【映画】「システム・クラッシャー」感想・レビュー・解説
本作は、衝動を抑えきれず大暴れしてしまう9歳の少女ベニーを描く物語である。しかしまず僕は、映画で描かれている国(たぶんドイツ)の福祉制度に驚かされてしまった。
ベニーは、基本的に保護施設で暮らしている。「たらい回しにされている」という表現の方が正しいが、その辺りは後で触れよう。ベニーのことは、社会福祉課のバファネが担当している。
ではそもそも、ベニーは何故保護施設にいるのだろうか?
日本の場合、「両親ともいない子ども」、あるいは「親からDVやネグレクトを受けている子ども」などが児童養護施設で暮らしていると僕はイメージしている。つまり「親がいない」あるいは「親の元にいさせられない」という条件でないと入所が認められないイメージでいる。はっきりとした知識は無いが、概ね間違ってはいないだろう。
さてベニーだが、まずベニーの場合、母親はちゃんといる。連絡も取れるし、さらに彼女はベニーの弟・妹に当たる2人の子どもを養育中である。再婚予定なのか、恋人と思われる男性はいて、母親はどうやら仕事をしていないようなので、その男性に養育してもらっているのだと思われる。
さて、この場合、日本だと児童養護施設への入居は認められるだろうか? ベニーの母親クラースは要するに、「私にはこの暴れん坊の娘は育てられない」という理由で保護施設へと預けているのだ。なかなか日本では、そのような理由では受け入れが認められない気がする。
さらに驚かされたのは、作中に「通学付添人」という職業の人物が出てくることだ。彼の仕事は、「子どもが学校に通うのに付き添い、必要に応じてその子の授業にも同席する」というもののようだ。日本ではちょっと同種の仕事をイメージすることは出来ない。
また、福祉的な話ではないが、ある場面でクラースが警察を自宅に呼ぶ場面が出てくる。この場面も、日本だったら「民事不介入」を理由に、恐らく警察はそのまま帰ってしまうのではないかと思う。しかし映画では、「大暴れしたベニーを警察が連れ帰る」という対処がなされていた。この対応にも、ちょっと驚かされた。
このように、日本とはまるで違う「子どもへの福祉環境」が整っているのである。
僕は以前、「ヨーロッパでは、『子どもは社会全体で育てるもの』という意識が当たり前」という話を聞いたことがある。だから、「学費が無料」みたいな仕組みが当たり前のように成立する。しかし日本は、まだまだ「子どもは家庭で育てるもの」という意識が強い。そしてこのような意識が強いため、「なんで他人の子どもの学費を私の税金で賄わなければならないんだ」という感覚になり、学費無料という施策が実現しにくい、みたいなことを聞いたことがある。
最近で言えば、「子持ち様」という言葉が、SNSを中心に使われている。これは要するに、「『子育てをしている社会人』ばかりが優遇されているように見える」ことを皮肉った言い方だ。個人的には、凄まじい言葉が生まれたものだな、と感じる。僕は結婚してもいないし子どももいないが、子どもを産んで育ててくれる人には頑張ってほしいという気持ちしかない。まあ僕の場合、現実的に、「子育てをしている同僚の仕事を負担している」みたいな状況にはないのでそう感じるだけかもしれないが、それにしてもなぁ、と感じてしまう。
本作のタイトルである「システム・クラッシャー」とは、「福祉が充実した環境でも、その支援の手からこぼれ落ちてしまうような極端な存在」みたいな意味であるようだ。そして本作で描きたいテーマもまさにそれ、つまり「ベニーのようなシステム・クラッシャーは支援を受けられなくても仕方ないのか?」であると思う。しかし大前提として、本作で映し出されている福祉環境が日本とはまるで違うため、僕はそのテーマ以上に「このような福祉環境が存在する社会である方がいい」という受け取り方を強くしてしまった。
「ベニーが救われるか否か」ももちろん大事だが、日本に生きていると、「ベニーみたいな『システム・クラッシャー』ではないのに、まったく救われていない子どもたち」がたくさんいるわけで、「こういう社会なら、今救われていないだろう多くの子どもが救われるんじゃないか」と感じた。
日本では、親が自分の子を育てられないと感じても、「DV」や「貧困」などの事情がない限り支援は受けられないはずだ。そういう事情がなくたって、「シンプルに子育てがしんどい!」という人だっているはずだ。でも、そういう声はなかなか挙げられない。「親失格」みたいな受け取られ方になるからだ。そのため、追い詰められた親は、子どもを捨てたり、殺したりしてしまう。
そうなる前に出来ることはあるはずだし、まさに本作で描かれる社会がそのような仕組みで回っているわけである。日本も「子育て支援」みたいなことをやろうとしているみたいだが、その政策を聞いても笑っちゃうようなわけわからんことばかりしている。マジでもっと子どもに金を注ぎまくった方がいいと思うけどね。
