【映画】「テレビ、沈黙。 放送不可能。Ⅱ」感想・レビュー・解説
いやー、これは面白かったし、驚いた!しかし、僕の長々しい文章を最後まで読んでくれる人などほとんどいないと思うので、まず、この映画で描かれていることで最も重要な、恐らくほとんどの日本国民が知らないだろう事実について書いておこう。それは、
【「1つの番組だけで政治的公平性を判断し、電波停止も可能である」という、安倍政権時代に高市早苗が発表した「放送法の解釈変更」は、2023年3月17日のテレビで放送されない委員会で正式に「撤回」された】
という点である。つまり、
【「政治的公平性は、放送局全体の番組から総合的に判断される」という、安倍政権以前に認められていた解釈に正式に戻った】
ということなのだ。もし、「放送法の解釈変更」に関する議論についてある程度知識がある人なら、この点だけ抑えておけば十分だ。あとは、「その解釈変更を撤回させたのが、立憲民主党の参議院議員である小西洋之であること」と、「その小西洋之に総務省の内部文書を極秘に渡した官僚がいたこと」を知っておけば十分だろう。
僕は、この映画で描かれる事柄の「大枠」については、大体把握していた(もちろん、その細部について「こんなことがあったんだ」という驚きは随所にあるが)。しかしこの「『放送法の解釈変更』を総務省が正式に撤回した」という事実はまったく知らなかったので、この点には本当に驚かされた。小西洋之議員が、その撤回を総務省の官僚に認めさせた委員会での映像は、恐らくこの映画が初めて世間に公表するだろう、とのことだった。テレビでは一切報じられなかったからだ。その辺りの話は、また後で触れよう。
さて、しかし、多くの人にとっては、「放送法の解釈変更」の話がチンプンカンプンではないかと思う。そこで、この映画で描かれている内容について、僕なりに説明していきたいと思う。ちなみに僕は、新聞は読んでおらず、ニュース的なことはテレビのニュース・報道番組ぐらいでしか知らない。それでも、この映画で描かれる内容の「概要」はざっくり理解できていたので、テレビがまったく何も報じていない、というわけでもないだろうと思う。まあとにかく、僕の知識は「浅い」ことを理解しているので、何か誤りがあったら申し訳ありません(この文章に何か誤りがあっても、それは僕の責任であり、映画の内容の誤りを指摘するものではない、という意味です)。
少し前、テレビのニュース番組で、「高市早苗議員が辞めるとか辞めないとか」みたいな話が話題になっていた。「放送法の解釈変更」は、その騒ぎと関係がある。
発端は、2023年3月3日の予算委員会で、小西洋之議員が総務相官僚から極秘に譲り受けた内部文書について質疑応答をしたことだ。その内部文書が何故作られたのかというと、「政権側から、総務省がこんなことをやいのやいのと言われている」という事実を総務省内で共有するためのものだそうだ(上映後のトークイベントの中で小西氏がそう言っていた)。かつて自身も総務省の官僚だった小西洋之議員は、その資料を見て「完璧な行政文書だ」と感じたそうだ。そりゃあそうだろう。政権から「明らかに違法」と思われる要求を突きつけられているわけだから、「こういう事情があって総務省はこれこれの決定をしたのだ」という文書を残しておかないと怖い。そんな経緯で作られた文書が、「国民に対する裏切りを見て見ぬふりすることは出来ない」と考えた勇敢な内部告発者によって表に出てきて、今回の騒動になったというわけだ。
では、その文書には一体何が書かれていたのか。テーマは「放送法の解釈変更」であり、これについて、当時安倍首相の総理補佐官だった礒崎陽輔が、「こういう解釈変更を押し通せ」と、あたかも恫喝しているようなやり取りが生々しく記録されているのである。その文書に記載されている様々な事実を総合すると、「礒崎陽輔総理補佐官が主導し、安倍元首相が追認し、高市早苗もその内容を理解した上で公に発表した」という構図が浮かび上がってくるというわけだ。
そしてこれは、「放送法」というものが生まれた背景に逆行する、非常に「けしからん事態」ではないか、とこの映画は主張しているし、2015年から2016年に掛けて高市早苗がこの「解釈変更」について発表した際に、日本のジャーナリストが驚愕することになったのだ。
