【映画】「赦し-ゆるし-」感想・レビュー・解説
僕はいつも、「どこかにはかならず『境界』が存在する」と考えている。
その「境界線上」では、感情的にも理性的にも「納得」とは程遠い現実が存在し得る。「正しい/間違っている」「許す/許せない」など、どうやっても割り切れない円周率みたいな状況が現出することになる。
僕の基本的なスタンスは、「だからこそルールに則らなければならない」である。どんな勘定を抱こうが、「境界線上」だからこそ余計に「ルール」を厳密に適用し、「ルール」によって判断しなければならない、と思う。
そういう意味で僕は、弁護士の佐藤と考えは似ていると言える。
が、映画を観ていて一番共感できないのも、弁護士の佐藤である。彼は彼なりの仕事を全うしているだけであると理解しているつもりではあるが、僕はどうしても、佐藤のような人間を好きになれない。
映画には、様々な意味で葛藤を抱える者が多数登場する。同級生を殺した殺人犯、娘を殺された父親、そして娘を殺された母親である。彼らは、自分たちが「境界線上に立っていること」を理解している。そして、自分のちょっとした決断・言動によって、そのどちらのサイドにも着地できることを理解している。そして、「そういう状態にいること自体に嫌気が差す」「自分が正しいと信じる側を譲ろうとしない」「どちらサイドに踏み出すべきなのか悩み続けている」など、様々な「葛藤の形」が表面化されることになる。
映画全体としては別に大した場面ではないはずだが、一番印象的だったのが、「正しく生きてるよ」というセリフが出てくる場面だ。そう言われた側は、「ホントに何も分かってないんだね」と返す。僕は、この場面が一番印象的だった。
いろんな説明の仕方ができるような気がするが、僕はそもそも「正しい」という言葉を”安易に”使えてしまう人が好きではない。「正しい」と主張するためにはあらゆる要素を考慮する必要があるのだが、「正しい」という言葉を安易に使える人にはそういう要素が見えていない、あるいは見えていても重視していないように感じられてしまうからだ。
そしてさらに、「正しく生きてるよ」というセリフが出てくる場面では、そもそも「『正しいかどうか』が問題ではない」ということが理解できていないことが明らかになってしまう。葛藤を抱える者にとって、「正しいかどうか」がその本質にあるのではない。しかし、そのことが理解できないからこそ、「正しく生きてるよ」と口にすることで、相手の悩みを取り除けると考えているのだ。その”安易さ”が、相手を苛立たせることになる。
もちろん、「正しく生きてるよ」と言われる側の人物も、相手に対して繰り返し「あなたには理解できない」みたいなことを口にするし、これは良くないかもしれない。ただこのやり取りの中にも、僕が普段から考えているような典型的なモヤモヤがあった。「あなたには理解できない」と言われた側は、「言ってくれなきゃ分からない」と返すのだが、僕はこの言い方がとても嫌いだ。大事なことは、「あなたに言いたい気分になるかどうか(言いたい気分にさせてくれるか)」だからだ。あなたに言いたい気分になれないのに、「言ってくれなきゃ分からない」と言われるのは、僕には理不尽に感じられる。話したい(話が通じる)と感じれば話すし、話したくない(話が通じない)と感じれば話さない。だから大事なのは、「話したい(話が通じる)」と感じられるかどうかなのに、「言ってくれなきゃ分からない」というセリフは、まさにその点の理解不足を晒しているようにしか感じられないからだ。
というようにこの映画では、「少年法事案の裁判で被害者と加害者が対峙する」というだけではない様々な葛藤が描かれる。
あるいは、こんな葛藤もある。自分の正しさを揺るがせにしないある人物は、別の人物が「被告が言っていることが正しい可能性もある」と示唆された時に、「お前は殺人犯の味方をするのか」と詰め寄る。もちろん、娘を殺された辛さは、子どものいない僕には理解できないが、そういうこととは関係なしに、「真実を追求しようとする態度」を「殺人犯の味方」と捉える発想は、やはりちょっとムリがあると感じた。
犯罪を含む何らかの「問題」が発生した場合、「その問題が顕在化するに至った『最後に引き金を引いた者』」ばかりに焦点が当たることが多い。もちろんそれは仕方ないことだと分かっている。大抵の場合、「最後に引き金を引いた者」に「まったく責任が無い」ということはないのだから、まずはその人物が糾弾されるという構造は避けられない。
ただ、「それしかない世の中」もまた、残酷だなと感じてしまう。
結局のところ、「じゃあ私はどうすれば良かったんですか?」に応えられないのであれば、社会は何も変わらないからだ。そして、弁護士の佐藤が嫌いなのは、恐らくそんな発想を持つことなどないのだろうな、と考えてしまうからだろう。
僕自身には何も出来ないかもしれないが、それでも僕は、「じゃあ私はどうすれば良かったんですか?」という問いを常に想像する側の人間でありたいと思った。
内容に入ろうと思います。
7年前、17歳の時に同級生を殺害した罪で逮捕された福田夏奈は、少年犯罪でありながら懲役20年を宣告され、現在も服役中だ。しかしそんな中、福田の再審請求が認められた。弁護士は、「少年犯罪であり、情状酌量の余地があるにも拘わらず、そのことが考慮されなかった」と異議申し立てを行っている。
裁判の通知は、樋口克・岡崎澄子の元にも届く。2人は、殺された娘の両親であり、既に離婚、克は昼間から酒浸りで、澄子は再婚している。「絶対にあの殺人犯を刑務所から出さない」と意気込む克に対し、どういうスタンスで裁判に臨めばいいのか澄子は悩んでいる。2人とも、裁判を傍聴し、その過程でまた話すようになっていく。
グループセラピーで知り合った夫の直樹もまた、家族の喪失を抱えるものだが、それでも澄子は、この葛藤を直樹とは共有できないと考えている。過去の辛い記憶を裁判によって思い起こさせる日々が続く中、澄子は直樹との関係にも難しさを感じるようになっていき……。
全体的に、凄くリアルな感じで描かれる映画だと思いました。僕は、『赦し』の監督の前作である『コントラ』という映画を観ていたので、まずそのことに驚きました。『コントラ』はとにかく、なんとも言えない非日常感溢れる作品だったので、そのギャップはかなり大きいと感じました。
ストーリーそのものには、特筆するようなところはないけれど、全体的にとても丁寧に描いている作品という印象でした。実際に見たことはないものの、裁判シーンも「本当にこんな感じなんだろうな」という雰囲気で描かれていたし、それぞれなりの「葛藤」を抱えた登場人物たちの細かな変化を上手く捉えている感じでした。
殺人犯役を演じた女優(松浦りょう)は、なんというのか「顔が強い」と感じました。なかなか難しい役柄だったと思うけど、彼女が存在全体から発する何かが、この映画を絶妙に成立させているように感じました。
「境界線上」にあるものは、ちょっとしたことでこちら側にもあちら側にも着地しうる。だから軽々しく「これが正しい」などと言えないでしょう。難しい問題ですが、フィクションがその難しさをこういう風に炙り出してくれることで、考える機会が得られるとも言えるでしょう。誰の立場に立つかによっても、その結論は変わるだろうと思います。そういう議論が、正しい形で生まれてくれるといいだろうし、そういうきっかけとして、こういう映画の存在は重要だろうなと思います。
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