【映画】「雪子 a.k.a」感想・レビュー・解説
なんというのか、結構良い映画だった。なんとも煮え切らないような表現をしているのは、今思い返してみても「ズバッと来るような何か」があったようには思えないからだ。冒頭から、かなりしっとり進んでいくし、ラップの部分だけは確かに、そこだけ全体のトーンがズレているかのように違ったテンポで進んでいくのだが、そんなラップシーンも言うほど多くはない。急激な展開も、絶望と言えるような状況も、驚きの結末も別になく、他にも目に見えて「ここが良かった」と言えるような何かがあった感じもしないのに、でも全体的には凄く良かった。気づいたらちょっとだけ泣いてて、自分でも「えっ!?」と思ったぐらいだ。
その良さを説明するのはなかなか難しいのだが、1つ挙げるとすれば、「ラップ」という言葉からは対極にあるような主人公の設定だろうか。
吉村雪子は29歳の小学校教師。借金があるわけでも、病気を患っているわけでも、家族の問題に悩んでいるわけでもなく、具体的に直面しているはっきりとした問題は特にない。大学で同じサークルだった彼氏とは付き合いが長く、同じサークルだった友人にエステシャンからは「そろそろ結婚なんじゃない?」なんて言われているし、ヒップホップが大好きで、仕事終わりに公園でラップの集まりがいつも開かれているのによく参加している。教師の仕事も、特に目立って問題があるみたいなことはない。端的に表現すれば、「概ね順調な人生」といったところだろうか。
しかし雪子にはずっと、「そこはかとない不安」「いい知れぬ自信の無さ」がつきまとっている。これはどうも、昔からのようだ。頭の中で考えていることがあっても、それが言葉として出てくるまでに時間がかかり、「言いたいことが言えない」みたいに感じることが多い。だから、ラップが好きで自分でもやってみているのだけど、なかなか上手くいかない。雪子としては、「ラップをしている時だけは本音を口に出来る」と思っているのだけど、ラップ仲間に「それってただの愚痴じゃん」と言われ、「確かにそうかも……」と思ったりしている。
そんな女性が主人公である。
物語は主に、「働いている小学校」と「付き合っている彼氏」との関係から描かれるのだが、まずは彼氏との話から触れることにしよう。彼氏との描写は決して多くはないのだけど、ただ、雪子の言動の端々から「なんとなくしっくり来ない感じ」が伺える。それは、エステシャンの友人から「結婚」の話が出てきた時の反応とか、彼氏が親と会わせたいと言った時の雰囲気などから感じられるだろう。
特に女性にはあるあるな気がするが、雪子は別に「彼氏に対して具体的な不満はない」のだと思う。それは見ていても分かるし、本作においても、彼氏は「良い人」として描かれるので、むしろ雪子の躊躇の方が際立つことになる。ただ、雪子は雪子で、考えていることが言葉としてなかなか出てこない人なので、「自分が何に違和感を覚えているのか」を上手く捉えきれていないのだろう。だからそれを伝えることが出来ないし、仮に言葉になったとしても、それはそれで面と向かって伝えるのは難しい。
一方、小学校の方でも、特段これといった何かが起こっているわけではない。唯一大きな「問題」と言えば、「クラスの児童が1人不登校になってしまっている」ということだろう。雪子は毎週金曜日に、その子の家を訪れ、児童がピアノを弾いている部屋の前まで行って話しかけるのだが、特に反応はない。ただこれにしても、両親から「あなたのせいで不登校になって」みたいに責められているわけではなく、むしろ、雪子を毎回迎え入れる不登校児童の父親は、「わざわざ毎週来なくても大丈夫ですよ」みたいなスタンスを見せている。学校側から「不登校児童をどうにかしろ」と言われているわけでもない。だから「問題なんかそこにはない」みたいな風に扱うことも全然出来る。
でも、雪子はそう出来ない。そこにはもちろん、「児童のためを思って」的な気持ちがないわけではない。ただそれよりも、雪子の場合は「ダメな教師の烙印を押されるんじゃないか」みたいな不安から、児童の訪問を止められないんだと思う。
ただこういう性格には良い面もある。それを明確に指摘していたのが、同僚教師の石井里穂だ。彼女は児童たちからも「陽キャ」と言われるぐらい明るい性格なのだが、彼女が雪子について、「だから雪子センセは、声を上げられない人に気づける」と表現する場面があるのだ。
確かにその通り。雪子は、自身が「言葉に出来ないこと」に苦しんできた経験があるからこそ、同じように声に出して人に訴えられない人の辛さみたいなものに目が行く。もちろん、それが見えてしまうことは、雪子にとっての「生き辛さ」の原因にもなり得るものなのだが、ただ、自己肯定感の低い雪子には、「自分にも人の役に立てることがある」と実感できるような機会にもなるんじゃないかと感じた。
