な反応があって興味深かった。

多かったのは、「ここは『家』とは思えない」みたいな反応だ。「大きな家」というタイトルとは裏腹に、住んでいる子どもたちは「家」という実感を抱いていないようである。「じゃあ何なのか?」と問うと、「預かってくれている場所」「施設」みたいな返答をしていた。

まあそこには、「児童養護施設は18歳になり、自立した生活の準備が整ったら出なければならない」という大前提となるルールが存在することも大きいとは思う。子どもたちは入所した段階でこのルールを説明されるだろうし、だから「ずっといられる場所ではない」という感覚を抱きながら住むことにもなるだろうと思う。「実家」であれば、そこに居続けるか出るかは自由意志で決められることの方が多いはずだが、「児童養護施設」は「100%必ず出なければならない」という制約がある。

そういう制約をずっと意識しながら住み続けていれば、確かに「家」という実感を抱きにくいだろうか、と感じたりもした。これも、経験してみないとなかなか分からないだろう。

さて、もう1つ興味深かったのは、「一緒に住んでいる人を『家族』と思えるか?」に関する反応である。ある少年はこれに対して、

【こんなこと言ったらあれだけど、血の繋がっていない人を「家族」って言われると「うーん」って思っちゃう】

みたいに言っていた。

僕にはこの感覚が全然理解できない。昔から「血の繋がり」に意味を感じられたことがなく、むしろ「血が繋がっている家族」の方にこそ「他人感」を抱くことが多かったからだ。ただこれも、先回りで反論に想定しておくと、僕が「両親の下で特段不自由なく暮らしてきたから」かもしれない。児童養護施設で暮らす子どもたちは、様々な事情から「血の繋がった家族」と一緒に暮らすことが出来ないわけで、だからこその感覚という可能性もあるだろう。

ただ、「個人差」という感じもする。というのも、作中に登場する別の少年はこんな風に言っていたからだ。

【「血が繋がってる」ってだけで、そんなに会ったこともないし、別に会いたいと思うこともなかった。それより、同じ時間を長く過ごした人との関係の方がずっと大事かな】

僕の感覚もこちらに近い。「血の繋がり」なんて、目に見えないし、それこそ遺伝子検査でもしないとはっきりしたことは分からない。僕だってもしかしたら、親と血が繋がっていない可能性だってゼロではないだろう。「血の繋がり」なんて、「自分のお腹から出てきた」という経験が出来る母親ぐらいしか実感できるようなものではないし、それ以外の人には「そう言われているからそう信じる」ぐらいのものでしかないように思う。

一方、「同じ時間を長く過ごした」は、本人が実感できることだ。そして、自分で選べることでもある。だから僕には、そっちの方が圧倒的に重要だ。個人的には、「どうして人間は『血の繋がり』なんてものを重視してしまうのか?」ということの方に興味がある。もしかしたら、僕らが意識できないだけで、脳の無意識の領域では「この人と自分は『血の繋がり』がある」みたいなことが認識できるのかもしれない。そういう話で言えば、「近親相姦にならないように、娘は父親の匂いを嫌がるような仕組みになっている」という話を聞いたことがある。であれば、「血の繋がり」についても、無意識レベルで認識出来るのかもしれないし、もしそうなら理にかなったシステムだとは思うんだけど、どうなんだろう。

あと、これは「えっ?」と感じた話なのだけど、「施設の人は家族じゃないから」という話をしていた少年に、「どういう時にそれを感じる?」と聞いた際の返答が印象的だった。彼は「施設の人とはよく喧嘩するけど、実の兄弟とは喧嘩しない。施設の人は、やっぱ他人だから」みたいに言っていた。

事情は不明だが、この少年の兄弟(兄なのか弟なのかも分からない)は家族と共に暮らしていて、少年だけが児童養護施設にいるみたいだ。そして、時々会うその兄弟とは喧嘩をしないようで、そしてその事実が彼にとっては「家族である」という感覚に繋がっているというのだ。

この返答には、カメラマン(なのか監督なのか)も疑問を抱いたようで、「喧嘩できる方が家族って感じするけどね」とやんわり投げかけていたが、本作中にはそれに対する返答は映し出されなかった。もしかしたらだが、自分でも「ん?」と思ったのかもしれない。どうだろう。

さて、映画の後半である女子高生が映し出される。彼女に対して「20年後どうなっていたらハッピーですか?」という問いかけをすると、「20年も生きていたくないです。ただでさえ、ここまでの17年大変だったのに。人間、生き地獄ですよ」みたいな返答をしていたのが印象的だった。傍目には、とても明るくて楽しく生きていそうな感じのする女の子だったので、余計にそう感じたのだと思う。

先ほど「ネパールにボランティアに行った」みたいな話を書いたが、その一人が彼女である。彼女は、「『自分って何なんだろう?』みたいなことを考えるのが苦しくて、だから何かにチャレンジしたかったんです」と、児童養護施設が企画したボランティアに参加を決めたのだそうだ。

そのボランティアというのが、「ネパールの孤児院に行き、そこで暮らす子どもたちと遊び、日本の伝統文化を伝える」というものだった。そう、まさに自分と同じ境遇にいる子どもたちに会いに行く、というものだったのだ。

彼女は、そこで暮らす同い年の女の子と話をしながら、「日本に生まれ育って、『部屋を片付けられない』みたいなことでギャーギャー言ってる自分が恥ずかしい」みたいな話をしていた。また、話を聞いた女の子がそう思っているだけかもしれないが、ネパールの孤児院の子どもたちは「親はいないけど、みんなで一緒に生活しているから孤独を感じることがない」みたいなことを言っていた。一緒に暮らしている子どもたちは、家族みたいなものだ、と。しかしそれを聞いてもやはり、その女子高生は、「自分は施設で一緒に暮らす子たちを家族とは思えない」みたいに言っていた。

そんな彼女は、高校2年生の時に初めて母親に会ったそうだ。もちろん、その辺りの事情も不明である。そして、18歳が間近に迫った彼女は「自立支援」という部屋に移ることになった。どうやらこの部屋は「単身者用のアパート」を模した造りになっているようで、「児童養護施設を出ていきなり一人暮らしをするのは大変だろうから、先に少し慣れておこう」という意図で用意されているようだ。こういう部屋が存在するという点も、この施設が子どもたちのことをよく考えている印象に繋がっていて、僕にはとても良い環境に見えた。

で、彼女はたぶん最初は「再会を果たした母親と一緒に暮らす」というつもりでいたみたいなのだが、しばらくして考えが変わったようだ。彼女は、施設の職員も心配するぐらい「依存体質」だそうで、何かに依存していないと心が辛くなってしまう感じだという。そして彼女自身も自分のそんな性格を理解していて、「お母さんと一緒に暮らしたら、甘えて、今やってること(※家事など)は全部やらなくなると思う」みたいに言っていた。

そしてそれに続けて口にしていたことが、「あぁ、良い言葉だなぁ」と感じられるものだったのだ。

【たぶん、一緒にいない方が、長く一緒にいられるんだろうと思う。】

言葉的には矛盾しているが、「なるほど、確かに」と感じさせる発言だった。結局彼女がどういう決断をしたのかはよく分からないが、何にせよ、「生き地獄」なんて感じずに済むような生き方が出来ていればいいなと思う。

というわけで、予想に違わずとても素敵な作品だった。ドキュメンタリー映画っぽくなく(というと若干偏見も含まれるが)映像が結構綺麗で、ドキュメンタリー映画をあまり観ないという方もそこまで抵抗なく観れるんじゃないかと思う。とても素敵な映画だった。

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長江貴士
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