記録と多声――あるいは祈りについて
批評の復習(第三回) 須藤輝彦
拙文芸批評時評もどうにか第3回を迎えた。テロに戦争にと重たい話題が続いたので、今回は少しばかり肩の力を抜き、箸休め、というつもりで書いてみたい。
ということで、例によって遅ればせどころじゃない遅れっぷりながら、主要文芸誌の2022年12月号に掲載された評論系の文章を読んでみた。浮かびあがってきたのは、記録と多声というモチーフだ。
わかりやすいところからいけば、『文學界』の特集は「未来のドキュメンタリー」だった。そのなかでも個人的に、というかこの時評的に関心を引いたのは、夏目深雪の評論「ポリフォニーと政治――セルゲイ・ロズニツァの革新性」である。
終わりの見えないまま1年以上も続いてしてまったロシアのウクライナ侵攻以来、このふたつの国家にスポットを当てた映画が注目を集めている。夏目によれば、2014年から続くウクライナ紛争以降の状況を伝えることにもっとも成功したのがセルゲイ・ロズニツァ監督の『ドンバス』(2018)だ。ドキュメンタリーではシンプルな作りで「対立」を構成するロズニツァだが、フィクショナルな戦争映画であるにもかかわらず、『ドンバス』は「断章形式で物語を直線的に紡ぐことなく、「敵/味方」「虚構/現実」の境界線を曖昧にし」、「その奇怪な状況をそのまま観客に体感させた」。誰が敵で誰が味方かわからないという混沌。大島渚監督の「敗者は映像を持たない」という言葉は有名だが、このようなロズニツァの試みは、スマートフォンとSNS、そしてフェイクニュースの時代に入り、勝者だけでなく敗者も映像を撮影し、瞬時に、そして日常的に世界中に拡散させることができるようになって生まれた状況をリアリティの拠りどころとしている。
「ロズニツァは「物語を紡ぐ」ことによってイデオロギーが生まれてしまうことを何よりも嫌っているように見える」。そこでわかりやすい図式的対立の代わりに浮かびあがるのが、夏目に言わせれば「映像の即物性」だ。それは「巨大なイデオロギー国家であるロシアへの憎悪が産み出したもの」かもしれず、ここには「ポリフォニックでありながら政治的でもあるという矛盾した前人未踏の地」が広がっていると言える......のだが、個人的には『ドンバス』は、とにかく気の滅入る――まっとうに評価するエネルギーを失うくらい気の滅入る映画だった。ドキュメンタリー映画なら、ここまでダウナーになることはなかった気がする。そう、そこにはたしかに即物的とも呼べるような、剥き出しのなにかがある。強い意志のもとに削り出された、暴力的なほどのそれが......
特集「未来のドキュメンタリー」に収められたもうひとつの文章が、瀬尾夏美によるエッセー「置き忘れた声を何度でも訪ねて」だ。映像作家の小森はるかとともに監督し、2014年に公開された映像作品『波のした、土のうえ』を8年ぶりに再考するという内容である。それは次のように始まる。
瀬尾の文章はこのような、津波に攫われ傷ついた故郷が見せた風景の思いがけない「ほんとうのうつくしさ」が、復興工事にともなって失われてしまうという「第二の喪失」に、陸前高田の人々が感じた複雑な、「言葉にできない」戸惑いに寄り添って書かれている。
このなかに、記憶に残るエピソードがあった。『波のした、土のうえ』に登場し、陸前高田にまつわる思いを語った人のひとり、小料理屋のAさんの話である。『波のした、土のうえ』は、嵩上げ工事で埋められた中心市街地で暮らしていたAさんを含む3人に町跡を歩きながら話を聞き、瀬尾が一人称の語りに作りかえた文章を本人に確認してもらったあと、それぞれに語り手として朗読してもらい、これを録音した音声に合わせて小森が映像を編集する、というかたちでつくられた。繰り返しこの作品を鑑賞していたというAさんはしかし、ある上映会でのトークセッションで、作中で自分が朗読した台詞を訂正した。
「死んじゃった人はずるいよね」――読み上げられたこの言葉は、Aさんによれば彼女自身のものではない。「瀬尾さんが書いてくれたから読んだけど、わたし自身はこんなふうには思ってい」ないという。瀬尾は、亡くなったご両親について話してくれたときにAさんがぽろっとそうつぶやいたと記憶していた。「親子という親密な関係だからこそ溢れてくる言葉だと感じたし、大切な人を亡くしたAさんの悲しみが強く表れていると思い、テキストに入れ込んだ」。「でもそれが、Aさんを苦しめていた」ことを知り、瀬尾は「とにかく情けなく、ショックだった」。それでもAさんはこの作品のことが好きだと言ってくれ、この会からおよそ半年後、別の上映の場に再び登壇したさいには、この台詞は生き残った者たちへの労いだと思うようになった、と語ったという。
