【映画】「子どもたちはもう遊ばない」感想・レビュー・解説

イスラエルとパレスチナの紛争は、僕にはちょっと難しすぎて、ベースとなる外枠の情報に接しても全然理解できなかったりする。とりあえず「第二次世界大戦中のイギリスが悪い」ということぐらいは理解しているが、宗教のことはややこしすぎてなかなか距離が遠い。

さて、本作はそんな争いの中心であるエルサレムに、モフセン・マフマルバフ監督が赴き撮影したドキュメンタリー映画である。と言っても、本来の目的な映画のロケハンだったようで、ドキュメンタリー映画の撮影はついで(という表現だとちょっと軽くなり過ぎるが)だったそうだ。Vlog的に撮影した映像を繋ぎ合わせたもので、恐らくだが、撮影した当時は、映画として公開することを想定していなかったんじゃないかという気がする。

ロケハンがメインなので、たぶんだが、そもそもロケハンの際に関わる予定だった人や、あるいは、その場で声を掛けてOKをもらった人などにインタビューをしているのだと思う。62分の映像の中で、カメラの前で語る人物はそう多くない。メインになるのは、「観光案内的なことをしているおじいさん」「路地で話をする男」「4世帯が中庭を共有する家に住む住民」「娘を育てる母親(自宅での撮影)」の4人だろうか。後は他に、ちょいちょい別の人の話が差し込まれたり、あるいは、屋外ではないところで子どもたちが遊んだりダンスの練習をしたりしている様子が挟み込まれる。

個人的に一番興味深い話をしていたのが「路地で話をする男」だ。正直僕には、彼がイスラエル人なのかパレスチナ人なのか、ユダヤ人なのかアラブ人なのか、みたいなことはよく分からなかったのだが、それが分からないぐらい彼は、とてもフラットな立ち位置で話をしていたように思う。

彼は色んな話をしていたのだが、その基本的なスタンスは、「ここは自分たちにとって実家なんだけどな」みたいな感じじゃないかと感じた。彼の家系は、100年以上もエルサレムに住んでおり、ずっと同じ建物に住み続けているそうだ。まさに「実家」である。しかしそんな実家が、時代と共にどんどん様変わりしてしまっている。彼は別に変化を受け入れないタイプの人間ではないと思うが、とにかく「変化の仕方が許容できない」と言っていたように思う。

例えば、彼の祖父はパレスチナ人と仕事をしていたそうだ(そうか、そういう言い方をするということは、彼はイスラエル人なのか)。1920年から1940年頃の話だそうだ。また、大おじはタクシー運転手をしており、エルサレムとダマスカスの間を走っていたそうだ。エルサレムとダマスカスの間というのはよく分からないが、恐らくイスラエルとパレスチナを含んだ地域なのだろう。

このようにかつては、エルサレムにおいてもイスラエル人とパレスチナ人は混じり合って生きていた。しかし今は、完全に分離してしまっている。とにかく、その状況が良くないという話だった。

そんな中でも彼は、積極的に対話をしようと考えているそうだ。イスラエル・パレスチナどちらにも、少数だがそういうタイプの人がいるという。彼らは「積極的に相手の痛みを感じたい」と考えているそうで、彼はとにかく「対話によってしか変わらない」と考えているようだ。

「ユダヤ教」という宗教に対しても、彼は同じように認識している。彼が知っている、そして彼を育ててきた「ユダヤ教」は「対話」を重視するものだったそうだ。しかし今は、「誰が神の代弁者に相応しいのかを争っている」と彼は考えている。ユダヤ教に限らずすべての宗教は「他者」の存在を重視すべきだが、残念ながらそれとは逆の方向に進んでいると嘆いていた。

そんな対話を重視する彼の「武器」に関する考えかたも面白かった。エルサレムには、武装した兵士(たぶんイスラエル兵)がたくさんいる。さらに、確かだが「一般市民も銃が買える」みたいなことを言っていた気がする。

しかし彼は、「銃は恐怖を倍増させるだけだ」と否定的である。彼は、一般的に危険とされている場所、それはつまり、イスラエル・パレスチナの区分が曖昧な場所ということのようだが、そういうところにもよく足を運ぶそうだ(たぶん対話のためである)。そして、そういう時に彼が持っていく”武器”は、「2つの目」だけだ、と言っていた。相手の目を見て話せば、大抵の場合はなんとかなる、という。個人的には「大抵の場合」と言っていたのが気になったが。どうにかならなかったケースも、あったんだろうか。

しかし、やはり対話というのは難しく、あちこちで対立が目に付く。なんと取材中、パレスチナの若者3人がアル・アクサの中庭に突入しようとしてイスラエル兵と揉み合いになり、ダマスカス門付近で占領警察と衝突、結局銃撃されてしまうという事件が起こった。モフセン・マフマルバフのカメラは遠くから、1人が複数の兵士に銃撃され倒れたシーンを捉えていた。恐らく彼は命を落としただろう。他の2人がどうなったのか、作中で説明されていたか覚えていない。