さて、まずそのような「こういう福祉環境がある社会って良いよね」という感覚を抱いた上で、「じゃあベニーは救われるべきなのか?」みたいな話にも踏み込んでみたいと思う。
その前にまず、福祉制度に限らず「あらゆるルール・制度を整える際の僕が考える大前提」について触れておきたいと思う。
ルールや制度を作るというのは本質的に、「どこかに境界線を引くこと」である。そりゃあ理想論で言えば「国民全員を対象にする」のがベストだが、色んな理由からそうはいかない。だから何らかの線引きをして、対象を絞らざるを得ない。つまり、ルールや制度を作る場合、必ず「そのルールや制度からこぼれ落ちてしまう人」が出てくることになる。
そして僕は、この状況は「仕方ない」と考えている。どれだけ対象を広げる努力をしたところで、「全員を対象にすることは出来ない」のであれば、どこかに必ず境界線は存在する。そして境界線が存在するなら、不幸にもその外側に置かれてしまう人だって必ず出てくることになるからだ。
さて、このような大前提を踏まえた上で、さらに、本作を観てもらえば分かるが、ベニーは凄まじく扱いが大変だ。作中で母親のクラースはかなり「酷い」存在として描かれるし、社会福祉課のバファネが「クソ女」と呼んだりする程だが、それでも、「確かにベニーを育てるのは諦めたくなるよなぁ」と感じもした(ただ、クラースの振る舞いは好きになれないが)。
ちょっとしたことで暴れるし、叫び回る。優しさを発揮する場面も多々あるのだが、それ以上に、まさに”一触即発の狂気”が発動する場面の方が圧倒的に多い。さらに納得できないことがあれば、包丁を手にとって死んでやると口にしたり、車の窓に頭をぶつけて流血したりするのだ。
もちろん、ベニーがそうなったのはベニーの責任というわけではない。作中では「母親の話によると」とただし書きが付くのでホントかどうかは不明だが、ベニーは幼い頃に(恐らく父親から)虐待を受けていたからだ。そのせいで、「顔を触られると誰も抑えられないほどのパニック発作が現れる」のだ。そしてそんなベニーに耐えきれなくなった母親が、ベニーを手放し保護施設に預けているというわけだ。
そんなベニーのほとんど唯一と言っていい願いは「母親と一緒に暮らすこと」である。しかしベニーは、自分を抑えきれないためにどんどん母親から遠ざかってしまう。彼女自身も、「暴れちゃうからママと一緒に暮らせない」ということは理解している。しかしそれでも、脳や身体が言うことを聞いてくれないのだ。
社会福祉課のバファネや、通学付添人であるミヒャはかなり辛抱強くベニーと関わろうとするが、それでもまったくダメ。ベニーは、「母親と一緒に暮らしたい」と望みながらも、その望みが遠ざかるような方向にしか行動することが出来ない。
そんなベニーと周囲の人間の奮闘を描き出す物語なのだが、僕は映画を観ていて、「ベニーを救うのは難しいだろうなぁ」と感じてしまった。何事にも限度はある。「ベニーを救えない福祉環境はダメだ」という評価は、ちょっとあまりにも厳しすぎると思う。
ただ、「じゃあだったらベニーをどう扱うべきなのか」と聞かれると、なかなか返答に困る。作中では「閉鎖病棟への入院」も検討されており、ただ法律で12歳以上と決まっているためそのような決断には至らなかったわけだが、個人的には「閉鎖病棟への入院」も止むなしという感じはする。
作中では、バファネが「37箇所の保護施設から断られた」と話していたり、あるいはミヒャが「ベニーと2人きりで3週間森の中で過ごす」みたいな対策を取ったりしている。作中では「ベニーが大暴れしている様子」ばかりが描かれるわけだが、描かれていない部分では、周囲の大人がかなりベニーのために手を尽くしていることが伝わるのだ。
もちろんそれらは、本質的にはベニーの希望に沿うものではない。ベニーは「母親と一緒に暮らすこと」を望んでいるが、周囲の大人は決してその希望を叶えるために動いているわけではないからだ。とはいえ、厳しい言い方ではあるが、その希望が叶わないのは「ベニーの自業自得」である。
そんなわけで、僕はやはり、「ベニーが救われないのは仕方ない」と感じてしまう。なかなか嫌な現実ではあるが。
映画はとにかく、気持ちいいぐらいベニーに共感できず、その点が清々しい。かなり厳しい現実が描かれている作品なのだが、ベニーが「悲壮感を漂わせる」のではなく「暴力的に大暴れする」ことの方が多いため、悲しい物語に見えない感じもある。大体いつもショッキングピンクの服を着ていることも、作品全体のポップさを引き上げていると言えるように思う。
福祉環境が整った国の人間が観れば「境界線上にいる人の救済の難しさ」みたいな話として受け取られるだろうが、日本のような子どもの福祉環境が脆弱な国の人間からすれば、「なんと恵まれた社会なんだろうか」みたいに見えてしまった。「子育て」について社会全体で考えるきっかけにもなり得る作品ではないかと思う。