【映画】「風が吹くとき」感想・レビュー・解説

以前、三崎亜記『となり町戦争』を読んだ時のことを思い出した。かなり前に読んだのでちゃんとは覚えていないが、こんな感じの話だったと思う。ある町に住む男の元に、時々(あるいは毎日)町の広報紙が届く。そこには「となり町で行われている戦争」についての戦況が記されていた。被害状況や、死者数などである。しかし彼には、「戦争の雰囲気」は感じとれない。銃声も聞こえなければ、流血を目にすることもないのだ。完全に、普通の日常である。彼が「戦争」を意識するのは、町の広報紙の報告だけ。そんな「見えない戦争」を描いた物語だ。

本作『風が吹くとき』を観ながら、この『となり町戦争』のことを思い出していた。「戦争が起こるぞ」という政府からの案内に、夫はちゃんと準備を進めようとするのだが、妻がかなり楽観的に構えているのだ。そんな妻の姿を観て、「戦争」の遠さみたいなものを感じさせられたし、それが『となり町戦争』の雰囲気に近い気がした(ただ、本作で描かれる妻は、戦争を経験している人である)。

もう1作、こちらも大分昔に読んだのであまり覚えていないが、中島京子『小さいおうち』という小説のことも思い出した。この作品は、戦時中のことを描いているのだが、戦闘や貧困とは無縁の日々を送る家族を描き出す。「戦争」と聞くとどうしても、「国民全員が『火垂るの墓』のような世界に生きていたのだ」みたいなイメージをしてしまうが、もちろんそうではない人もいたのだということを思い起こさせてくれる作品だ。

そしてこの『小さいおうち』もまた、本作『風が吹くとき』の世界観に少し通ずるものがあると感じた。「戦争」というのは人によって異なる体験をもたらすものであり、それもあって、共通の認識を持つことが難しくなるとも言える。

さてそれでは、本作『風が吹くとき』の内容を紹介しようと思うが、その前に少し、本作にまつわる話に触れておこう。僕は鑑賞時点ではこれらのことを知らず、鑑賞後に公式HPを見て理解したことである。

本作はそもそも、1986年に英国で制作、翌1987年に日本で公開された作品だ。40年近く前の作品というわけだ。1987年に公開された日本語吹き替え版は、大島渚監督が担当。本作の主題歌である『When the Wind Blows』をデヴィッド・ボウイが歌っているのだが、1983年公開の映画『戦場のメリークリスマス』での関わりもあって、大島渚に声が掛かったのだという。そして、主人公である夫婦の声を担当したのが森繁久彌と加藤治子である。また本作には原作が存在し、その原作が発売されたのが1982年。作中ではいつの時代の物語なのか示されていないが(「戦後40年ですもの」というセリフは出てくる)、「冷戦時代の真っ只中で、核戦争の危機に満ちていた」1982年頃が舞台の物語と考えればいいだろう。

そしてそのような作品が、2024年に改めて劇場公開されているというわけだ。なかなか興味深い作品である。

というわけで内容の紹介をしよう。

仕事を引退したビルは、妻のヒルダと共に郊外の一軒家に引っ越し、穏やかな生活を過ごしていた。ビルは日々図書館で新聞を読み、ヒルダは様々な家事をこなしている。そんなある日のこと。いつものように図書館から戻ってきたビルは、「戦争が起こりそうだ」という話を妻にする。しかし、政治とスポーツのことにはまったく興味がない妻は、夫の話をまともに聞こうとしない。

しかし、ラジオをつけるとなんと、「あと3日以内に戦争が始まるでしょう」と告げていた。新聞を読んで知識を得ているビルは、これはまずいと考える。第二次世界大戦の記憶しかない妻は安穏としているが、核爆弾が落とされたらとんでもないことになるからだ。

そこでビルは、図書館でもらってきた政府発行のパンフレットを元に準備を進める。そこには、備蓄しておくもののリストは、窓ガラスに白いペンキを塗るように(放射能を防ぐためだそうだ)という指示など様々な対策が書かれているのだが、中でもビルが熱心に取り組んだのが「シェルターの制作」である。

しかしシェルターと言っても、現代を生きる我々からすれば「笑止」としか言えないようなものだった。なにせそのシェルターは、「家の中の扉から外したドア板を壁に60度の角度で立てかける」という、お粗末なものだからだ。そんなもので核爆弾や放射能が防げるはずがないが、ビルは政府のパンフレットを信じ、シェルター作りに勤しむ。

