【映画】「HAPPYEND」感想・レビュー・解説

予告を観た段階で「なかなか面白そうだな」と思っていたのだけど、思っていた以上に面白かった。メチャクチャ何かが展開するような物語ではないし、むしろ何も起こらないと言っていいと思うのだけど、舞台設定や役者の雰囲気がとても良く、それが作品全体の明度を上げている感じがする。

近未来の日本(と言ってもそんなに未来じゃない)を舞台にした本作中には、「パノプティ」というシステムが登場する。既に中国では実装されているので、別に近未来というほどの技術ではないが、「カメラで違反を検知し、個人を特定した上で罰点を課す」というものだ。

この「パノプティ」、間違いなく「パノプティコン」から取られているはずだ。18世紀の哲学者ベンサムが考えた「監視に向いた刑務所の構造」のことであり、僕はそのことを、以前読んだ哲学の本で知った。

さて、このような設定が出てくるとやはり、「パノプティが物語の中心に来る」と考えてしまうだろう。しかし、本作は全然そんなことがなかった。本作中では、「パノプティ」はあくまでも「主人公の若者たちを外側から拘束する制約条件の1つ」に過ぎず、もちろん物語の中で重要な要素にはなってくるのだが、決して中心には来ない。

そして本作には他にも、そんな制約条件が描かれる。1つは「地震」である。

さて、鑑賞後にネットで「空音央と濱口竜介は、どのように「当たり前の社会」と対峙しているか。映画『HAPPYEND』をめぐる対談」という対談を読んだ。別に検索したわけではなく、たまたまオススメ的な感じで記事が表示されたのだ。恐らく僕がこれまでに、濱口竜介の映画を結構検索していたからだろう。

https://www.cinra.net/article/202410-happyend_ymmts

この中で監督の空音央は次のように語っている。

【映画の種は、いずれ起こるといわれている南海トラフ地震が、もうしばらく起こらなかった社会はどうなっているんだろうか、という思いつきといいますか、思考実験でした。】

我々もつい先日、「もしかしたら南海トラフ巨大地震の前兆だろうか」という初めての経験をしたわけだが、そんな経験を何度もしつつも結局南海トラフ巨大地震は起こっていない、という世界が舞台になっているというわけだ。作中では、緊急地震速報が何度も流れるが、その度に地震は来ない(来てもさほど大きな揺れではない)。恐らくだが、今の私たち以上に、「地震に対する鈍感さ」みたいなものを獲得しているのではないかと思う。しかし一方で、本作は主に高校が舞台であり、学生を守る教師の立場としては「地震」の存在を無視できないし、「起こること」を前提に物事を準備するしかない。そんな、「地震とかもういいよ」という若者たちと、「備えないわけにはいかない」という大人たちの間にも溝があるというわけだ。

そしてさらに本作では、総理大臣である鬼頭が物凄く評判が悪い。はっきりとした理由は分からないが、作中である学生が、「地震のためって言って緊急事態条項を発令する鬼頭はもう独裁者だよ」みたいなことを言う場面がある。恐らくだが、「地震」という名目を盾にとって、国民の支持を得られないような政策ばかり取っているんだろうと思う。そんな政治情勢を背景に、日本でもデモが頻発しているという状況が描かれる。

他にも、「警察が、在日朝鮮人のコウの特別永住者証明書の提示を求める」場面が何度も描かれる。本作の世界では、この「特別永住者証明書」は携帯する必要がなくなっているようだが(現在の日本でどういうルールになっているのかは知らない)、しかし警察は執拗に証明書の提示を求める。

という話の流れで書くと、舞台となる高校には「外国人」が多い。ある場面で、「日本に帰化していないものはこの時間教室から出るように」と教師が出席番号を読み上げる場面があるのだが、30~40人ほどのクラスに、10人以上の「帰化していない生徒」がいた。恐らく、他のクラスも同様だろう。本作の場合、メインとなる「仲良し5人組」の内3人が帰化していない。そういう説明は無かったので、これはこの高校に特殊なことではないはずだし、となると恐らくだが、「人口が減ったために移民を受け入れるようになった日本」が舞台になっているんじゃないかなと思う。たぶん、そうじゃないと、これだけの「多様性」は説明できない気がする。

