尾崎翠のエドガー・アラン・ポー翻訳#6
尾崎翠らしさが感じられる翻訳部分の紹介&解説
前回やっとのことで、短編小説「モレラ」の翻訳(尾崎翠の文体に寄せたver)の完成にこぎつけました。
こちらの記事で全文を発表しております!↓↓
それでは、いよいよ『尾崎翠全集』を解禁し、翠が翻訳した「モレラ」と、自分の翻訳と比べてみます。
・・・
結果!
翻訳ということもあり、尾崎翠ワールド全開という感じはしませんでした!正直なところ、自分が頑張って尾崎翠に寄せて翻訳した部分が、意外とあっさりとした逐語訳的な文章になっていて拍子抜けする部分もあります。
しかし一方で、所々細かい部分の表現では尾崎翠らしさがにじみ出ているので、それを紹介していきます。
原書の英文と尾崎翠の翻訳、創元推理文庫収録の河野一郎さんの翻訳、自分の翻訳を並べて比較してみました。
※尾崎翠翻訳の本文・頁数は、稲垣真美編『尾崎翠全集』(草樹社、1979年
12月)、河野一郎さん翻訳の本文は、阿部知二他訳『ポオ小説全集Ⅰ』(創元社、1974年6月)より引用
河野一郎訳:
私は何時間も何時間も、モレラのかたわらを去らず、彼女の声の楽の音に聞きほれるのであった。―だがそのうち、妙なる旋律は恐怖にふちどられ、私の魂には影が落ちこみ、顔も蒼ざめ、そのあまりにもこの世ならぬ音色に、心ひそかにおののいた。
自分訳:
それから何時間も私は彼女のそばに居るようになり、彼女のぞくぞくするような声の音楽にひたった。するとついにその旋律は恐怖とともに鳴りだして、私の魂に影のように落ちてきた。私は青ざめ、それらのあまりにもこの世のものとは思われない音色に心の内で震えた。
【解説】
モレラの声を音楽の旋律に例えて、さらにその「旋律が魂の上に影のように落ちてくる」という部分。
原文がそもそも聴覚と視覚が混ざったような文学的な表現ですが、河野さんの訳もなかなか美文調で盛り上がりがあります。
尾崎翠訳では「ひとつの影法師」という表現になっています。「影」よりも「影法師」のほうが「その人の分身」のようなイメージが出て、曖昧なもやもやとした影というよりは、「モレラの」影が心に侵食してくるニュアンスが出ているように思います。「影法師」から童話的なかわいい雰囲気と不気味さが同時に出ている点が特徴的です。
河野一郎訳:
さながら悪鬼のごときこころをもって、彼女の静かな生命がたそがれ時のように傾くにつれ、次第次第に長くなってゆくかに思われる一日一日を、一時間一時間を、そして苦しい一刻一刻を、呪ったのであった。
自分訳:
彼女の穏やかな人生が日暮れの影のように終わりに向かうにつれて、どんどん引延されていくように思われる一日一日、一時間一時間、その苦しい瞬間を悪魔のような心で呪ったのである。
【解説】
1⃣では「影法師」と訳されていたshadow。辞書を引くと、一義的には「影」、転じて「亡霊」の意味もあるようです。尾崎翠訳の一見特殊に見える「薄暮の幽霊のやうに」ですが、単語の意味に添って訳したもののようです。
しかし、declined(「傾斜する」「(夕日が)傾く」「(一日、一年などが)終わりに近づく」の意)を「ひしゃげて」と訳したのは独特というしかありません。
「彼女の穏やかな生活なんか…ひしやげてしまえば好いのだ」という言い方も、主人公によるモレラへの嫌悪感が分かりやすく言い表されているように感じます。ただ、「ひしゃげる」というやわらかい言葉から、ただ強烈な嫌悪というよりはなぜか諧謔(おかしみ、ユーモア)を感じて、それが尾崎翠らしく感じられます。
河野一郎訳:
だが、風も空にひっそりと休らうとある秋の夕ぐれ、モレラは私を枕辺に呼んだ。
自分訳:
しかし、風が空にじっと止んでいる、ある秋めいた午後、モレラは私を枕元に呼んだ。
【解説】
すでに尾崎翠関連の研究で言及されていることですが、尾崎翠の作品は匂いの表現が特徴的です。