街中で取材を受けていたある女性は、「通りは兵士だらけで、毎日生き延びられるかと思っている」みたいに語っていた。

また、そういう武力的な対立だけではなく、もっと生活に根ざした対立もある。4世帯が中庭を共有する家には、2つのパレスチナ人家族と2つのイスラエル人家族が住んでいるのだが、両者はまったく会話をしない。さらに、家の構造として、2世帯が1階で2世帯が2階にあり、2階から中庭に下りるための階段があるのだが、その階段は法律上、2階の2世帯で半々の所有権があるそうだ。だから、「階段に何か置こうものなら、すぐにトラブルになる」と話していた。

最初に登場した「観光案内的なことをしているおじいさん」は、「単一の世俗民主国家を作ることが、最も良い解決法だろう」みたいに言っていた。つまり、「イスラエルとパレスチナを合わせて1つの国にしよう」ということだろう。しかしモフセン・マフマルバフはナレーションで、「1つの家でさえ平和に暮らせないのなら、単一の世俗民主国家など可能なのだろうか?」と言っていた。確かにその通りだなと思う。

ちなみに、「路地で話をする男」は、「『平和』や『合意』といった言葉は中身の無い、意味を失った言葉になってしまった」と言っていた。詳しくは語られなかったが、恐らく「外野」から「平和」や「合意」といった言葉が投げかけられるが、エルサレムではもはや、そんなものは実現しそうにないという実感を持っているということだろう。問題のあまりの根深さを思い知らされる発言だった。

さて、「単一の世俗民主国家を作ることが、最も良い解決法だろう」と言っていた「観光案内的なことをしているおじいさん」は、結構ハードな人生を送ってきた。だから僕は正直、彼が「単一の世俗民主国家」を最善と考えていることにちょっと驚かされた。恐らくだが、「自分が過去に受けた色んなことは一旦無かったことにして、エルサレムの未来を考えた場合の最善策」ということなのだと思う。

彼は1968年、18歳の時に逮捕され、20年の刑を言い渡され17年間も刑務所にいたそうだ。「PFLP(パレスチナ解放人民戦線)」に所属していた罪だそうだ。出所後はジャーナリストをしていたが、1994年に止めた。オスロ合意とパレスチナ自治区に対して反対の立場だったからだそうだ。それからは、観光案内的なことをしているという。彼の実感では、「爆弾を作っていた頃よりも、観光案内の方が、人々の意識を変えるという意味では有効だと思う」と言っていた。

また、彼の発言で最も興味深かったのがこれである。

【イエス・キリストの役回りはもうたくさんだ。
世界の他の民と同じように、普通に暮らしたい。】

【私たちパレスチナ人が、イエス・キリスト演じるのはもう限界だ】

正直僕は、この発言の意味をちゃんとは理解できていないと思うのだが、「路地で話をする男」のこんな発言も同じような括りに入れられるかもしれない。

【イスラエル人はエルサレムのことを「永遠の都」だと考えているが、
パレスチナ人は「自らの都」だと思っている。】

つまり、「イエス・キリストを演じるのは限界」という発言も、要するに「実家なのにな」的なことを言っているのかもしれない。エルサレムに住んでいない人からすればエルサレムは「聖地」だが、エルサレムに住んでいる人からすれば「生活の場」というわけだ。

さて、そんな中でも、少し希望を感じさせる描写もあった。エルサレムでは、宗教や人種などによって基本的に異なる学校に通うそうだが、珍しく、異宗教の子どもが一緒に学ぶ小学校もあるという。この学校についての話で興味深かったのは、「この小学校の卒業生は兵役を拒否することが多い」という話だ。何故なら、「同級生に銃を向けたくないから」だそうだ。なるほど、確かにそうだなと思う。

色々難しいのかもしれないが、「異宗教でも同じ学校で学ばせる」という教育システムが当たり前になれば、対立はどんどんと減っていくのかもしれない。それだけではどうにもならないほど複雑な問題だということは理解しているつもりだが、ささやかな希望を感じられる話だったことは確かである。

以前観た『クレッシェンド』という映画の紹介で、イスラエルとパレスチナの問題は「世界一解決が難しい問題」と書かれていた記憶がある。宗教が絡んだ数世紀にも及ぶ問題であり、そうそう簡単に解決しないことは間違いないだろう。正直なところ、大分遠い国の話であり、自分事として捉えることは難しいのだが、この問題に端を発する紛争はやはり世界全体に影響を与えているし、そういう間接的な影響を踏まえてもどうにか「解決」と言えるような状態に行き着いてほしいものだと思う。

しかしホント、いつも感じてしまうことだが、「一神教」なんてものが存在しなければ、こんな紛争も起こらないのにね、と思う。アジア的な「多神教」が世界を制していれば、もう少しみんな平和だったんじゃないかなぁ、と感じてしまう。

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長江貴士
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