そして、地震の話に戻すが、作中では総理大臣が「地震の際にはデマは差別が起こる」みたいなことを言っていた。先の対談の中でも「関東大震災の時の朝鮮人虐殺」に言及されていた。単に「地震が起こって被害が起こる」というだけではなく、「社会構造が変わった日本にさらに大きな打撃を与える存在」として「地震」が扱われているのだと思う。

そもそも、本作の監督である空音央は、アメリカ生まれだそうだ(というか、この記事を書くのに調べていて知ったが、坂本龍一の息子だそうだ)。国籍が日本なのかどうかは分からないが、恐らくアイデンティティ的には日本人だろうし、しかしずっとアメリカで生まれ育ってきたというバックボーンから言えば「外国人」的な眼差しもあるのだと思う。監督のそのような「外からの視点」みたいなものが、作品の設定に色濃く組み込まれているということなのだろう。

本作はまず、そのような「外側の環境」がとても興味深く映し出されていく。視覚的には「僕らが生きているのと変わらない日本」でしかないのだが(1点だけ、「緊急の案内文が夜の雲に映し出される」というのだけは、視覚的にも「近未来」を思わせるものだったが)、社会制度や仕組みや倫理や常識みたいなものはちょっとずつ違っていて、しかしそれらは間違いなく「現代の日本」の延長線上にあるものだと実感できる。僕は観ながら、「僕より下の世代の若者が描く未来予測なんだろうなぁ」と想像していたのだが、監督の空音央は33歳だそうで、イメージした通りという感じだった。

そしてそのような舞台装置の中で、「躍動的な若者たち」がどう生きていくのかを描き出す物語である。

「躍動的な」と書いたのは、メインで描かれる5人組が、実に「やんちゃ」だからだ。彼らは、「違法なクラブ」に不法侵入して警察の取り調べを受けたり、夜の学校に忍び込んで自分たちの音楽を作ったり、校長先生の愛車にイタズラしたりとやりたい放題やっている。「刹那的」という言葉がしっくり来ると思うが、「その瞬間の楽しさ」みたいなものをいかに追求していくか、みたいなところに命を賭けているところがある。僕にはあまり共感できる生き方ではないが、いつの時代にもそういう若者はいるし、さらに言えば、現代よりもさらに閉塞的な世の中になっている未来世界においては、「馬鹿騒ぎでもしないとやってられない」みたいな感覚もあったりするのだろう。

「ストーリー」という意味では、彼らがやった「校長の愛車へのイタズラ」が1つ大きな出来事となる。というのも、そのせいで「パノプティ」が導入されることになったからだ。さらに、恐らくこの5人組は元から目をつけられていたのだろう、また別の形でも学校から「排除」の憂き目に遭ってしまう。そういう、5人組を取り巻く「外的な環境」の変化に、彼らがどんな風に反応し前に進んでいくのか、みたいなところが、物語の1つの軸となっていく。

そして、登場人物の関係性という意味で言えば、5人組の中でも中心的な人物であるユウタとコウの関係性が挙げられるだろう。彼らは「幼稚園から一緒」だそうで、「初めてのオナニーも一緒にする」ほどの仲だそうだ。また、残りの3人からは、「あの2人はいつか音楽で凄い世界に行く」と思われていて、そういう意味でも結びつきの強い2人である。

しかし、この2人の関係性に少しずつズレが生まれていく。そしてその原因に、先程から書いている「制約条件」が色々関係してくるわけで、その辺りの展開がとても上手かったなと思う。

5人組は、いつもバカなことばかりやっているのだが、コウは学校での成績がよく、大学の奨学金がもらえるかもしれない、という立ち位置にいる。だからだろう、彼は社会に対する関心も持っている。カフェで待ち合わせしている時には、街頭でデモをしている人たちを眺めていた(残りの4人は興味なさそうだった)。あるいは、仲間の1人であるアタちゃんが「将来警察官になろうかな~」と教室で騒いでいた時に、クラスメートのフミが「警察なんて国と富裕層だけを守る、武器を持った官僚だよ」と叫ぶのだが、後にコウは、このフミと仲良くなっていくのである。

