【映画】「ブックセラーズ」感想・レビュー・解説
僕には、コレクター気質はまったくない。だから、この映画に登場する人たちの感覚は、実際のところ遠く感じてしまう。
ただ同時に、羨ましくもある。それが本であろうがなかろうが、それがどうしても欲しい、必要だ、集めたいという強烈な感情に支配されている感覚を、僕は味わったことがないからだ。映画の中である人物は、『希少木コレクターは、欲しい本を買うために祖母を売るような人物だ』というようなことを言っていた。それは、まさに”狂気”でしかないが、しかしそんな”狂気”に支配されてみたい、という欲求は、僕の中にある。羨ましい。
ただ、本のコレクターというのは、美術品などのコレクターとは少し違う、と映画で語られていた。その一番の違いは、『本は唯一でも無二でもない』ことだという。この指摘は、なるほどと思わされた。
美術品の場合、そのほとんどは一点物(版画などは別だろうが)だ。だから美術品のコレクターの感覚としては、もちろん「自分が欲しい」という気持ちを持っていることは大前提として、さらにその上で「別の人間に所有させたくない」という気持ちが生まれるのだという。あいつが持っていないものを自分は持っている、という優越感のようなものを得ることができるのが美術品なのだ、と。
しかし、本の場合はそうではない。本も確かに、特殊な挿絵が入っていたり、豪華な装幀がされたりと一点物であるものもあるが、そのほとんどは同じものがどこかにある。その一点しか世の中に存在しない、という本はそうそう存在しない。
だからこそ、本のコレクターというのは、他人の所有権のことと独立して、「自分とその本との関係性」みたいなものをより重視するという。もちろん美術品であっても同じ感覚を持つコレクターはたくさんいるのだろうが、「本」というものが持つ「美術品的な価値」と「大量生産的な要素」が絡み合うことで、独特な収集感情が生まれるという指摘は興味深いと感じた。
また、コレクターというのは単に収集するだけの人ではない。コレクターの収集によって、新たな価値が創造されることがある。
今でも稀少本コレクターというのは男性が多いが、より男性中心だった時代に活躍した2人の女性コレクターは、「若草物語」のオルコットが偽名で書いたパルプ小説を多数発掘したことで、オルコットという作家人生を詳細に明らかにする手助けをした。また別の女性稀少本コレクターは、「女性が書く女性」を扱った本の収集がなされていないことに気づき、非常に有意義なコレクションを作り上げた。
また、「カバー」の価値にも光を当てた。かつて本のカバーというのは、「本を保護するためのもので、書店に置かれている間だけつけ、家に帰ったら捨てるもの」という扱いだった。だから、研究機関なども重視していなかったのだが、コレクターがその価値に気づき収集することで、研究対象としての価値も見直されていく。例えば、作家のプロフィールなどは、版が変わるごとにカバーでの表記が変わることがある。そういう変遷を知ることができるのだ。
映画の中では、確かフィッツジェラルドの作品だったと思うが、「カバー無しの初版本なら5000ドル」「破れたカバーがついた初版本なら1万5000ドル」「完璧な状態のカバーがついた初版本なら15万ドル」の値が付くという。
この映画では、ブックセラー、コレクター、鑑定士、競売人、作家など、本に関わる様々な人物が登場する。皆、何らかの形で本と関わり、物体としての本を愛しすぎている人物だ。家業である書店を継いだというような人物もいるが、映画の中の言葉を借りれば『ほとんどの人がこの業界に偶然入ってくる』のである。稀少本ディーラーになろうとしてなったのではなく、たまたま足を踏み入れてなってしまった、ということだ。
中でも興味深いと感じたのは、子供ながらに図書館(だったと思う)に本の貸し出しを行ったことで足を踏み入れた人物。両親が骨董好きで、骨董店に入ると「静かにね」と言って毎回5セントもらえるという。両親が様々な骨董店をまわるのだろう、一日で本が一冊買えるぐらいの金額になったという。
そのお金で、気になった本を買っていたのだが、その中にそうとは知らず稀少本が混じっていた。ある時図書館(だったと思う)がこういう稀少本を探しているという広告を新聞に出した。それを見た両親から話を聞き、彼は最年少で図書館への本の貸し出しを行う人物となった。そうして、稀少本の世界に足を踏み入れたのだ。
稀少本ディーラーの役割について、こんなことを語っている人物がいた。
『稀少本ディーラーは、10年、20年、30年かけて顧客を教育していくのだ』
『本の真価を学習する能力を伝授しているんだ』
本の価値を見極めるには、膨大な知識や経験が必要で、すぐに身につくものではない。稀少本ディーラーとして非常に有名だった人物は、本業がカリスマ的なロックギタリストだった。彼はツアーで全米各地をまわる中で書店を訪れ、その経験から知識を身に着けていったという。百科事典的な物の見方をし、その博識さで一目置かれていた。
そのような熟練の知識・経験を必要とする稀少本ディーラーだが、状況は厳しい。そもそも、『稀少本の価値を理解できる人間は、稀少本と同じくらい稀少だ』というくらいマーケットの狭い世界ではあるのだけど、さらにそこにインターネットが変革を強いる。
ある人物は「稀少本とは何か」という問いに対して、『見つけにくく、大勢の人が欲しがる本』と答えていたが、インターネットの出現によって状況は一変する。「見つけにくく」という部分が解消され、しかも「大勢の人が欲しがる」というのも可視化されるようになった。昔なら50ドル~125ドルくらいで取引されていた本が、インターネットの出現によって20ドル~30ドルになってしまった、と嘆く人物もいた。
