【映画】「ミッシング」感想・レビュー・解説
嫌な世界だ。
もちろんそれは、石原さとみ演じる「失踪した娘を探し続ける母親」の物語に対しても感じた。しかし、表現はともかく、そちらは「分かりやすい嫌悪感」である。この母親に向けられる「匿名の刃」はとても現代的だし、狂ってるし、世の中のおかしさを凝縮していると思う。
しかし僕は、中村倫也演じる「事実を報じようと奮闘するテレビ局の記者」の物語に対しても同じことを感じた。もちろん同じような嫌悪感を抱く人は多いだろうが、決してこちらは「分かりやすい」わけではない。
本作には印象的なシーンが多いが、個人的に最も印象的だった場面を紹介しよう。それは、テレビ局の記者である砂田が知り合いの刑事と話している場面である。経緯はともかく、刑事が砂田に、「元はと言えばあんたらが面白おかしく報道するからこんなことになってるんでしょう」と言う。それに対して砂田は、「面白おかしくなんて報じてません。事実を伝えているだけです」と答えるのだが、さらに刑事が次のように返すのだ。
【その事実が、面白おかしいんだよ】
なるほどなぁ、と思う。
また、映画の割と早い段階で、娘・美羽の事件を取り上げてくれる砂田に、母・沙織里が「集まった情報を見せて下さい」とお願いする場面がある。ここでは砂田は、「個人情報が云々」とごまかすのだが、その後テレビ局に戻った後のシーンで、「根拠のない憶測とか誹謗中傷とか山ほど来ましたからね」と口にしていた。
どちらも、「事実を報じること」の難しさを映し出す場面だと思う。
沙織里は度々、砂田に酷い言い草をする。「どうせ視聴率のことしか考えていないんですよね」みたいな感じだ。観客は理解しているのだが、砂田はそのような人物ではない。しかし、どうしても上司からの命令で、彼自身の意に染まない取材をせざるを得なくなる。そしてそれに対して、沙織里が憤りを覚えるというわけだ。
しかし沙織里は、そんな自身の態度をすぐに翻し、「いつでも何でもしますので取材して下さい」と深々と頭を下げる。夫との会話でも、「砂田さんの言うことさえ聞いていれば、美羽は絶対見つかるから」と、かなり狂気的な言い方で砂田への信頼を表現していた。
まあそれも仕方ないことだ。やはり、知ってもらわないことには何も始まらないからだ。
話は少し脱線するが、現代において「知ってもらうこと」がいかに難しいかを実感した出来事がある。一回り離れた年下の友人と飲む約束をしていた日が、大人気ドラマ「VIVANT」の最終回の夜だった。なので、僕は当然、彼女も「VIVANT」のことを知っていると思い、「今日は最終回だから、後でTVerで見ないと」みたいなことを言ったら、彼女はなんと「VIVANT」のことを知らなかったのだ。
繰り返すが、「VIVANT」の最終回の夜である。少なくとも、ここ最近のドラマでは一番の話題作だったと思うし、ドラマに限らず「世間の話題」の中でもかなり上位に食い込むほど注目されていたと思う。実際にドラマ本編を見ていなかったとしても、ドラマの存在自体を知らないというのは相当だろう。ちなみにその子は、どのくらい使っているかは分からないが、SNSも普通ぐらいには見ている人だ。
だからその時僕は、「そうか、『VIVANT』でさえも、その存在すら知らない人間がいるのだなぁ」と感じさせられた。だとすれば、「どこかの個人が知ってほしいと考えていること」など、普通は知られることはないだろう。
だからこそマスコミに頼るしかないことになる。それが分かっているからこそ、沙織里は砂田にすがるのである。
しかし一方で、マスコミが報じることによるマイナスも多分に存在する。それは現代人であれば容易に想像しうることだろうし、本作でも様々な形で描かれている。報じることのプラスだけを享受することは出来ない。マイナスを受け入れる覚悟を持つことでしか、そのプラスは受け取れないのである。
そしてそのような現実に、砂田と沙織里がどのように向き合うのかが、本作では描かれていく。
