【映画】「ちひろさん」感想・レビュー・解説
「同じ星の人」って表現はいいなぁ。素晴らしい。僕の中にも、まさにその言葉でしか表現できないような感覚がある。地球上でまだ2人しか「同じ星の人」と出会えていないちひろさんと比べたら、僕はまだマシだな。
「人間は、『人間という箱に入った宇宙人』。みんな違う星から来てるんだから、分かり合えないのは当然だ」みたいなセリフがある。それで、「同じ星の人」だ。僕も、「同じ星の人」だと思う人に、これまで出会ってきた。まあ、相手もそう思ってくれているかは分からないけど。
別にそれは、恋愛がどうこうって話じゃない。ちひろさんが、「男女って、恋愛の関係しかないの?」っていう場面があるが、まさにその通り。そんなことは、大した問題じゃない。
有村架純演じる「ちひろさん」を見ながら、ずっと思っていたことがある。ちひろさんのようなスタンスは、僕の中での割と最上級の理想形だな、と。ちひろさんの内面がどうなのか、それは外からでは分からない。ただ、「外から見たちひろさん」は、「僕もこんな風でありたいなぁ」と感じさせるものだった。なかなか男だと、ちひろさんみたいなスタンスは難しいが、実はこの映画の中に、そういうスタンスを実現できている人が出ている。リリー・フランキーだ。リリー・フランキーは、まさに「『ちひろさんのスタンス』を男で実現している人」って感じがする。リリー・フランキーもいいな、やっぱり。
とても良い映画だった。まだ2作しか観てないけど、やっぱり今泉力哉の作品は好きだなぁ。まあ、『窓辺にて』があまりにも良すぎたから、さすがにそれは超えられないけど。
『窓辺にて』も割とそうだったけど、『ちひろさん』はさらに「作中で何も起こらない」と言っていい。ホントに、なーーーーーーーーんにも起こらないのだ。「起承転結」で言うなら、「承承承承」みたいな感じ。「起」に当たるものと言えば、「ちひろさん元風俗嬢」ぐらいの情報だけだし、「転」に当たるような出来事は別にない。「結」も、あるんだかないんだか。
しかし、それでもメチャクチャ面白いんだよなぁ。不思議でしょうがない。
ちひろさんは、「元風俗嬢である」と公言し、お弁当屋さんで働いている。割とその噂は広まっていて、全然関わりのない高校生も知っていたりするぐらいだ。そんなちひろさんは、ホームレスのおじさんを自宅の風呂で洗ってあげたり、腕にコンパスの針を刺した少年にお弁当を食べさせたりする。フラットにも程がある。ちひろさんの風俗嬢時代を知るある人物は、「ツルツルと引っかかりがない、空っぽな女」みたいな言い方をするのだが、そんな性格がフラットさに繋がってるんだろうなぁ、と思う。
ちひろさんは、作中で色んな人と関わることになる。しかし、「何故彼らと関わろうと思ったのか」みたいな描写は、ほぼ存在しない。唯一、「同じ星の人」に関する描写だけは、「関わりたい理由」を描いていると言えるだろうが、それ以外はほぼ皆無である。
さらに、ちひろさんと関わろうとする側の動機も、別にほとんど描かれない。最も謎なのは、「普段からちひろさんの写真を盗撮している女子高生」だろう。彼女は「セオクニコ」という名前なのに何故か「オカジ」と呼ばれており、しかもその理由は「話せば長くなる」と説明されない。同じように、彼女がちひろさんを追いかけていた理由も、説明されない。他の人にしてもそうで、大体において「何故ちひろさんと関わろうと思うのか」みたいな描写は全然ない。
ただ、それで全然成立していると感じる。そしてそう感じる理由は、ちひろさん(有村架純)の雰囲気にあるのだろうなぁ、と思う。
ちひろさんにそんなつもりはないかもしれないけど、彼女が「元風俗嬢である」と公言しているのは上手いやり方だな、と思う。その肩書きを知って「えっ」と感じる人は、わざわざ近寄ってこないはずだからだ。だから、ちひろさんの元に寄ってくる人は、「元風俗嬢という肩書きにむしろ惹かれている人」か「元風俗嬢という肩書きのことなんか気にしない人」ということになる。そして、この2つのタイプは、見れば明らかに分かる。もしもちひろさんが、「元風俗嬢という肩書きのことなんか気にしない人」と関わろうと思って「元風俗嬢である」と公言しているとするなら、上手いやり方だと思う。