ではまず、「放送法」が生まれたきっかけについて書いておこう。これは非常にシンプルだ。「戦時中、時の政権が放送局を支配して、自分たちに都合の良い報道をさせたこと」の反省を踏まえ出来た法律なのである。だから「放送法」には、「自立と自由の保証」や「不偏不党の精神」「干渉や規律の排除」などが明確に記されているのである。
「放送法」とは直接関係はないが、この映画のつくり手の一人であるジャーナリストの田原総一朗は、子どもの頃の印象的な出来事について触れている。11歳の時に終戦を迎えた田原少年は、つい先日まで教師から「この戦争は、悪の英米からアジア諸国を解放するための素晴らしい戦争だ」と教わっていたのに、終戦直後から180度意見を変え、「戦争などしてはいけない」と言われるようになった。その後、朝鮮戦争の際、田原少年は「戦争反対」と主張したそうだが、そこでもまた教師が180度意見を変え、「戦争反対」と主張した田原少年は怒られてしまったそうだ。この経験から彼は、「偉い人やマスコミの言うことは信用ならん」「国は国民を騙す」という感覚を得るようになり、ジャーナリストを目指したのだそうだ。
さてそんな「放送法」に手を入れたいと考えていた人物がいる。もちろん、安倍元首相である。高市早苗が解釈変更を発表する少し前、政府は「安保法制」に関する審議を行う準備をしていた。集団的自衛権に関する話だ。しかしこれについては、メディアも専門家も、一斉に「憲法違反」だと声を上げていた。結局、強硬的に採決されてしまったが、あの辺りから僕は、「日本は戦争に突き進むつもりなんだなぁ」と感じるようになっていったし、「いつ戦争が起こっても不思議じゃない」という覚悟を持つようになった。
そんなわけで安倍政権は、「安保法制をやるのに、国民の反対とかウゼーよなぁ。だから、ちょっとテレビの報道を押さえつけようぜ」みたいに考えたのだろう(そういうやり取りも、先の内部文書で示唆されている)。そこで目をつけたのが「放送法 第二章 第四条の二項」である。第四条は「編集」について触れられているのだが、その中の二項で「政治的公平性を保つこと」と書かれているのだ。
さて、この二項はこれまで、「放送局の政治的公平性は、その放送局が流すすべての番組から総合的に判断する」という解釈がなされてきた。つまり、仮にある放送局のある番組が政治的公平性を著しく欠いているとしても、放送局全体がそのような傾向を持っているのでなければ許容すべき、という解釈というわけだ。まあ当然、真っ当な判断と言えるだろう。
しかし安倍政権はこれを、「ある一つの番組からだけでも、その放送局の政治的公平性を判断することは可能」という解釈に変えようと考えた。これはつまり、「ある番組の政治的公平性の判断を基に、放送の電波停止を言い渡すことができる」という意味になる。テレビ放送というのは総務省管轄の免許事業なので、総務省の許可がなければ行えない。だから総務省は(というか、実際には礒崎陽輔総理補佐官が)、「免許停止をちらつかせて、政権に不都合な放送を止めさせることが出来るようにする」のが、今回問題として取り上げられている「放送法の解釈変更」なのである。
もちろん、普通に考えて、こんな解釈変更が許されるはずもない。総務省も当時そのように考えて、抵抗しようとしたそうだ。しかしその度に、磯崎総理補佐官にボロクソに言われる、ということが繰り返されることになった。
こうなるとひとたまりもない。というのも、これも確か安倍政権下で変わったはずだが、新たに「内閣人事局」という組織を作り、「内閣が官僚の人事を一手に掌握する」という形に変わったからだ。かつてはそうではなく、(恐らく)各省庁の大臣とかに人事権があったんだと思うけど、それをすべて内閣が管理する形にしたのである。こうなると、「内閣に楯突く官僚」は左遷などの報復行動を取られる可能性がある。この仕組みによって、官僚はメチャクチャ萎縮してしまっている、というわけだ。
そんなわけで、磯崎総理補佐官の主導で行われた「放送法の解釈変更」は、無理やり実行に移され、2015年と2016年に当時の総務省大臣である高市早苗が委員会で公にする、という流れになるのである。
高市早苗の発表と呼応するかのように、『サンデーモーニング』の岸井成格、『報道ステーション』の古舘伊知郎、『クローズアップ現代』の国谷裕子らが相次いで番組を「降板」。テレビ局側は、「高市早苗発言とは関係なく、自主的な判断だ」と繰り返したそうだが、どう考えても、高市早苗発言を受けて「物言うキャスター・コメンテーターを報道番組から排除しよう」という動きになったのだろうことは想像に難くない。