そしてこんな風に、雪子の日常は「言葉を飲み込む」ことの連続なのである。そもそも「言いたいこと」が言葉にならないし、「言いたいこと」が言葉になったとしてもそれを口に出来ない。そして、それはそれとして、ヒップホップはずっと好きだったし、ラップはまさに「感情を言葉に乗せること」なわけで、だから「自分の『苦手』を『好きなもの』で克服する」みたいな意識もあって、自分でもラップをやってみる、みたいな感じになったのだと思う。
でも、そのラップもなかなか上手くいかない。確かにそれは、技術的なものもあるんだけど、それ以上に大事なことは「訴えたいことがない」ということだろうか。雪子は、「自信がない」とか「上手くいかない」みたいな否定形の言葉をよく使うが、それは確かに、ラッパー仲間に言われたように「愚痴」の類だろう。そうではなく、「今自分が何をどう考えているのか」みたいなことを出さなければ「本音」にならないし、MCバトルでは評価に繋がらないんじゃないかと思う。
ただそれはそれとして、雪子の良さをズバッと表現したシーンがあったので紹介したい。
僕はそもそも、不登校児の父親が結構好きなキャラクターで、出番はそう多くないけど、メチャクチャ良い雰囲気出してるなぁ、と思いながら見ていた。毎週金曜日にやってくる雪子先生を迎え入れ、「毎週来なきゃいけない義務みたいなものってあるんですか?」みたいなことを言ったり、息子の部屋の前から戻ってきた彼女にお茶を出したりする。ただ正直なところ、しばらくの間、彼が息子の不登校をどう捉えているのか見えてこない。ともすれば「あまり興味がなくてほったらかしているんじゃないか」みたいに見えたりもした(だからこそ、彼がある場面で一瞬、涙を拭っているような仕草をするシーンにグッときたのだが)。
しかし、後半のある場面、雪子先生がやってきた日、父親は大量の本をダンボールに入れて持ってきて、「妻と2人で、これ全部読みました」と言うのである。タイトルは見えなかったが、間違いなく「不登校」に関するものだろう。彼は、その本を読んで親の不安が解消することはあっても、息子を部屋から出すことは出来なかった、みたいに言っていた。
しかし、どうしてそんな流れになったのか。それは、雪子がそれまでの訪問時とは違って、ドア越しに児童に本音で話しかけたからだ。「先生のせいで学校に来られなくなったんだとしたら怖くて聞けなかった」と、自分の不安をさらけ出したのである。それを見ていた父親が、「本音を口に出したらドアを開けてくれると思いました?」と言って持ってきたのが大量の本なのだ。つまり、「そんなことは、私たちももうとっくにやっている」というわけである。
それに続けて父親は、「担任が雪子先生で良かった」と続ける。彼は、「毎週金曜日に来ても、気の利いたことひとつ言わない」と、ディスっているかのようなことを言った後で、さらにこう続けたのだ。
『その代わり、嘘がない』
本作中で、僕はこのシーンが一番好きだったし、さらに、雪子をシンプルに表現する言葉としてもピッタリだったと思う。
そう、確かに雪子には嘘がない。色んな言葉を飲み込んでしまうし、あまり口が回らなかったりすることはあるが、それでも、決して嘘は言わない。それは、凄く大事なことだと思う。世の中には本当に、「ちょっとでも聞き心地が良ければ嘘でも平気で口に出来る人」はたくさんいるし、何なら世の中では、そういう「上手く嘘がつける人」こそ人生を上手に渡れたりもする。
正直、そういう世の中は嫌だなって感じることが多いし、僕は雪子のような「嘘を口にしない人」と関わりたいと思う。多くの人が、「そんなのテキトーな嘘ついて離れちゃえばいいのに」みたいに言うかもしれない状況でも雪子はきっと立ち止まるし、それが自分をどんなに辛くしても止められないんだろうなと思う。
そしてそんなこともあってきっと、ヒップホップとかラップが好きなんじゃないかという気もする。どっちにも全然詳しくないけど(タイトルの「a.k.a.」が何か分からず検索した程度には何も知らない)、ラップは「その人の生きざま」みたいなものが他の音楽と比べてもかなり色濃く反映される印象があるし、それは言い方を変えれば「嘘が少ない」みたいに言えるんじゃないかと思う。「生身の人間としてぶつかっている感じ」みたいな印象がラップにはあって、そういう部分に対する憧れが、雪子をラップに惹き付けているのかもしれないと思う。