テレビ局の飲み会の最中、砂田の後輩で特ダネをバンバン取ってくる記者が、「ある政治家のセックススキャンダル」の話で盛り上がろうとしていた。風俗で凄いプレイをしていたというのだ。飲み会の場がその話で湧く中、砂田はその後輩の発言の言葉尻を捉えて、「『爆笑』ってことは無いんじゃないの」と口にする。「間違った人間を袋叩きにしていいわけじゃなくない?」と。
このように砂田は、「マスコミ」というかなり極端な環境に身を置きつつも、どうにか自分のスタンスを歪ませず、「報じることによって、可能な限りプラスをもたらし、可能な限りマイナスを生まない」という努力をしようとする。
そして、そんな砂田なりの結論が、「事実を報じる」というスタンスなのだ。しかしそれを刑事に、「その事実が、面白おかしいんだよ」と指摘されてしまう。このセリフは、先程の政治家のセックススキャンダルの話に通じる。そのセックススキャンダルも、「事実だが、その事実が面白おかしい」というタイプのものだ。
しかし、沙織里の方は一体何が「面白おかしい」のか。そのポイントは2つある。1つは、「その日沙織里が、好きなバンドのライブに行っており、その最中に娘がいなくなったこと」、そしてもう1つは、「ライブに行くために娘を預けた弟に色々噂がある」である。本作は、娘の失踪から3ヶ月後が物語の起点になっているので分からないが、恐らく失踪直後に全国ニュースになった際に「母親がライブに行っていた」みたいなことが報じられたのだろう。それで沙織里は、「育児放棄してライブに行き娘を失った母親」と誹謗中傷を受けているのである。
そして砂田はもちろん、「そのような報じられ方がされた事件」であることを知った上で、地元の放送局として、キー局が追わなくなって以降も、沙織里・豊夫妻の取材を続けるのである。
さて、ここでも、砂田の「事実を報じる」というスタンスがダブルスタンダードであることが分かる。政治家のセックススキャンダルは、事実だが報じるべきではない(と口にしたわけではないが、恐らく砂田はそう考えている)。しかし美羽の失踪は事実だから報じるべきだ。恐らく砂田自身も、この矛盾には気づいているはずだ。その狭間で、もがいている。
事実でなければ報じてはいけないのか。事実であれば報じていいのか、あるいは報じるべきなのか。報じることで事実になっていくものもあるのではないか。しかしそれは、容易に過ちを生み出しもするのではないか。
沙織里たちに向けて根拠のない誹謗中傷を繰り返す者は、議論の余地なく問答無用でクズだが、砂田が置かれている状況についてはなかなか即断が難しい。砂田自身も、そう葛藤している。
しかし難しいのは、「そのような葛藤を抱かない人間」ほど出世するということだ。本作では、そんな現実も切り取られていく。まあそれは、テレビ局に限らずどの世界でもきっと同じだろう。例外は多々あるだろうが、「人の気持ちを無視して平然としていられる人」ほど仕事で評価されやすくなるという側面はあるのではないかと邪推している。
それもまた、「嫌な世界」だなと思う。
さて、そんなわけで、本作『ミッシング』について、まずはテレビ局の記者・砂田について触れてみたが、本作はやはり沙織里の物語である。そして、石原さとみの演技が凄まじかった。
彼女は、いくつもの「分かっちゃいるが止められない」を抱えている。自身に向けられる誹謗中傷を、傷つくと分かっていて見てしまうこともその1つ。また、「自分の時間のほとんどを美羽のために注いできたけど、2年ぶりの推しのライブだからご褒美として行った」という過去の自分の行動を責め倒している。さらに、「そんな自分のことを夫が責めているのではないか」という卑屈な思いをずっと捨てされずにいるのだ。
そんな彼女は、あらゆる場面で、事情を知らなければ「奇行」と判断されてしまうだろう行動を取る。どれも、鬼気迫るような振る舞いである。そしてそんな沙織里の「狂気」を、石原さとみが凄まじい演技で体現していた。
僕は、特段情報を集めていたわけではないのだが、本作『ミッシング』の番宣で出演した石原さとみがある番組で、「石原さとみが監督に直談判して出演させてもらった」みたいなことを話していたのを鑑賞前に見た記憶がある。また、何で見知ったのか覚えていないが、「沙織里役を演じるにあたって、ボディソープで髪を洗いゴワゴワにして撮影に臨んだ」みたいな話も知っていた。とにかく「体当たり」で挑んだ作品ということだろう。
