審美眼はふらふらさまよう
文芸批評時評・5月 中沢忠之
文學界新人賞を受賞した年森瑛「N/A」の評価をSNSなどで見ていると、全体的に絶賛だが、批判的な評価もある。といっても、荒木優太https://twitter.com/arishima_takeo/status/1519984097149390849と栗原裕一郎https://twitter.com/y_kurihara/status/1519348918253125632くらいだが。当該作は、選考委員の選評にもある通り性的マイノリティを素材にしたものだが、昨今こういった当事者性的なテーマが目に付きやすいだけに材の取り方が安易ではないかという批判である。この批判は当然評価した側にも向けられるものとなる。当事者の「私」の葛藤がうまく描けているかどうかに議論が終始すれば、そもそもそのテーマなりコンセプトなりに対する批判が抜け落ちることになる。文芸誌を中心とした狭い共同体にあっては特にその傾向は顕著になるだろう。文芸誌が用意したテーマやコンセプトが「世界」だと思い込む罠がある。むろん当事者性の議論はもう流行りではないという評価はそれはそれで浅はかだが、テーマセットできる批評家が絶滅しつつある今日において、特定の共同体に依存しない、ネタ売り込み系売文業的な精神は貴重であると思った。また、傾向と対策を徹底した文学賞新人予備軍に対しては、数をこなした時評家の帰納的な審美眼こそ必要なのではないかとも。もちろん単に数をこなせばよいというものでもないだろう。選考委員の中で唯一東浩紀が文学の外(半外?)の人で、その彼が受賞作に「作品世界があまりに狭く」とケチを付けている。文学の中にいたら気付きづらい異様さ(2010年代の純文学を語れる長篇はどれほどあるか)を触知したのではないか。作品に寄り添いすぎると、自らの審美眼の歪みに気が付かないこともある。ちなみに、私の感想で恐縮だが、「N/A」はその青春小説的な普遍的枠組みにおいて好みである。荒木の今月の文芸時評がいう通り文学的修辞が気にはなるが、それも青春小説として読むとむしろ相応なスパイスになっていると感じられた。ただ、最後まで「血」で押し通す心意気はよかったと思うけれど、あともう一発二発「血」を吹き飛ばせないところが、(傾向と対策の?)収まりのよさに負けてしまっているのではないだろうか。
『中央公論』(5月)と『情況』(4月)の最新号が「キャンセルカルチャー」を特集していて話題である。『中央公論』の前号は「教養」を特集していた。「教養の役割、教養のゆくえ」と題するもので、いまさら「教養」を無前提で評価する論者はさすがにいない。「キャンセルカルチャー」にせよ、「教養」批判にせよ、批評の生きづらさを象徴するようなテーマではある。「教養」特集には、速水健朗の「なぜ批評は嫌われるのか――「一億総評論家」の先に生じた事態とは」がある。速水は、非当事者が勝手に「他者の置かれた状況」を「解釈」する批評の暴力性が嫌われつつあるとし、そんな批評嫌いの背景には「経験」の重要視があるとする。「他者の置かれた状況は、あくまで他者の「経験」として受け止めるべきこと、つまり文化多様性」が重んじられているのだと。そして「経験」でつながる「共感」と、「解釈」で水を差す「批評」の対立(というか前者の優位)を手際よく整理してみせる。
速水の議論は「キャンセルカルチャー」の特集にあっても違和感のない程度にそれらに関する文脈(「当事者」など)が入り込んでいることに注意したい。「教養」特集には、TikTokで書評を行うけんごも名を連ねており、そこでも、フォロワー(もしくは作品)との直接的な出会いが重んじられている。教養強めな文学史を参照してみると、「経験」と「解釈」の対立は、坪内逍遥と森鷗外らが参加した没理想論争以来くり返されているテーマではある。いつの時代も批評は嫌われてきたということもできるが、普遍的な審美眼をあえて求めてみせるという鷗外の仕草には、「経験」「共感」「文化多様性」を重んじる現代の文学も見習うべきところがあるかもしれない。