映画で描かれる、ちひろさんの元へと集まってくる人々は、「どこか寂しさを抱えた人」だ。分かりやすいものもあれば、分かりにくいものもある。具体的に描かれる人もいれば、ほとんど示唆されない人もいる。ただ、こういう表現は適切ではないかもしれないが、映画を観ながら「ちひろさんに惹きつけられるほど寂しい人なんだ」という風に感じた。
誤解を招きそうな書き方だが、別に「ちひろさんに惹かれることをマイナスと捉えている」わけでは全然ない。僕も、ちひろさんにはとても惹かれる。近くにいたら、吸い寄せられていただろう。オカジが学校で、「べっちんがいなかったら、私は溺れ死んでたかも」と口にする場面があるのだが、ちひろさんの近くに寄ってきてしまう人はきっと、みんなそんな雰囲気を感じているのだと思う。ちひろさんの周りだけ、なんとなく酸素が濃い、みたいな。
そう、つまりそんな意味だ。「ちひろさんの周りの濃い空気を吸わなきゃ窒息しちゃうと思っている人」が集まっているのである。それは、とても寂しいことなんだと思う。
ちひろさんも寂しい人のはずだけど、「ちひろさんの寂しさ」がどうなっているのかが分からない。ほとんど描かれないからだ。そう、この映画は「ちひろさんの物語」なのだが、そのほとんどが「ちひろさんの周りの人たち」の描写に終止する。ちひろさんは、その場にいて関わっているのだけど、ちひろさんの変化については強く描かれない。「ちひろさんの周りの人たちの変化」を描くことで、ある種間接的に「ちひろさんの変化」を描いている、そんな感じがある。
一度、ちひろさんが「水の底に沈んでいる」状態になったのだが、僕は正直、「あれ? そうなるに至る、何かきっかけらしいきっかけってあったっけ?」と感じてしまった。正直、今思い出そうとしてみても、いまいちピンと来ない。たぶん何かはあったのだと思うが、少なくとも僕には「それが『水の底に沈む』ほどの何か」として認識されていなかったのだろう。
あるいは、鳥の死骸を埋めたり、唐突にキスしたりする。ちひろさんの感情や変化は、とても不連続なものに見える。ちひろさん以外の人が、「ステレオタイプ」とまでは言わないけど、かなり「分かりやすい存在」として描かれているだけに、余計「ちひろさん」の不可思議さが際立つことになる。
ちひろさんは別に、誰かの悲しみを癒すためにムリをしていたりするわけじゃない。全然そんなタイプではない。しかしかといって、自分の悲しみを癒すために行動しているのかというと、ほとんどそんな場面もない。「風が吹いたから揺れています」ぐらいの主体性の無さと、「自分が『道』だと認識したところしか歩きません」みたいな力強さを感じて、その相容れない矛盾な感じが、ちひろさんの奇妙な存在感に繋がっているんだろうなぁ、と思う。
そんなわけで、ちひろさんの感情や変化はなかなか捉え難く、もちろんそれ故に良いのだけど、一方で、ちひろさんの周りの人たちの「分かりやすい変化」もまた良い。特に良かったのは、焼きそばが出てくる場面。なんというのか、「『私は不幸だ』と口に出すことが許されないと感じてしまう不幸」選手権みたいなのがあったら上位に食い込めるだろう不幸を背負った人物の号泣はグッときた。そうだよね、そこは泣いちゃうよね。この映画の中で、僕が一番泣きそうになった場面でもある。
魅力的な登場人物の多い作品だが、オカジとべっちんはやっぱり良かったなぁ。オカジとマコトのやり取りも楽しい。あと、あの「色即是空」の男は若葉竜也だったのか。エンドロール見るまで気づかなかった。
役者で言ったら、リリー・フランキーはさすがって感じだったけど、風吹ジュンが凄く良かったなぁ。有村架純と風吹ジュンのシーンは、どの場面もとても良かった。
いやー、良い映画だった。個人的に、物語のラストは、「まあ、そうなるのが妥当だよねぇ」と思いつつ、こうじゃないラストが良かったなぁ、と思ってしまった。いや、でも、別に不満はない。僕が望むラストは、「現実」であればなんてことはないが、「物語」としてはちょっと収まりが悪くなるだろうから。でも、やっぱり、そうじゃなくても良くない、って思っちゃうなぁ。いや、これは、映画に対してではなく、ちひろさんに対して。
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