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夏はあっという間に過ぎ去った

文芸批評時評・9月 中沢忠之

 「「事件」は文芸誌で起きるんじゃないSNSで起きる」という名言をぶちあげた栗原裕一郎が、みずからSNSで「事件」を巻き起こしている。
 トランスジェンダー差別をめぐってである。結論からいえば、栗原の論点は2つある。まず、昨今のトランス活動家の差別批判に、行き過ぎた暴力があると批判している点(①)。さらに、その暴力を文壇に持ち込んだとして文芸誌『文藝』および水上文を批判している点(②)である。トランス差別批判一般の話と個別文壇内の話とまとめられる。前者の①に関しては、トランス差別を助長するとされる論文や著作物――たとえば千田有紀「「女」の境界線を引きなおす」やシーラ・ジェフリーズ『美とミソジニー』――に対して「キャンセル」的な活動――雑誌掲載への批判、または著作物を売る書店への批判――を行う事例があげられよう。また、同じくトランス差別を助長すると評価された人物をリスト化して公開する事例もある。栗原によれば、トランス活動家は持論の「トランス女性は女性である」を絶対化し、それに対する批判者との議論を絶対に受け付けないという特徴があるらしく、その特徴にこそ行き過ぎた暴力があるとみているようである。SNS――Twitterだが――における栗原の議論周辺をながめていると、栗原のみならずこれらに批判的な立場の人は一定程度いる。
 栗原がTwitterでこのような批判を始めたのにはきっかけがある。それが後者②の個別文壇内の事情だ。具体的には、『文藝』に載った水上文の時評(2022・春)である。水上はその時評で、笙野頼子の作品をトランス差別として強く批判した。じっさい笙野は、このところ、トランス女性に対して女性のスペースが奪われることに対する批判を展開しはじめていた。笙野にしてみれば女性としての素直な気持ちに従ったものにすぎないだろうが、トランス女性の側から見たら偏見を助長するものであり、差別的であろう。
 その笙野の作品を集めた『発禁小説集』(2022・5)が先頃刊行されたが、収められた作品の多くは文芸誌『群像』に初出掲載されたものだった。笙野にしてみれば『群像』の講談社から刊行したかったのにもかかわらず(じっさい『発禁小説集』の中でもその希望が表明されている)、かなわなかった。結果的に、長野の地方出版社(鳥影社)から刊行されることになった。ちなみに自分の実家はいま長野にあるが、コロナ禍でなかなか帰れない。講談社が笙野の作品を自社の文芸誌に載せながら、単行本として刊行しなかった理由は明らかにされていない。しかし、強い批判がないのなら、ヒヨったと見なされても仕方ないだろう。事なかれ主義というやつだ。『群像』サイドの説明がいっさいなく、笙野からの説明にたよるほかないが、『群像』掲載前から積極的な議論があったようには見えない。トランスジェンダーをめぐる表現に関して、言論媒体としてゆずれない線があるのなら、掲載前から話をしておいた方がよかったろう。むろんそのような振る舞いは言論の抑圧めいていてなるべく避けたいところかもしれない。もしくは長年付き合いのある作家に遠慮したとも考えられる。とはいえ、結果的にこのような事なかれ主義が、差別批判に暴力性があると評価される下地を作るのであり、じっさいそんなことは過去にいくらでもある。
 とりわけ有名なのは、絵本『ちびくろサンボ』の一斉絶版問題(1988)であろう。『ちびくろサンボ』は当時の子供なら知らない者がいないくらいよく知られた絵本であり、岩波書店をはじめ複数の出版社から発売されていた。批評なんて知らない無垢な頃の私も当然読んでいた。確かテレビの映像でも見た記憶がある。しかし、社会に出回る黒人の表現――偏見に基づいた黒人表象――をめぐって批判が出回る中で当該絵本も批判の対象となり、出版社は抗議を受けて発売を取り止めるにいたった。Wikipediaの「ちびくろサンボ」の事項などに詳細があるので、知らない方は参照してほしい。いずれにせよ、非当事者による差別批判など論点は複数あったが、絶版までの経緯にさしたる議論があったような形跡は見られない。事なかれ主義的自主規制。