さて。そのままでも充分印象的なこの逸話に、ここでは敢えてひとつ、別の解釈を加えてみたい――問題の言葉が、じつはほんとうにAさん自身のものだったとしたらどうだろうか? そうすると、また違った風景が見えてくるのではないだろうか。
冒頭の引用部で、瀬尾は「そのときそう感じていたとしても言葉にはできず、時間が経ってからやっと語れることがある」と書いていた。だがその逆もある。Aさんに限らず、人はふとした瞬間に思ってもみなかった言葉を発し、また頭に浮かべる。そしてその言葉がどれほど核心をついたものであっても――あるいはそうだからこそ――自分とのあいだに了解できない違和があるとき、人は意識するにせよしないにせよそれを押し隠し、記憶から消し去ってしまう。身内の死や被災などのトラウマ的な記憶が関わる場合、なおさらだろう。自分の言葉が自分のものとは思えず、よそよそしく、いつのまにか文字通り他人の声で語られたものとなっていく。
瀬尾の文章の終わりのほうには、「ある作品は、誰かにとっての、あるいは時代時代の記録である。それと同時に、異なる立場にある人びとが同居するための汽水域を開く可能性を持つ」とも書かれていた。Aさんの「死んじゃった人はずるいよね」という「台詞」は、宛先を間違え、忘れた頃に自宅に返送された郵便物のように、いつのまにか他声となって、思いがけず自分自身に「汽水域」を開いたのではないだろうか。
記録と多声。
そのような観点から12月号の個人的MVA(Most Valuable Article)を選ぶとしたら、『すばる』に載っていた古川日出男の「『現代』が文学的ターニング・ポイントとなるための要件」になる。カリフォルニア大学ロサンゼルス校にて開催されたアメリカ日本文学会(AJLS)の年次大会で、古川が行った基調講演を元とした文章だ。
タイトルのとおり「ターニング・ポイント」がそのテーマであり、じっさい講演はパンデミックによって起きた〈言葉〉の貧困化――とりわけマスクのせいで「言葉が持っている身振り、表情」が消え、「話し言葉が極端に貧しくなっ」たこと――についての話題で始まっているのだが、とにかく引き込まれたのは『平家物語』についての箇所だった。『世界文学全集』に引き続き池澤夏樹が個人編集した『日本文学全集』の一冊として古川日出男が現代語訳し、それをもとに作られたアニメも好評を博した、あの『平家物語』である。
ところで福島県出身の古川個人にとって、「転換点」とは「だいたい地震」であるらしい。しかもそれは2011年3月11日の東日本大震災だけではない。彼にとって「本当に大きな転換となる地震はふたつ」あり、残るひとつは837年前の地震だ。1185年7月9日、およそマグニチュード7.4の揺れが京都を襲った。エネルギーとしては東日本大震災よりも小さいわけだが、木造建築ばかりだった当時の被害ははかり知れず、犠牲者の数は東日本のそれをこえるだろうと古川は言う。そしてこの京都の地震、じつは『平家物語』のなかにも大きなものとして描かれており、それをどう訳したのかが講演の実質的なキモともなっている。
その点、講演でも触れられているロイヤル・タイラーの英語訳は非常に興味深い試みだ。『平家物語』が琵琶法師の語りによるものだということは受験文学史などでも教えられるところだが、タイラーの翻訳はまさしくオペラのように、節のついた18世紀の平家物語「スコア」に導かれつつ、原文に“speech”(白声)、“recitative”(口説)、“song”(歌)と3つの語りのモードを与え、彼自身の言葉によれば「散文と韻文のあいだ、読むこととパフォーマンスのあいだ」にある語りのあり方を表現している(注1)。平曲については、「昔より、声を忘れて曲を知れ」と言われたり、いやテクストさえきちんと読みこめば「声はおのずからひとり出でて、よく聞こゆるものなり」と言われたりしてきた(注2)。しかし琵琶法師の「語り」はもちろん、「声」と「曲」、どちらか一方だけで成立するものではない。それは文字通り、聴衆を前にした「弾き語り」、コール&レスポンスのなかで生まれるライブパフォーマンスだったのだから。
翻訳といえば、『群像』12月号には毬矢まりえと森山恵の新連載が載っていた。『源氏物語』を世界文学として、アーサー・ウェイリーの英語訳から日本語へと〈戻し訳〉した姉妹による「レディ・ムラサキのティーパーティー」である。第1回はウェイリーの非凡な語学の才能および驚嘆すべきポリグロットぶりについて書かれており、その語り口も相まってエキサイティングだったが、ある作品のなかに複数の語りのモードが同居していることとおなじく、自分のなかにいくつもの言語を携えていることも、広い意味での多声性だと言えるだろう。多言語話者においては、複数の言語を介してさまざまな「声」が交差する。
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