例えば、短編「こおろぎ嬢」で、仮眠から目覚めたこおろぎ嬢が図書館へ向かう場面があります。
この後「丁度桐の花の草臥れているほどに草臥れていた」外套を着て図書館に向かう。その途中の原っぱで桐の花の匂いに包まれる。
こういった表現を踏まえて「モレラ」に戻って考えると、「風が漂う」=「匂いが漂う」としたのも、尾崎翠ならではの感覚によるものと思います。
そもそも、the winds lay still in Heavenを訳すとき、風が吹いているのか吹いていないのか迷ってしまい、「風が空にじっと止んでいる」というよく分からない日本語になってしまいました。
河野さん訳を見ると、「風も空にひっそりと休らう」とされています。やはりここは、風がものすごく吹いているというより空気的に流れているイメージだと思います。
河野一郎訳:
しかしてその類似の影は、一刻一刻と濃さを増し、より完全に、よりまざまざと、より複雑に、より一層怖ろしい様相を呈して行った。
自分訳:
そして漸漸これらのいわば類似点の影は色濃くなり、さらに完全なものとなり、さらに判然と、さらに当惑させるものとなり、私にとってその類似点の数々はさらなる恐怖となった。
【解説】
娘が異常な早さでモレラとそっくりに成長していくことを恐れを抱きながら見守る主人公。原文の「these shadows,as it were,of similitude」を、「あれのおもかげ」と訳しています。河野さんは「類似の影」、自分は「類似点の影」とそのまま訳しましたが、言われてみれば「おもかげ」の一言で言い表せます。しかも、「おもかげ」といえば、短編「歩行」の作中に出てくる詩「おもかげを忘れかねつつ…」が想起され、尾崎翠の用語と言ってもいい言葉でした…
自分の訳では、「漸漸」「判然と」などの漢字遣いの模倣を盛り込むことに気を取られてしまいましたが、それも空回りに終わり、「these shadows,as it were,of similitude」=「おもかげ」と思いつかなかったのがなんだか悔しいです!
河野一郎訳:
事実、その短い一生の間に、娘はひっそりとかくまわれた狭い環境から垣間見られるものを除けば、外の世界から何の印象も受けていなかった。
自分訳:
実際に、娘の短い人生の後ろのほうでは、彼女の生活の限られた範囲によって提供される事柄を除いては、外の世界から何も影響を受けなかった。
【解説】
impressionsを河野さんは「印象」、自分は「影響」と辞書通りに訳していますが、尾崎翠は「おもひで」と訳しています。
尾崎翠で「思い出」といえば、短編「花束」が想起されます。「花束」では冒頭で「昔は好かったなあ、という追憶の溜息」について語り、若いときの一瞬の淡い体験を語った後、次のように締めくくっています。
尾崎翠には「花束」以外にも、主人公が追憶を語るという形の作品が多いです。人生は追憶すべき「思い出」が加わって流れていくという考えが根本にあるように思います。(ただし、その体験によって新たな行動を起こすようなことはしないのも特徴です)
「モレラ」に戻ると、尾崎翠は「外の世界に触れることで得る、後に心に思い浮かべるべき出来事が一つもなかった」という意味で、「娘の短い生涯は、他の世界からのおもひでひとつなくて終つた」としていると考えられます。
最後に
以上、尾崎翠らしさが感じられる翻訳部分の紹介&解説でした。
紹介した5場面中の3つに「shadow」という単語が入っています。尾崎翠っぽいと思った部分を抜粋した結果、偶然そうなったのは面白いです。「shadow/影」は、エドガー・アラン・ポーと尾崎翠に共通するキーワードといえそうです。すでにポーや尾崎翠の作品研究で指摘されていることとは思いますが、自分で翻訳してみたからこそ、その気づきを得られたのがうれしく、やってみてよかったと思っています!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?