一方のユウタは、「音楽」のことしか考えていない。少なくとも、仲間たちもユウタのことをそう見ている。コウが、仲間の1人であるトムに、「ユウタの何も考えてない感じ、俺無理だわ」と口にした時に、トムも「分かるよ」と言っていたし、トムはトムで、高校卒業後にアメリカに移り住むことがだいぶ前から決まっていたにも拘らず、その話をユウタにだけは出来ずにいた。ユウタにはどこか、そういう雰囲気があるのだ。

自身の「在日朝鮮人」というアイデンティティのこともあってだろう、社会に何らかの形で関与することに少しずつ関心を持つようになっていったコウと、子どもの頃から「何も考えずに騒いでいる」だけのユウタ。幼稚園からの仲で、「こんな友達いないだろ?」とお互いに思っているはずの2人の間に、少しずつ不協和音が流れていく。その感じを、静かに、しかし絶妙な深さで描き出していく。

物語は全体としてコウの視点で進んでいくと言っていいだろう。つまり、「コウの目には世界がどう見えているのか?」が物語のベースになっているというわけだ。だからコウは、様々な場面で自身の考えや感覚を口にするし、周囲の人間ともそれを共有しようとする。

一方でユウタは、最初から最後までやはり何を考えているのか分からない。時折、コウと真剣な議論を交わす場面もあるのだが、そういう時でも、「本当にそれが本心なんだろうか?」と感じさせるような物言いしかしない。恐らく、コウとしても掴みきれなかったんじゃないだろうか。

ただ、コウとしても観客としても、「ユウタの本心」がはっきり分かったはずの場面が1度だけ描かれる。映画のラスト付近の展開なので具体的には触れないが、あのシーンがあったお陰で、ようやく皆(コウと観客)は、「ユウタは何も考えていないわけじゃない」という実感を得られたのではないかと思う。まあ、もちろんそれは我々受け手側の「妄想」に過ぎないのだが、ただあの瞬間、ユウタとコウの関係にまた別のギアが入ったみたいな感覚にはなれた。

さて、そんな2人の関係なのだが、「決定的に壊れはしない」という点がとてもリアルで良かった。「物語」という観点で考えれば、「ユウタとコウの関係性を一度絶望的にぶち壊して、その上で再生の過程を描く」という方が分かりやすいしドラマティックになるだろう。しかし本作はそういう展開にしていない。ユウタとコウは、他の3人が見て分かるぐらい関係が悪化していくわけだが、しかし決定的に壊れはしない。

そこにはきっと色んな要素があるのだろう。「幼稚園からの仲」とか、「一緒に音楽をやっていきたいから」とか、あるいは「コウの変化は一過性のものだとユウタは捉えていた」みたいな可能性もあるかもしれない。ただ、その中でも大きな要因だったのは、「壊れたら元には戻らないとお互いが理解している」みたいな部分があったんじゃないかと思う。

「幼稚園からの仲」ということは、もちろん喧嘩をしなかったわけはないのだが、「それまで決定的な仲違いはなかった」ということだと思う。そしてだからこそ、「仲直りの方法が分からない」なんて可能性は十分あるんじゃないかと思う。特に、先述した「トムがアメリカ行きを言えなかった」みたいな描写からも分かる通り、ユウタはなかなか掴みどころがない。だから仲違いした場合に、コウはともかく、「ユウタには何をどんな風に伝えたら状況が変わるか」みたいなものが見えないように思う。

そしてこの「『仲直り出来ること』を前提にしない人間関係」もまた、とても今っぽいと感じさせられた。

昔のスポーツマンガなんかでよくある描写だけど、一昔前はやっぱり、「お互いにぶつかって仲違いしても、最終的には分かり合えるし関係を元に戻せる」みたいなのが、比較的人間関係の「当たり前」みたいな感じだったように思う。でもたぶん、今の若者はそうじゃない。たぶんだけど、「一度壊れたらきっと、元には戻らない」みたいな感覚を大前提にしているように思う。もちろん、戻る可能性はある。ただそれはあくまでも「奇跡」であり、「元に戻せること」を前提に関係性を築くことは出来ない、というのが、今の若い世代のベースの感覚なんじゃないかな、と僕は勝手に思っている。