そのようなテレビ局側の「忖度」「萎縮」は、小西洋之議員も感じていた。彼は、受け取った内部文書を元に、まず総務省とやり合ったのだが暖簾に腕押し。そこで「公表しますよ」と伝え、2023年3月2日にまず記者会見を行い、その翌日の3月3日の予算委員会で質疑応答を行う。しかし、3月2日の記者会見には60名ほどの記者が集まったにも拘わらず、この件はほとんど報道されなかったそうだ。3月3日の予算委員会での質問以降も対して取り上げられず、その後、「この行政文書は捏造だ」と主張していた高市早苗が、「この文書が捏造じゃなかったら議員を辞める」と発言してから、「高市早苗が議員辞職するのか否か」という点ばかりが報じられることになった、というわけだ。
さて、そんな風にすったもんだあった挙げ句、小西洋之議員は3月17日、元からテレビ中継がなされない委員会で、総務省から「安倍政権時代の解釈は撤回する」という発言を引き出すに至った。これは総務省としての見解であり、つまり現在は、「いち番組からのみ政治的公平性を判断する」という、2015年から2023年3月16日まで存在していた「解釈」は無くなったのである。
しかし、何故小西洋之議員は、テレビ中継のない委員会でこのやり取りを行ったのだろうか? その理由が興味深い。なんと総務省側から、「テレビ中継される委員会では撤回することは出来ない」と予め申し入れがあったというのだ。冒頭でも触れたが、小西洋之議員が撤回を引き出した委員会の映像は、映画『テレビ、沈黙。 放送不可能。Ⅱ』が初出だろう、とのことだった。
別に、秘されていたわけでも、素材が手に入らなかったわけでもない。確かにテレビ中継はされなかったが、記者クラブを通じて情報は流れているわけで、記者はその事実を知っていたからだ。つまり単純に、「テレビ局が、テレビ局の意思で、それを報じないと決めた」のである。この「撤回」については、朝日新聞と東京新聞が「社説」で報じたそうだが、結局社会面の記事にはならなかった(映画の中では「朝日新聞は社会面の記事にしなかった」みたいに言っていた気がするので、東京新聞がどうだったかは不明)。
この事実を以ってしても、テレビを含むマスコミが「忖度」「萎縮」していることは明らかだろう。まあとはいえ、冒頭でも触れた通り、僕はニュースの情報源としてほぼテレビしか見ていないが、それでも、高市早苗の辞職がわーわー報じられていた頃に、「いち番組で政治的公平性を判定するという解釈に変わった」みたいな説明はしていたし、「内閣人事局が官僚の人事を掌握した」みたいなこともニュース番組で見たので、「事実」としては報じているのだと思う。
ただ、映画の中で田原総一朗と小西洋之議員は、「テレビは、政策の論評をしなくなった」と言っていて、確かにそれはその通りだなと感じる。僕が記憶にある限りでは、『報道ステーション』の古舘伊知郎なんかは論評をする人だったように思うが、政治の状況や制作そのものについて、そういう「良し悪し」を判定する主張は、確かにテレビで観ることはほとんどないな、と思う。
さて、小西洋之議員は、安倍政権の解釈が「撤回された」という事実を、テレビ制作の現場の人たちがどれぐらいちゃんと認識しているのか疑問だ、と語っていた。確かにその通りだろう。総務省は、「テレビ中継のない委員会でしか撤回しない」と言ってきたのだから、とにかく「撤回したという事実を知られたくない」はずだ。僕ももちろん知らなかったし、小西洋之議員や田原総一朗の感覚としても、「放送に関わる人でも知らない人は多いんじゃないか」と語っていた。
もしそうだとすれば、「放送法の解釈変更」が撤回されたとて、テレビ作りの現場は何も変わらないことになる。もちろん総務省、ひいては政権はそれを望んでいるわけだが、それは良くないよなぁ、と思う。むしろ、「『撤回』という回答が引き出されたのだから、もっとギリギリを攻めるみたいな番組があってもいいのに」と思ったりするのだが、なかなかそうもいかないのだろう。
以前から知っていた話ではあるが、「報道の自由度ランキング」みたいなもので、日本は評価が低い。2023年度は180カ国中63位だそうだ。ネットで調べてみると、日本より上位には、「レソト」「リベリア」「モーリシャス」「ガイアナ」「ブルキナファソ」「ベリーズ」など聞き馴染みのない国もあるし、アジアの国で言えば、韓国や台湾に大きく負けている。肌感覚としても、「日本の報道はヤバいなぁ」と思うし、それはもちろん「日本の政治ってヤバいよなぁ」という感覚から来るものでもある。
