義父の少年時代と満漢全席の夢
忘れもしない事件が起こった。早朝に散歩に出かけた義理の父親と母親は、いつも通りに東戸塚駅近くのマンションの通りを抜けて、交差点に差し掛かった。横断歩道が、青になったので、父親の山野右吉が、渡り始めたと同時に、バイクが勢いよく飛んできた。
母親は、先に歩いたので、気付かないまま、帰宅した。早朝勤務の若者は、母親との二人暮らしで、アルバイト先に急いで行くために信号無視で走り抜けようとしていた。詳しい事情を知らないのは、山野家が、犯人と接触しようとしないためだった。決定的な嘘が発覚したのは、警察からの連絡で知った。信号機にカメラが設置されていたために、横断歩道を青信号で渡る姿が売っていた。事故も正直にカメラは捉えていた。
死人に口なしでは無いが、運転手の青年は、嘘を証言していた。早朝の十時ごろ、山野家の家族から逼迫した電話があった。「お父さんが交通事故に遭って、危篤なの」と言う内容に、謙也は優子とともに、指定された病院に飛んで行った。駆けつけると、集中治療室で横たわっている父親がいた。頭を強くうつているものの、外傷も少なく、無言ではあるが、命に別状無しのように見えた。
死に直面すると、家族は涙も出ない。ただ静かに告げられた事実を心に刻むだけだ。遺体は、一週間ほど、保管されて、葬式が行われた。ちょうど、息子が、最難関大学を受験する年だった。
正月に、港の見える丘のフレンチレストランで、受験を祝って食事を誘われた。義父の右吉は、謙也と優子にワインを振る舞い、上機嫌でこう言った。「大学に入ったら、こんな料理では済まないからね。もっともっとすごいのを食わせてあげる」と言い切った。
中卒の叩き上げで、電電公社の松田店の所長まで上り詰めた頭脳明晰な右吉は、奢ることもなく、謙虚にサラリーマンを謳歌していた。七十代まで関連会社で働いていたほど元気だった。
そんな右吉は、孫の受験が楽しみで仕方なかった。右吉の息子も東京大学に進学し、大手会社に就職していた。孫はその次に控えている感じで、学費まで払う勢いであった。葬式に孫も出席した。受験を二ヶ月後に控えて、心配した謙也であったが、既に準備の方は、万全なようで、親の謙也より息子の方は、落ち着いていた。まさに、弔い合戦のような感じだ。
右吉の出身地は、新潟の長岡の奥まった田舎だった。戦争中は、満州に行き、モールス信号の技術を生かした仕事をしていたそうだ。そう優子から口伝されているだけで真実は確かではないが、満州で終戦を迎えた仲間の10代の若者たち。日本は原子爆弾で全滅したと噂が流れ、シルクロードでも旅をするかと言う意見もあったが、もう一度日本を見ようとしたそうだ。その時にどうせなら、「満漢全席を食べてから死のう」と子供同士で決めて、食べたそうだ。金の工面や店の予約などどうしてできたかは知らないが、血気盛んな若者の知恵と勇気でやってのけた。
しかしながら、ソ連軍が満州まで侵略していたため、捕まり抑留された。ところが、彼らには、モーレス信号という技術があるので、重宝された。その結果、電線を張ったり、比較的楽な仕事をしたそうだ。今は、モーレス信号など見たことはないが、今でいうIT関連の仕事だ。そのため、4〜5年で帰国できたそうだ。
優子は、遺言のように言い残した、「こんなもんでは済まない食べ物」は、満漢全席だと推測した。優子が子供の頃、右吉は子供たちに満州時代の話をしていた。その中で、右吉が必ず言っていたのが満漢全席のフルコースの話だった。
高級宮廷料理である「満漢全席とは清朝の乾隆帝の時代から始まった満州族の料理と漢族の料理のうち、山東料理の中から選りすぐったメニューを取りそろえて宴席に出す宴会様式である」とWikipediaに書いてあった。
「一人五万円超の高級コース!?伝説の豪華宴会『満漢全席』」などという広告がのているくらい豪華な料理だ。多分、年金の3階建てと言われるくらい多額な収入のある右吉には、大した金額ではないが、謙也の生活では、とても支払えるような額ではない。息子に食べさせてやりたいし、自分でも食べたいが、無理な話だ。
そんな謙也は、息子が漫画家だから、いつかヒット作を出れば、夢は叶うと息子の財布を当てにしている。「ちゃっかり体質はそのままだ」と自分に笑っていまう謙也であった。ちなみに、謙也は一度も新潟に行ったことがない。優子と息子は行っているのに、不思議なものだ。
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