そしてどうやら、他の市民もこのシェルター作りを行っているようなのだ。作中では、この夫婦以外にはほぼ描写されないのだが、ビルが町まで買い出しに出かけた際に、「分度器が売り切れていた」と妻に報告する場面がある。そしてさらに続けて、「60度に切った板をくれたよ」と口にするのだ。文房具店の好意だという。この描写は明らかに、「多くの人が60度を測るために分度器を必要とし、その求めに応じて文具店の店主が即席の板を作ってくれた」という事実を描き出している。そしてそれはつまり、「他の市民も同じように、政府のパンフレットを見ながらシェルター作りをしていること」が示唆されるだろうと思う。

さて、そんな風に戦争への準備を始めるビルに対して、ヒルダは「ドア板で壁に傷をつけないで下さいね」「クッションを汚さないで下さい」と、あくまでも「今日と同じような日常が明日からも続いていく」という前提で自身の振る舞いを決めているのである。

そんな風に考え方が全然食い違う2人が「戦争が始まる」と言われてからの”日常”を過ごしていくのだが……。

というような話です。

本作は、ビルとヒルダの実に軽妙なやり取りが魅力的で、「老夫婦が住む家」だけで展開される物語にも拘らず、とても興味深く観れる。長く連れ添ったんだろうなということが分かる夫婦の軽妙なやり取りはとても素敵だし、そういう描写を背景に「戦争」を前景に押し出していく感じがとても面白い。

さらに、「戦争」に対する彼らの考え方も実に興味深かった。会話の中で、「スターリンは良い人だった」「前の戦争は良い思い出だった」みたいなことを口にするのである。スターリンは大体良くは扱われないだろうし、「戦争」が扱われる場合に「良い思い出だった」みたいな発言もなかなか出てこない。ただ、冒頭で少し書いた通り、「戦争」は人によって異なる体験を与えるものだ。むしろ「戦争を経験していない人(今日本に生きている人はほぼ全員そうだろう)」こそ「戦争」を一面的に捉えがちだと思う。だからこの描写は、この夫妻が戦争経験者であることを強く示すものであると僕には感じられた。

そしてその上で、本作では非常に特徴的な示唆がなされていく。特にビルの方が顕著だったが、「政府の言う通りにすれば何の問題もない」という感覚が全面に押し出されるのである。

もちろんこれは「皮肉」的な描写である。本作の制作陣は、「政府の言う通りにすれば何の問題もない」と考えているビルを描くことで、逆説的に「政府の言っている通りにするんじゃないぞ」というメッセージを発しているのである。

さて、これも公式HPを読んで知った知識だが、本作に登場する「政府のパンフレット」は実在したものだそうだ。「PROTECT AND SURVIVE(守り抜く)」という名前で、1974年から80年までの間、英国政府が配布していたのだという。つまり先述の「ドアを立てかけたシェルター」も、政府のお墨付きのやり方だったというわけだ。公式HPには、「こうした政府の姿勢に強い憤りを抱いたことも、ブリッグズが『風が吹くとき』を描いた理由の一つとなっている」と書かれている。

また、もう1つ印象的だったのが、映画のラスト付近で、ビルが「緊急サービス班が来るのを待とう。お上がわしらを助けてくれるはずだからな」と口にし、ヒルダもそれに賛同している場面だ。これがどのような状況で発された言葉なのかは触れないが、彼らにとってはかなり危機的状況の中でのものなのだ。にも拘らず、この期に及んでも「政府を信じる」というスタンスを崩さないのだ。この描写もまた、とても印象的だった。

さて、本作が2024年の現在改めて劇場公開されているのは、「世界的に核戦争の危機が高まっている」からだろう。ロシアはウクライナ侵攻を契機に、核の使用に言及するようになったし、北朝鮮は長距離弾道ミサイルの実験を頻繁に行うことで、日本やアメリカを挑発している。僕は1983年生まれなので、「冷戦時代」のことをリアルに記憶してはいない。恐らく、冷戦時代の方が遥かに「核戦争」への危機意識は高かっただろう。しかし現代も、一昔前と比べたらその危険性が遥かに高まっていると言えると思う。

また、「災害への準備姿勢」という捉え方をするなら、日本は別の意味でもリアリティを感じる作品ではないかと思う。つい先日、南海トラフ巨大地震への警戒が少し引き上げられたが、地震大国である日本にとって、「いつ起こるか分からない核戦争」は「いつ起こるか分からない巨大地震」に読み替えて受け取ることが可能ではないかと感じた。

そんな2つの理由から、本作は現代を生きる日本人が観るべき作品だと感じられた。公開当時に観てもなかなか恐ろしく感じられた映画ではないかと思うが、今観たらまた別の怖さも含んだ形で鑑賞出来るのではないかと思う。

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