沙織里はとにかく、後から「ごめん」と口にする場面が多い。娘の失踪に沙織里ほど狼狽えていないように見える夫・豊に対して「同じ温度じゃない」と言った後や、母親が心配して色々声を掛けてくるのに「うるさい」と言った後、あるいは先述したが、砂田に対して「視聴率のことしか考えていないんですね」と言い放った後など、彼女は「ごめん」と言って、「自分が間違っていることは分かっている」ということを伝えようとする。
そう、沙織里は、頭では理解できているが、心が壊れすぎていて、自分の言動を制御できなくなっているのだ。彼女は自分でも、「自分が周りから『狂気的』と見られていること」を認識している。しかしそれでも、「美羽のため」という思考がすべてに優先してしまい、他のことが上手く捉えられなくなっていくのだ。
しかし、これはまだ序の口である。沙織里は実は、もっと壊れていく。ただその「崩壊」は、もしかしたら少し捉えにくいかもしれないとも思う。
彼女は、「『カメラを通して見た自分』が、見た人の感情を揺さぶるように」というスタンスのみで行動していくことになるのである。ここでも、先程と同じような議論が展開できる。「事実を報じること」の難しさについてである。
例えば沙織里は、ある場面で、砂田たちのカメラの前で号泣する。もちろん、「そのように振る舞っている沙織里の姿」は「事実」である。しかし、沙織里の中には恐らく、「泣く方が見ている人の感情に訴えかけるだろう」という感覚もあったのではないかと思う(これは僕の邪推だが)。そして、だから号泣している。この場合、「カメラの前で号泣している沙織里の姿」は、果たして「事実」と言えるだろうか?
この話についてはもう1つ、とても分かりやすい場面がある。「誕生日祝い」に関する描写なのだが、その詳細はちょっと伏せておこうと思う。いずれにせよ、この場面でもまた、「それは果たして『事実』と言えるのだろうか?」という問いが成り立つことになる。
とても難しい問題だ。
実際に目の前で展開されている出来事なのだから、事実でないはずがない。しかし同時に、そこにカメラが無かったらその出来事は起こらなかったかもしれないわけで、そうなるとそれは事実とは言いにくいとも感じられてしまう。
「事実」とは一体なんなのだろうか? やはりこういう時には、森達也のことを思い出す。彼は「客観的な事実など存在しない」というスタンスでドキュメンタリー映画を撮っている。常に「撮影している者の主観」が混じっているというのだ。まあその通りである。「どう編集するか」で、「報じる内容」はいかようにでも変えられるのだ。
結局「事実」なんて、その程度のものでしかないのである。
そして、そういう隙間を衝くようにして、「『俺の主観』こそが事実なんだ」とでも言わんばかりの誹謗中傷が山程飛んでくる。ホント、「やってられるか」って感じの減じるが描かれる作品である。
さて本作は、「砂田の物語」と「沙織里の物語」がメインなのだが、それ以外の場所でも様々な「描写」があり、色んな問いを投げかけてくる。「俺が◯◯に誘わなかったら」と口にする人物の後悔や、沙織里が食いついた「気持ちは分かりますが」という警察官の言葉、あるいは「◯◯が頭に浮かびませんか?」という場にそぐわないカメラマンの言葉(しかしとてもリアルだとも感じる)などなど、印象的な場面は多い。1つの失踪事件の背後で起こり得る様々な物語が、沙織里や砂田から遠いところに立ったさざ波みたいなものも含めて描かれており、「テレビで僅か数分報じられるニュース」のその背景を想像させられるストーリーだった。
こんな「嫌な世界」で、僕らは生きているのである。
というわけで、石原さとみの演技の凄まじさに圧倒され、細部に渡る「不幸に見舞われた者とその周囲の状況」の描写に驚かされる作品だった。
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