映画の中で「なるほど」と感じたのが、放送の許認可性のしくみについてだ。ヨーロッパや韓国などは、独立した第三者機関が公平性などを判断し免許を与えるという仕組みになっているそうで、そこに政治は絡まない。日本の場合、「放送法の解釈変更」が撤回されたと言っても、放送が総務省管轄の免許事業であることには変わりないのだから、「総務省、あるいは政権を怒らせたら、あらゆる理屈をつけて潰しにかかる」ことが想像できる。実際に、かつてそういうことがあったそうだ。
1968年、TBSの『ニュースコープ』という番組のエースキャスターだった田英夫が、自民党からの圧力を受けて解任させられたのだそうだ。それを受け、TBSの一部社員は、「報道の自由は死んだ」という喪章をつけて、ストライキに入る。そして、そんな状況を憂え、なんとかしようと、TBSを一斉に退職した者たちが作ったのが、この映画のつくり手である「テレビマンユニオン」なのだそうだ。
今の時代にも、そのような気概のある者たちが必要とされているような気がする。映画でも語られていたが、「現内閣、現首相を批判することは、ジャーナリズムにとって当たり前のこと」であり、「ジャーナリズムにとって最も重要な役割は政権批判」なのである。そのことを、テレビも我々も「国」に忘れさせられようとしているように感じた。
さて、上映後には、ジャーナリストの鳥越俊太郎と小西洋之議員によるトークイベントが行われた。ただ、ちょっと鳥越俊太郎が「元気すぎた」(笑)。やはり「トークイベント」となれば、「いかに『映画で語られなかったこと』に触れるか」が大事だと思うのだが、鳥越俊太郎は、まあ言いたいことが山程あるのだろう、映画で語られていたことをなぞるようにして自説をバリバリ主張していた。主催者側も「ちょっと想定外」と言った感じだったかもしれないが、ちょっとあれはよろしくなかったような気がする。
もし質疑応答の時間があったら聞きたいと思っていたことが2点あるので、ここに書いておこう。いずれも、僕も「政治に関する知識不足」が露呈するものだが、まあ僕と同じぐらいの知識レベルの人も少なくはないはずとも思う。いずれも、「放送法」に限定されない、より包括的な話である。
1つ目は、「政権(あるいは省庁)による『法律の解釈変更』は、法律的に認められているのか」ということだ。まず僕にはこの点が理解できない。僕の理解では、法律の解釈は「最高裁の判断」によって変わり得ることは知っているが、「最高裁の判断」以外に、「法律の解釈変更」なんてものがそもそも許容されているんだろうか? 映画の中で度々言及される内部文書内では、「これほどの解釈変更を行うなら、専門家を呼んで議論し、国会での議論も必要だよね」みたいな発言をしていた人の記録もあったはずなのだが、確かにこの「放送法の解釈変更」はそういうレベルの話だと思う。ただ、「法律によっては、政権や省庁の判断で『法律の解釈変更』を行うことが、そもそも認められているのか」ということを知りたかった。
そしてもう1つは、1つ目の質問と関連するが、「『法律の解釈変更』をしてもいいのだとして、それは『省庁』の判断で行えるものなのか?」ということだ。これは、「『放送法の解釈変更』の撤回が、総務省の判断によって行われた(ように見える)」という点からくる疑問だ。集団的自衛権とか憲法なんかでも、時の政権が度々「解釈変更」をやっていると思うのだけど、それが許されるのだとして、その「主体」は「省庁」なのかどうか、という点が知りたかった。
そもそも「法律の解釈変更を政権や省庁が勝手に行うのはダメ」ということであれば、まずその点を指摘してもいいような気がするが、そういう議論はなかったので、「軽微な解釈変更は良し」とされているのかもしれない。また、その場合の「主体」が「省庁」なのだとしても、結局官僚の人事権は握られているのだから、主体が省庁だろうがなんだろうが、政権の意向が働くことは間違いない。そういう意味では2つ目の質問は聞いてもあまり意味のない質問かもしれないが、ちょっと気になった。もしご存知の方がいたら教えてほしい。
そんなわけで、繰り返すが、「『放送法の解釈変更』が撤回されていた」という事実はまったく知らなかったので驚かされたし、その事実が一切報じられていないという状況にも驚かされた。そういう、「知らない事実を知ることが出来る」という意味で、非常に興味深い作品である。