さて、そんなラップについてだが、先ほども少し書いた通り、ラップシーン自体はそう多くない。その中で僕が一番グッと来たのが「ピアノ演奏に合わせてラップしているシーン」だ。どんな状況なのか具体的には書かないが、「ピアノ」と「ラップ」のかけ合わせがまず新鮮だったし、さらに、「その状況が成立していることそのもの」に対しても何だか感動的な気分が付随してきて、凄く良かった。「音楽」についてよく、「言葉が通じなくてもコミュニケーションが取れる」みたいに言ったりするが、まさにそのことを可視化したみたいなシーンだった。「祝祭」とでも表現するとピッタリな感じだろうか。凄く良かったなと思う。
しかしこのピアノとラップしているシーン、どうやって撮ったんだろう? ラップの歌詞を雪子を演じた山下リオが即興で口にしているなら不思議ではないけど、さすがにそんなことはないだろうし、でも、あらかじめラップの歌詞が決まっていたとしたら、タイミングとかちょっと難しすぎないか?と思ったりもした。基本的にワンカットでカメラを回してたはずだし、結構ハードル高いシーンな気がした。
さて、そんなわけで映画の話はこの辺りにして、上映後のトークイベントの話をしたいと思う。「上映後にトークイベントがある」ことは知っていたのだけど、誰が登壇するのかを全然調べてなくて、だから占部房子と樋口日奈が出てきて驚いた。樋口日奈は元乃木坂46のメンバーで、たぶん僕が初めて直接目にした(元)乃木坂46メンバーな気がする。
そして占部房子。彼女は、雪子が担当する4年生の学年主任的な立場の教師として出てくる(大迫先生もとても良かった)のだけど、エンドロールを見るまで、彼女の名前も思い出せないし、どこで見たのかも分からないという感じだった。エンドロールで「占部房子」という名前を見て、「そうか、濱口竜介の『偶然と想像』に出てた人か!」と思い出した。いや、ホント、メチャクチャ良い雰囲気出してた。
そしてそんな2人が、上映後のトークイベントに登壇したのである。1日の映画の日だからって理由で今日観ることを選択しただけなんだけど、結構良い回に当たったみたいだ。
正直なところ、司会を務めた人があまり上手ではない印象で、演者に負担を掛ける形にはなるけど、占部房子と樋口日奈が2人で喋る形式にした方が良かったんじゃないかなという気はする。2人のトークは結構良い感じの女子トークで、ちょっと申し訳ない言い方になるけど、司会の人がぶつ切りにしていかない感じで2人にトークを任せちゃっても良かった気がする(話している感じを見ていたけど、樋口日奈は回し的なことも上手くやれそうだったし)。
2人の会話は、「演劇と映画・ドラマは何が違うのか(違わないのか)」や「下がった自己肯定感を整えるために銭湯に行く」など色んな話が展開していったが、本作に関する話で言うとまず、樋口日奈の「石井里穂が嫌な人に見えないように意識していた」という話が印象的だった。
ある場面で、雪子と里穂が学校から一緒に帰るシーンがあるのだけど、里穂が雪子に年齢を聞き、雪子が「29歳」と答えた時に、「私、29歳で結婚して30歳で子どもを生む予定なんです」と返していたことがある。このやり取り、文字で読むと「里穂、結構ヤバいな」となるんじゃないかと思う。というのも、捉え方によっては、「29歳になったあなたはまだ結婚出来ていないんですね」みたいに言っているように聞こえるからだ。
しかし、作中ではそんな印象にはならなかった。この点について樋口日奈は、「里穂は常に、他人に矢印が向いているのではなく、自分に矢印が向いている人。そういうことが伝わるように気をつけていたつもり」と言っていた。確かに、ある種の「嫌味」みたいなものを感じさせない振る舞いをしているキャラクターで、なるほどと感じさせられた。
また、占部房子演じる大迫美香は、学級新聞を手描きしているのだが、その小道具を占部房子が自分で作ったという。自分から「作らせてほしい」と申し出たそうだ。彼女は「役を生きる前のそういう準備」を結構大事にするタイプだそうで、今回は監督含めスタッフのみんながそういうことをやらせてくれてありがたかった、と言っていた。確かに、本当ならそういう小道具は美術スタッフが作った方が早い。「早い」というのは別にクオリティ云々のことではなく、例えば「誤字脱字がないかのチェック」などの手間が発生してしまうからだ。しかし、そういう手間が生まれることを承知でやらせてくれたし、それは凄く良かったと彼女は語っていた。
そんなわけで、映画も良かったしトークイベントも良かった。正直なところ、ここ最近自分の中で「当たり」の作品に出会えていなくて、今日は久々に良い感じの鑑賞体験になった。とても満足である。
はっきりと「これが良い」と言えるようなポイントがあるわけではないのだけど、どことなしに全体的にとても良い雰囲気を放つ作品で、思いがけず良い作品に出会えて良かったなと思う。
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