「私小説」を特集した『ことばと』(vol.5)の江南亜美子「更新される、「私小説」」は、当事者性の観点から私小説なる文学ジャンルを再考するものである。この10年ほど大きな展開を見せてきた当事者性ライティング(当事者研究など)には、従来の私小説を受け継ぐ要素があるという、誰もがなんとなくそう思いながら明確に論じられてこなかった話題で、今後何度も参照されるべき評論であろう。確かに、生活綴方など「「素人」の文壇侵入」(大宅壮一)は文学ジャンルを更新したり賦活したりする要因であり、当事者研究と文学の接合・囲い込み・離反などは注目しておきたい話題である。それにしても、私たちの審美眼には当事者性というフィルターがいかにべったりと貼り付いていることか。それは先ほどの速水の評論にも見られたものであった。同誌に掲載された大滝瓶太の「幽体離脱する「私」――「拡張された私小説」としての滝口悠生」は、滝口作品の「私」性を技術の面から論じるものである。大滝いわく「文芸批評では小説という表現を通して過去や現在、未来の社会を射程とした考察が行われるのが一般的だろう。小説が社会に身をおく作家によって書かれた以上、社会への関連が大なり小なり避けがたく発生するため、それを断ち切ることはおそらくできない。しかし、それでもそこから距離をおき、技巧への言及にこだわった」とあり、当事者性などの「社会」に過度に依存する文学を相対化するという思いが大滝にはある(江南の評論も最後の『ほんのこども』評が私小説≒当事者性の文脈を相対化する技術論になっている)。私も共有したいところがあるが、ただ技術は歴史と不可分であるという思いもある。技術は時代や文脈によって全く異なる評価や使われ方がされる。原子力がよい例だろう。信長と政宗は同じようなことをしたが、時代遅れの政宗は田舎者だったという、いまから見れば地方差別的な部分もなくはない安吾の言があるが、滝口の技術を分析するなら、やはりゼロ年代に同じような発想から技術を練り上げた作家(柴崎友香や磯崎憲一郎など)との関連も見てみたいと思った。
『文學界』(5月)の「幻想の短歌」特集はとても充実していて勉強になった。2本の座談会にくわえ、アンソロジーや複数の評論はいずれも読みごたえがあり、おそらくそれほど関係者が多くはないだろう文芸月刊誌がよくもこんな濃い内容をやり遂げるなと感心してしまった。『群像』と『文藝』のリニューアル以降地味で目立たないものの、『文學界』の特集企画など雑誌作りは参考になることがある。昨年10月の『現代詩手帖』の短詩特集(「定型と/の自由 短詩型の現在」)を読んで、短詩・定型詩は推しや共感が一つのトレンドになっているということはそれとなく知っていたが、『文學界』の特集でもそれらに関する言及(推し短歌の作家のエッセイを含む)があった。特集の中で特に面白かったのは、大森静佳×川野芽生×平岡直子の座談会「幻想はあらがう」である。短歌の幻想といっても、参加者それぞれの立場から複数の解釈がなされている。印象に残ったのは、座談会のタイトルにもなっている「抵抗としての幻想」というアプローチである。座談会の内容は、形式面・技術面の話から始まり、後半しだいに社会や政治が話題に導入されて進む。「幻想短歌」というと、男性の幻想性は「レトリックの背後に思想がある」として評価されるのに、女性歌人は「幻想という箱」に囲い込まれ「男性作家らによって詩性を与えてくれるミューズとして扱われてしまう」のだという。これは女性の抵抗であろう。また、塚本邦雄らの前衛短歌運動については、社会・政治の中の抵抗としての幻想性において高く評価をしている。「戦前戦中はみんなが一斉に同じ幻想におぼれて、共同幻想に動かされてしまった。その苦い体験を反省してそこから抜け出すためには自分一人にしか見えてないものを見る必要があったんじゃないか」と。ところで、短詩型の対立で有名なものの一つに、高浜虚子の「写生趣味と空想趣味」(明治37年)がある。ここで虚子は、師の正岡子規を「写生趣味」の側に置き、自分を「空想趣味」の側に置いて、「写生趣味」を批判したのだった。この対立を4象限に配分すると、こんな感じになる。
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