 ちょうど当時は、様々な表現をめぐって批判的な検証が行われた時期でもあった。差別表現もそうだが、性表現もである。性表現に関しては、「有害図書」――青少年の保護という名目でのちに「不健全図書」とされる――のマンガが、市民団体やメディアから強く批判された。青少年が手に取るマンガ誌に性表現が積極的に登場する時期であった。中高の頃の私も2、3駅をチャリですっ飛ばした先にある書店でこっそり立ち読みしたことを覚えている。1970年代から80年代はメディア環境が活字中心から画像・映像へと移行し、表現の受け手が若年層を取り込む時期に当たるため、表現の社会的な調整が方々で行われたわけだ。一方でマイノリティに対する目配せも積極的に行われ、従来問題視されなかった表現が差別だとして批判的に取り上げられた。この傾向はときに差別批判を「言葉狩り」とまで揶揄する向きを生み出し、文学の世界では筒井康隆「無人警察」の角川教科書掲載をめぐる、てんかん差別論争(1993)をもたらした。日本てんかん協会が、「てんかん」の偏見を助長するとして教科書からの削除要求などをしたことをはじめ、言論媒体の事なかれ主義を含む現状に対して筒井は「あたしゃ、キれました。プッツンします」と「断筆宣言」をしてみせることになる。「差別表現への糾弾がますます過激になる今の社会の風潮は、小説の自由にとって極めて不都合になってきた。現在までに何らかの差別糾弾を受けた作家が五十人にも及ぶという状態は極めて異常であると言える」(「断筆宣言」1993・10)。
 さて、私は、このような過去を掘り起こして、当時の「言葉狩り」が、昨今揶揄的に用いられがちな「キャンセル」と類似していることを指摘し、現状の差別批判の行き過ぎに警告をしたいのでは当然ない。差別表現をめぐる議論が構造的なものであることを明確にしておきたいのである。差別表現の批判は、多様性確保のために当然なされるべきものだが、それ自体多様性(特定の表現)を否定するものである以上、「行き過ぎ」「暴力」「表現の自由の侵害」といった再批判を構造的にもたらすほかない。なので、栗原が水上の(笙野に対する)差別批判に「覚悟」だの「逡巡」だのを期待する精神論が私にはあまり理解できない。ましてそのような批判は、批評全般にブーメランのように戻ってくるだろう。「オマエの批評には全て覚悟があるのか?」。いずれにせよ、差別批判には(現状を変えるための)運動的な側面があるので、言論媒体の出版社や書店に対する批判(「キャンセル」的な提案も含む)に関して、場合によっては有用であり、一様に批判されるものではないと私は考えている。言い方を変えれば、多様性を認める民主的な熟議では通用しない側面も許容せざるをえないということだ。再批判(差別批判の批判)の側にも同じことが言える。問題は事なかれ主義の方だろう。
 過去語りの脱線が長くなってしまった。私はかれこれ15年間「性表現と差別表現の戦後史」――要は表現の社会的政治的側面の歴史的検討と現在の効用――の授業をしており、毎回のライブがスリリングでヤリガイがあるのだが(たとえば教室内にネトウヨ的な学生がいたらとか妄想しながら喋るのはドキドキしませんか?)、今年は370名の学生でオンデマンド配信になってしまい、いろいろな意味で死んでいる。ところでこの授業は性表現と差別表現の2つのパートで構成されているのだが、授業を始めた15年前は性表現を喋っている時によりリアリティーを感じるというか時事ネタなど豊富だったが、しだいに差別表現の方が時事ネタが増え、教室内も盛り上がる傾向がある。
 話を戻せば、笙野の作品を批判した水上時評について、栗原は当初評価していた。『週刊新潮』の時評においてである(「対話ボットが「わたしは仏陀」と覚醒する日」https://www.bookbang.jp/review/article/726134)。栗原は常日頃、いまや作品や作家を褒める書評ばかりになった文学の世界を批判しており、そんな世界においてベテラン作家を批判したその「覚悟」を買ったのだろう。しかし状況は一転する。文壇から「パージ」されつつあるという笙野を援護し、代わって水上を批判する(「「三冠小説家」が「文壇」からパージされつつある」https://www.bookbang.jp/review/article/736267)。Twitterでの栗原発言を参照しながら解釈すると、水上の議論はトランス活動家(トランス差別批判)の暴力的なロジックを踏襲したものにすぎず、そこには「覚悟」がないということなのだろう。最初に提示した2つの論点でいえば、最初の栗原時評では②の文壇内政治力学において水上時評を評価したものの、①のトランス差別批判の力学を発見‐導入した結果、否定的な評価になったということになる。