【映画】「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」(二度目)感想・レビュー・解説

嗚咽、やば。

最初に観た時は、TVアニメすら観ていないまったく予備知識がない状態で観て、不意打ちにように号泣させられた、実に”凶暴”な映画だったが、二度目ともなれば当然ちゃんと覚悟はしている。どうせ泣くだろうと思っていたので、涙を止めようとする無駄な努力は端からしなかったが、まさか嗚咽が漏れ出そうになるとは思わなかった。声が出そうになるのを抑え込みながら泣いている自分に驚く。「嗚咽」なんて機能が自分の身体にちゃんと内在されているんだなぁ、とそんなことにも驚かされた。

初めて『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 劇場版』を観た後、金曜ロードショーで2週に渡って、圧縮されたTV版と外伝が放送されると知り、久々に万難を排してテレビの前に座った。TV版はかなり省略されているだろうから、それでも分かっていない部分は多いだろうが、なんとなく設定や背景は理解したつもりだ。

そして改めて、映画館で『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観る。結局”凶暴”な映画であることには変わりなかった。


映画を観ながらなんとなく、どうしてこのアニメがこの時代に受け容れられ、評価されているのかを考えてみた。もちろん、絵がキレイ、声優が豪華など、僕には評価できない要素も様々に含まれているだろうが、そういう分析は得意な人にお任せしよう。

やはりこの映画の根幹を成すのは「手紙」というモチーフなのだと思う。そして、現代人の誰もが、表向きは絶対に拒絶するが心の底では望んでいる願望があり、それがこの映画に人々が吸い寄せられる背景にあるのではないだろうか。

それは、「手紙の時代に戻りたい」という感覚だ。

僕らはもう、スマートフォンを手放すことはできない。スマートフォンの存在しない世界を生きたいとは思えないだろう。それは我々の間違いのない本音である。しかし一方で、「スマートフォンなんか生まれなければ良かった」という感覚も一方で抱いてしまうのではないだろうか。

その理由は、「いつでも誰とでも連絡が取れる点」にある。

「いつでも誰とでも連絡が取れること」は、必然的に「連絡を取らないことに意味が生まれる」という状態を生み出す。手紙の時代であれば、物理的に距離の離れた者同士が連絡を取り合うことは困難だった。だからこそ、「連絡を取らないこと」には何の意味も生まれない。むしろ、連絡を取り合うことの苦労をお互いに理解しているからこそ、「わざわざ連絡を取ってくれた」というプラスの側面が際立つことになる。

しかし、「いつでも誰とでも連絡が取れる時代」に生きている僕らは、簡単に連絡が取れてしまうがゆえに、「連絡を取らないこと」にも意味が付随すると理解してしまっている。

そしてだからこそ「想いを伝えること」の難しさが増すことになっているのだ。

「『連絡を取らないこと』に意味が付随する」という現実に、僕らは様々な対処を取る。僕は、「そもそも誰かと頻繁に連絡を取り合わない人」というイメージを持ってもらうことにした。「連絡を取る」という行為をあまりしなければ、「連絡を取らない」という事実が目立たなくなる、という理屈だ。

人によって、「大変だけど来た連絡にはすぐ返す」「『全然返信を返さない奴』というイメージを持たせる」など、「『連絡を取らないこと』に意味が付随する」という現実にそれぞれのやり方で対応しているのだと思う。

重要なことは、どういうやり方を取るかではなく、「『連絡を取らないこと』に意味が付随する」ということから誰も逃れられない、という点だ。つまり、「連絡を取る」にせよ「連絡を取らない」にせよ、僕たちは24時間ずっと「何らかの形で他人にメッセージが届いてしまう日常」を生きていることになる。

これはとても窮屈だ。

窮屈なだけならまだいい。難しいのは、「『連絡を取らないこと』の理由・背景に納得感を与えなければ、『本当に伝えたいこと』も伝わらなくなる」ということだ。

僕たちは、「連絡を取らない時間さえ相手に何らかのメッセージが届いてしまう日常」を生きているからこそ、何か本当に伝えたいことがある時に、「連絡を取らない時間に伝わってしまっていただろうメッセージ」をも加味して伝え方を工夫しなければならない。本当に伝えたいことをただ伝えても、それが「連絡を取らなかった理由・背景」と上手く噛み合わなければ、恐らく相手にはきちんと伝わらないだろう。そしてだからこそ、より多くの言葉を費やさなければならなくなるのだが、そうなればなるほど、「言葉の重み」みたいなものは薄れてしまう。やはり、シンプルにストレートにズバッと言葉を使う方が「伝わる」はずだが、「連絡を取らない時間さえ相手に何らかのメッセージが届いてしまう」せいで、簡単にはそうできないのだ。

僕たちは、そういうままならない時代を生きている。

結局のところ、「いつでも誰とでも連絡を取り合えるツール」を獲得したことによって、僕たちは、「本当に伝えたいことをストレートには伝えられない」というジレンマを抱えることになってしまったのだ。

この映画に打たれる背景には、このような時代の変化があると僕は思う。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の世界では、電話もまだほとんど普及していない。身近にいない人に何かを伝える手段は手紙しかないのだ。読み書きができる人も多くはないから、手紙を代筆する職業が存在するし、だからこそ1回の手紙で確実に相手に想いを届ける必要がある。

それゆえに、言葉はシンプルにストレートなものになるし、それが『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の世界ではまったく違和感を抱かせない。僕らが生きているこの世界では「歯の浮くような」「クサい」「過剰な」言葉に感じられるものでも、「手紙」がベースの世界観ではまったく違和感がないのだ。

そしてだからこそ、「そんな時代に戻れたらいいな」という願望めいたものを観客は抱いてしまうのではないだろうか。

また、そんな世界観の中で手紙をしたためるのが、「感情の欠落した孤児」だというのも非常に面白い設定だ。

TVアニメをきちんと通して観ていないので詳しくは知らないが、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は「孤児」として拾われ、そのまま「戦争の武器」として戦場に送り込まれた存在だ。ヴァイオレット・エヴァーガーデンが「少佐」と呼んで慕うギルベルトの「命令」のままに動くことしか生きる意味を見いだせない人物であり、「ドール」として手紙の代筆業を始めるに至った理由は、「『あいしてる』の意味を知りたいから」というものだった。

彼女は、「ドール」になるまで、人間らしい感情がインストールされていない、まさに「人形」のような存在だったのだ。

そんなヴァイオレット・エヴァーガーデンが、「他人の手紙を書く」という様々な経験を通じて、「人間」として成長していく。そして、元々「感情」がないとしか思えなかった彼女が紡ぐ「言葉」が、どこかの誰かの「感情」を揺さぶっていくのだ。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の世界では、様々な場面で「ストレートな言葉」が出てくるが、感情がインプットされていなかったヴァイオレット・エヴァーガーデンが最も「ストレートな言葉」を使う。言葉の意味さえ的確に理解できていなかった彼女だからこそ、「こんな言葉を使ったらこんな風に誤解されてしまうかもしれない」「こんな言い方、恥ずかしくてできない」という感覚を持たず、「機能性」のみを重視して言葉を発する。しかしそれを聞く側は、シンプルでストレートな物言いにうろたえてしまうのだ。

とまあ、あーだこーだ書いてみたけれど、とりあえず思うことは1つ、これに尽きる。まだ観てない人がいたら観てくれ。メチャクチャいいぞ!

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長江貴士
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