【映画】「若き見知らぬ者たち」感想・レビュー・解説
いやー、ホントに、最初から最後まで最低だった。「映画が」とかではない。「描かれている現実が」である。
酷かった。
もしかしたら本作は、「良い話」と受け取られる可能性もあるかもしれない。主人公の風間彩人は、両親の念願だった店の借金を返し、さらに、「前頭側頭葉変性症」という、人格変化や行動障害を伴う病気になった母親の看病をしている。いや、それは「看病」と言えるようなものではない。食べ物を撒き散らし、止めようとすると暴れ、意思の疎通がかなり困難であり、彩人だけではなく、彩人の恋人の日向、彩人の弟の壮平も疲弊している。
しかし彩人は、「ヘルパーを呼ぶ」「施設に入れる」などの選択肢を強硬に拒絶する。どう考えても日常が成立していないにも拘らずである。日向も壮平も、彩人のその強い想いをある程度は理解しているようだ。そのため、「皆で疲弊する」みたいな生活が長いこと続いている。
彩人は、両親が残した店を継ぎ、毎晩酔客を相手にしている。日向は看護師として、夜勤の続く日々を過ごす。そして壮平は、タイトル戦を間近に控える総合格闘家であり、今はまさに減量の真っ最中である。
そんな、ギリギリのバランスで成り立っていた生活が、ついに崩れるタイミングが訪れる。日向に夜勤が続き、さらに、壮平は最後の追い込みのためにコーチの家にしばらく泊まり込みが決まったのだ。つまり、母親の面倒を看るのは彩人しかいないのである。
そしてそのタイミングで、学生時代からの友人・大和の結婚を祝う集まりが開かれることが決まった。夜の店を継いだ彩人は、いつもよりも早く店仕舞いをし、親友のお祝いに駆けつける……。
はずだった。
母親の扱いは、本当に大変だ。例えば本作には、彩人がスーパーの事務所で店長にお金を渡しているシーンが描かれる。初め、この描写の意味が分からなかった。「お金がなくて、毎月ツケで食料品を買っているのか」ととりあえず思っていたぐらいだ。
でも全然違った。実はこのお金は、「母親がスーパーで万引きしてしまう分を、あらかじめ支払っておく」という意味合いのお金なのである。スーパー側の協力あっての対応だが、やはりそれほどこの町では、彩人の大変さが伝わっているということなのだと思う。
さて、このシーンからはもう1つ判断できることがある。それは、「彩人が、母親の行動を無理に止めようとしない」ということだ。それが「前頭側頭葉変性症」の患者への正しい対応なのか、あるいは、彩人が母親に対する親愛の情からそのような対応にしているのか、それはよく分からない。ただ、彩人だけではなく、日向も壮平も同じような対応を取っているので、患者に対する正しい対応なのかもしれない。
まあどちらにしても、母親への対応はとにかく大変すぎる。彩人は「ほとんど表情がない」みたいな佇まいでずっと生きている。もう「表情を作る」みたいなことに使える労力など残っていないのだろう。
そういう、絶望的な状況が、最初から最後までずっと描かれていく。楽しい映画ではないし、救いもない。
そして僕は、そんな物語が描き出す現実を「不正解」と受け取るべきだと思うのだ。本作を「良い物語」と受け取ってはいけない。彩人は確かに頑張っていたし、その努力は報われてほしいと思うが、しかし、やはり彩人は「間違っていた」と思う。というか、「これは不正解でなければならない」という感じだろうか。こんなのが「正解」であっていいはずがない。
じゃあ、何が「正解」なのだろうか? それが問題だ。僕には、映画で描かれる現実が「正解」になる道筋が見えない。本当に、イヤな世の中だなと思う。
『若き見知らぬ者たち』というタイトルも、なかなかに示唆的である。つまり、「彩人のような人間はどこにでもいる」という意味を含んでいるのだと思う。幸いなことに、こんなクソみたいな現実は、僕の周囲にはない。運が良い。本当に、これはシンプルに「運」の問題だ。今風に言うなら「親ガチャ」だ。親ガチャに外れたら、どうしようもない。選択の余地などないのである。