①についての私の一般的な考えはすでに上記した通りである。個別の感想はある。たとえば、トランス差別を助長すると評価された人物をリスト化して公開する事例(現在は削除されたようである)は嗜虐的な攻撃性が感じられた。差別批判に対する嫌気を喚起する点で運動的にもマイナスでしかないのではないか。そういう意味では、私も栗原と同様に、行き過ぎを非難することもあるということになるが(程度の問題にすぎないとも言える)、栗原は「トランス活動家のロジックは暴力的」を繰り返しがちで、どの事例も文脈抜きで並べ立てるリスト化の嗜虐性と同じものを感じる。水上時評が問題と感じるなら笙野の言説と並べて検討した方がよいのではないか。
 笙野の発想については、純文学論争(2000前後)からの継続案件ともいえる側面があるため、純文学論争を論じた(「純文学再設定」2016)私にとって別途議論したい問題である。笙野の発想は女性としての素朴な直感だけではなく、作家としての継続的な思考が導き出した一帰結でもあるわけだ。純文学論争では、純文学をアウトサイド(サブカルなど)から批判した男性批評家に対して、純文学を多様性を確保する場所として、しばしば女性視点から擁護したのが笙野だった。その場所にいられなくなる作家としての危機感を、トランス女性によって女性が消されることの危機感に重ねているのが最近の笙野である。差別論からみると、この発想にはかなりの無理があると思われるが、笙野には経済的な弱者こそが割りを食うという視点があり、割りきれない余剰がそこにはある。
 ②については、水上と『文藝』編集サイドを一緒にして「共謀」と見る栗原の立場が理解できない。むろん編集によって重用・活用される作家や批評家はいつの時代もいるけれど、両者にはけっきょくのところ非対称的な関係しかない――作家や批評家がまとう文化的なオーラがなくなったいまならなおそら――ことくらい、物書きなら誰もが知っていることではなかったか。あの笙野ですら一発退場(?)なのである。他方、栗原は、笙野が反論掲載を求めてその場を与えなかった『文藝』を批判している。私もこれは掲載した方がよいと考えるが、彼らなりの理由があって拒否をすることもありうるわけで(私が編集する『文学+』Web版でも論争的な文章を載せるが、というかウェルカムだが、差別や誹謗があると見なしたものは載せないし、書き手にそう言ったこともある)、それならその経緯をどこかに示してほしいとは思うが、どうか。これは『発禁小説集』の作品を出せなかった『群像』にも言ってみたいことである。長い時間をかけて、あなた方が育て、恩恵を受けてきた作家ではないか。
 7月の下旬から栗原によって展開されたトランス差別批判に対する再批判は、Twitterで様々な議論を呼び起こした。その中でも私が「なるほど」と思ったやり取りを紹介して、この話題の結びにしたい。荒木優太が「スポーツ大会の女性用競技にトランスジェンダーを自認する人が出て優勝しちゃう問題」という問いを立てたのを受けて、倉数茂が応答したツイートである。「スポーツに全く関心がないので、スポーツ競技にトランスジェンダーが出た場合どうなるのかという問題設定には、どうせそのうち半分サイボーグとかデザイナーズベイビーとか出てくるんで、小せえ小せえと思ってしまう」(8月2日)。トランスジェンダー問題は、場の共有がひとつのトピックなので、トイレや入浴場、身体といった「場所」が議論になることが多い。倉数はそこに小さな「時間」を導入してみせる。「どうせそのうち」と。当事者として表現しながら、そこから少し身を翻してみること。この二重の闘いこそ文学が得意とするものではなかったか(「二重の闘い」とは 絓秀実が「無人警察」論争において用いた言葉だが、それとは意味を変えた)。そういえば、サイボーグやデザイナーズベイビーといった半SF的な要素は笙野の小説にこそふさわしいものだが(作家自身論争当時の予言的見通しが悪い形で実現してしまった旨を記述しているが)、『発禁小説集』では私小説成分がその場を圧倒的に占めている。気になるところではある。むろん、直接的な当事者ではない私がこのようにアンパイア的なスタンスから発言することほど、当事者にとって不快なこともないだろうが。

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