そして、ユウタとコウの関係性からも、そういうギリギリの緊張感みたいなものが感じられた。仲が良い時は「愛してるよ~」なんて街中で大声で叫べちゃうような関係である一方で、不穏な時には余計な衝突が発生しないように気を使う。それは、普段はコウの隣の席に座っているユウタが、別の奴に「席替わって」と言ってコウの隣を避ける場面からも伺える。徹底的に「衝突」を避け、ぶつからざるを得ない時には出来るだけ面白おかしくする。そんな風にして「決定的な決裂」みたいなものを絶妙に避けていた感じがある。

そしてだとすれば、コウはユウタにぶつけられない衝動みたいなものをデモに参加することで晴らしていたのかもしれないし、ユウタが一層音楽だけにのめり込んでいくようになったのも、コウに対峙できない鬱憤みたいなものが背景にあったのかもしれない。

そしてそんな2人の間の緊張感が、「ユウタが本心を曝け出したかもしれないシーン」以降、すっと溶けていく感じも良かったし、そしてそういう「ノンバーバルな雰囲気」を、ユウタとコウを演じた2人が絶妙に醸し出していたのがとても良かったなと思う。

この2人は、演技未経験だそうだ。というか、仲良し5人組の内4人が演技未経験での抜擢だったという。先の対談によれば、「演技未経験者を集めた」わけではなく、「役者を含めたオーディションで、『この人しかいない』と選んだのがたまたまノンアクターだった」のだそうだ。そして、「演技未経験者をどう演出したらいいか分からない」みたいなところから、同じく演技未経験の人たちを使って撮られた映画『ハッピーアワー』の監督である濱口竜介と関わりが生まれた、みたいなことらしい。

個人的には特に、ユウタ役の栗原颯人の雰囲気がとても良かったなと思う。ユウタというのは、ここまでで書いてきたように、「何を考えているのか分からない」「口にすることが本心なのか分からない」みたいな雰囲気の人物なのだが、その感じを凄く浮かび上がらせていたと思う。ホントに佇まいが魅力的で、セリフがないシーンでも、「ユウタとしてそこに存在している」だけで、割と場を支配するような雰囲気があったように思う。はしゃいでいる時には「ホントに何も考えていないみたいなノータリン」みたいな感じだし、しかしそうではない場面では「底知れない雰囲気」みたいなものを漂わせていて、メチャクチャ良かった。以前、映画『サクリファイス』で初めて青木柚を目にした時みたいな衝撃があるし、なんとなくだけど、栗原颯人には窪塚洋介みたいな雰囲気もあるように思う。分かんないけど、本人に役者を続ける気があるなら(本職はモデルらしい)、かなり良い役者になるんじゃないかと思った。

あと、対談の中で濱口竜介が指摘していたが、本作には「引きの画」がとても多くて、そしてそれが魅力的だった。あまり映像そのものに対しては感度は高くないのだけど、「1枚の画像として成立する」みたいな感じのシーンが結構多かったように思う。うろ覚えだが、「ウォン・カーウァイの映画は、どのシーンを切り取ってもポストカードになる」みたいな文章を何かで見かけた記憶があるのだけど、本作も、「どのシーンも」とはいかないだろうけど、結構そんな雰囲気を感じさせる作品だった。

あと、本作の撮影がどこで行われたのか分からないが、東京だとしたら、「東京だと分かるようなところで撮っていない」のも良かった。元々本作は、「近未来の日本のどこかの街」という、時代も舞台も特定しない作品なので、そういう「匿名性」みたいなことも考えて「どこで撮っているのか分からない」という感じになったのだろうけど、そのことも良かったなと思う。

あと、ラストシーン。これ凄くいいよなぁ。先述した「愛してるよ~」のシーンとの対比であり、「2人が別々の道を歩んでいく」ということが資格的に示唆される場面でもある。このシーンでは、コウはユウタに対して引け目を感じており、それ故に動き出せないでいるのだが、そんな「止まった時間」を無理やり動かすかのようなユウタの行動と、それによってほんの少しコウが抱く引け目が溶けたような雰囲気が、ほとんどセリフのない場面から伝わってくる感じがあった。メチャクチャ良いシーンだったなぁ。

そんなわけで、なんか凄く良い映画を観たなという気分にさせてくれる作品だった。

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