フィクションであれドキュメンタリーであれ、映画でこういう「悲惨な現実」に触れることは結構ある。そしてその度に、「彼らの人生には、『マシな未来』の選択肢がどこかに転がっていたのだろうか?」と感じてしまう。もし選択肢があって、それを掴み損ねたというのであれば、多少「自己責任」的な要素もあるかもしれない。しかし僕には、どうしてもそんな風には思えない。採り得るすべての選択肢が「クソみたいな未来」にしか繋がっていなかったんじゃないか。そんな風にしか思えないのである。
そんな、「絶望」という名前を付ける以外にないような日常を踏ん張って生きる者たちの物語であり、鬱屈とした雰囲気のまま最後まで進んでいく映画である。
「日常」という意味で言うと、彩人も日向も壮平も、「母親が室内をグチャグチャにした様子」を目にしても、驚きもしない。以前、『ニトラム』という映画を観たが、その際にも同じことを感じた。あまりにも酷い日常が、ずっとずっとずっと続いてきたために、目の前の光景に感情が動かなくなっている様を。そういう描写もまた、彼らの人生の「クソサイテーな感じ」をリアルに抉り出している感じがあった。
彩人を演じるのは磯村勇斗。僕が観ている限りでは、『正欲』『月』、そして本作『若き見知らぬ者たち』と、かなりの難役を演じているイメージだ。もちろん「易しい役」なんてのは存在しないだろうが、磯村勇斗は、「人間の形を保つのが困難」と感じてしまうような境遇に置かれた人物を、「こういう人物も存在し得るかもしれない」というリアルさを感じさせる形で演じている。
本作でも、日向も壮平も、そして観客も、「彩人もういいよ、無理するな」と言いたくなるような状況にいる。しかし、日向はそんなことを言わないし、壮平は一度彩人と対峙する場面が描かれるが、それも「普段から口酸っぱく言っている」のではなく、「ずっと言わずに抑えてきたことを放出した」という雰囲気であり、だから壮平もいつもはそんなことを言っていないことが分かる(いや、もう一回言ってる場面があったか)。
普通なら、「そんな状況は成り立たない」と感じるのではないだろうか。母親が病気を発症してからどれぐらいの年月が経過しているのか分からないが、恐らくかなりの時間が経過しているはずだし、普通なら「そんな長期間に渡って身近な人以外の手を借りずに対処し続ける」なんてことは無理だと思うのだ。
でも磯村勇斗は、「彩人はそれをやり続けてきた」と感じさせるような佇まいでスクリーンの中にいる。やはりそのことに驚かされる。凄いものだなと思う。
さて、「驚かされた」と言えば、最後の総合格闘技のシーンもちょっと凄かった。壮平が控室を出てリングインし試合を終えるまでをワンカットで撮っていたと思う。僕の体感では、5分以上はカットが割られなかったように思う。
そういう作品は時々あるが、本作では「ガチで格闘技をやっているように見える映像」だったので、どうやって撮っているのか本当に不思議だった。ある程度の動きの演出はあるだろうけど、それにしたって、あれだけガチで闘ってるように見える試合運びをするためには、ガチガチに動きを固めるやり方では無理だと思う。ある程度2人の演者に動きが任されている部分もあったのではないだろうか。
しかしそうだとすると、2人の動きをずっとカメラが追い続けられているのも凄いと思う。「ある程度の予測不可能性を含めておかないと試合がリアルに見えない」が、「予測不可能性を含めるとカメラワークが難しくなる」という背反する要素をどう成り立たせているのかよく分からない。しかも、「本当に格闘技の試合をしているぐらいのエネルギーの消費量」だろうから、「ミスがあったから最初から撮り直し」みたいなこともしにくいだろう。その点を踏まえると余計、「一体このシーンはどう撮ったんだろう?」と感じられた。
まあそんなわけで、とにかくひたすら絶望的なシーンが続く作品であり、「面白いから観て」という風に進めることはなかなか難しい。というか、どんな文言で人に勧めたらいいのかなかなか難しいのだが、超理想的なことを言うと、「本作を観て、『こんな不正解は最悪だ』と感じる人が増えれば社会が少し変わるかも」なんて風になるだろうか。いや、やはり理想的に過ぎるな、それは。