コレクターにとってインターネットの登場は喜ばしいことだ。以前よりも格段に本を探しやすくなっている。『インターネットは、本の需要と供給を民主化したと言える』と評価する人物もいた。しかし同じ人物はそれに続けて、『薄暗くて胡散臭くて面白い部分をどこかにやってしまった』と嘆く。稀少本の面白さは狩りの楽しみだと語る人物は、『インターネットは狩りを殺す』と言うし、別の人物は『ぬくもりがなくなったね』と寂しそうに語っていた。
インターネットの登場や、スマホによる読書離れなどによって、稀少本ディーラーの高齢世代はかなり悲観的な考えを持つようになっているという。しかし、この映画には少ないながらも若手の稀少本コレクターも登場し、彼女は楽観的だと力強く語っていた。まさにこれから書店を開こうという若いカップルは、『今は個人書店ブームだ』と言っていたし、ヒップホップに関するメディアの若手編集長は、ヒップホップに関する記事はグーグルで探しても出てこないから昔の雑誌を探すしかなかった、というようなことを言っていた。
かつては「情報」は「物体」として存在することが当たり前だったが、現代では「情報」は「物体」から切り離して存在することが可能になっている。そういう時代にあって、「本」という「物体」がどのように求められるのか、あるいは求められなくなるのか分からないが、僕自身もなんとなく、「本」という「物体」に対する需要は、現状の需要とは形は変わるかもしれないが、どのような形でかで存続していくのではないかと思う。
そう感じる理由は、若い世代にもちゃんと「本が好き」という人がいるからだ。僕は長いこと書店で働いてきたが、やはり「物体としての本」に関心を持つ人というのは常にいた(書店で働いているから当然かもしれないが)。しかも、それがどの程度の規模であるのか僕にはわからないが、「本の中身以上に、装幀や表紙や佇まいに関心がある」という人がいるんじゃないかと感じている。個人が作る「ZINE」などの出版が盛んになっていることもあって、そういう「物体としての本」への関心は、大規模ではないかもしれないが続いていくだろうと思っている。
インターネットの出現によって変わったのは、流通価格や手に入りやすさだけではない。「何を収集するか」まで変わったという。
「本」という形で出版されているものは、情報が蓄積されることで、「この作家の初版はどれぐらいの値段で流通される」というようなことが可視化されていくし、価値が標準化されていくだろう。だからこそ、より稀少なものへと関心が向かうことになる。具体的に言えば、葉書、手紙、手稿などだ。昔はこれらはさほど収集対象として捉えられていなかったが、状況は変わりつつあるという。
ただしこれらもまた、テクノロジーとは無縁ではいられない。例えば、現代の作家は執筆において、下書きや情報収集やアイデア出しなどをパソコンの中で完結させるだろう。かつては、紙に残された様々な情報の断片から、作家の執筆過程を知ることができたが、執筆がパソコンで完結される場合、そのパソコンにアクセスできない人間が執筆過程を知る方法はあるだろうか?
『7年前のファイルは開けないが、500年前の本は開ける』
テクノロジーが進化することで、古い形式のデータやファイルはすぐに開けなくなってしまう。その速度がさらに早くなっていくだろう時代において、「何かを生み出したり成したりした人物の来歴を辿るアーカイブ」みたいなものを構築していくことの難しさ、という困難と、今後直面していくことになるのだろうという問題提起もなされていた。
収集対象の変化は、稀少本ディーラーの世界に別の変革ももたらしつつある。それが、先程も少し触れた男女比だ。現在でさえ、稀少本ディーラーの男女比は85:15ぐらいだという。圧倒的に女性が少ない。しかし、業界は変わらざるを得ない。何故なら、愛書家や収集家の好みが多様化しているからだ。
稀少本コレクターというのは元々、英国貴族の趣味から始まっており、関連団体も社交クラブをベースにしていることが多いこともあって、どうしても男性中心社会だった。先程オルコットの偽名作品を発掘したと紹介した女性2人の稀少本ディーラーも、ある団体に入会したいと手紙を出した際、「本への貢献を」と返事をもらったという。その時点で彼女たちは、稀少本の世界で多大なる貢献を成していたにもかかわらずだ。名を知られている稀少本ディーラーもいるが、陰ながら多くの貢献をしてきたにもかかわらず知られていない女性もたくさんいる。
しかし、需要が多様化してきたこともあり、必然的に供給も多様化せざるを得ない。「こういうしきたりだから」などという古い感覚のままでは、そもそもマーケットが広くない稀少本の世界で生き残っていくのは難しくなるだろう。
また、毎年女性の稀少本ディーラーに1000ドルの賞金を渡すプロジェクトを行っているという女性ディーラーが面白いことを言っていた。『コレクターというと、お金が掛かると思われているが、本当に価値があるのは、お金を出してまで買おうとは思わないものだ』。要するに、ガラクタだと思われているようなものでも、情熱や好奇心を持って収集していれば、いずれそれが価値あるコレクションとして認められていく、ということだろうと受け取った。確かにそう説明されれば、「お金がないからコレクターになれない」という不安みたいなものは払拭されるな、と感じる。
最後にいくつか、「本を読むこと」「本を収集すること」について語っていた発言を拾って終わろうと思う。
『読書は逃避だという人がいる。しかしそれ以上に、本は人を完全にするものなのだ』
『コレクターは物ではなく物語を買うのだ』
『本に正しい家を見つけてあげることは、医者が患者を治療するようなものだ』
『本もまたその読者を読むのだ』