尾崎豊を普及させたあの子のこと。
中学1年生の秋、当時私の通っていた田舎の学校に大阪から転校生がやって来た。その子はみっちゃん。
詳細は聞かなかったが、祖母の家でしばらく暮らすことになったのだと本人は話していた。初めての転校生。みっちゃんはチャキチャキとして明るかったけれど、誰とでも仲良くなれるタイプではなさそうだった。
最初は好奇な目で見ていた。だって、猪が出るようなところに大阪の街から転校生が来るなんて。しかも「こんな田舎なんか好かん」と、はっきり言う子だったし。嫌なものは嫌、好きなものは好き。だから彼女のことは、「この土地には馴染めないだろう、そもそもここに慣れるのは本人も嫌だろう」と遠目に見ていた。転校生というだけでも目立つのに、はっきりとものを言うことで、早々に3年生から呼び出しもくらったらしい(後で知ったが)。
みっちゃんは積極的に自分発信したし、好きな子ができるとすぐに告白したし、何かと話題の中心にいた。だけど本人は、時折誰にも踏み込ませない孤独を背負った空気を漂わせるときがあった。放課後、ウォー○マンで音楽を聴いていたときは特に(このとき初めてウォー○マンを見た)。
誰かが不意に彼女に尋ねた。
「いつも何聴いちょんの?」
すると彼女から「尾崎」と返事がきた。
尾崎?????
当時みんなが聴いていたのは、チェッカーズやTHE ALFEE、キョンキョン、中森明菜あたりだったと思う。
「尾崎って誰?」
するとみっちゃんは驚いたように
「あんたら、尾崎知らんの? むちゃくちゃエエ歌ばっかりなんやで!」(← 私の記憶の中の大阪弁です。間違ってたらごめんなさい)
私が、尾崎豊という名前を知った瞬間だ。
翌日から、みっちゃんは怒濤のテープ作り。尾崎に興味のある子に配ってまわり、あっという間にクラス中に尾崎豊が浸透した。そのカセットテープが、私の初・尾崎豊となった。いつも教室の後ろでたむろしていた田舎のかわいい不良グループも、その歌詞は衝撃的だったようだ。そのとき、まだアルバムは1枚しか出ていなかったと思う。
小さな学校で、突如巻き起こった尾崎ブーム。
片田舎で暮らす中学生には、ライブで尾崎豊に会う機会などあるはずもなく、残念ながら一度も生の歌を聴くことはなかった。
彼が亡くなったとき、とにかくショックだった。悲しかった。でも、元々ある尖った孤高のカリスマのイメージからか(実際の本人は明るい青年だったと何かで読んだことあるけど)、寂しいとは思わなかった。中学の時から聴き続けた楽曲は今聴いてもまったく色褪せていない。2013年に映画館で観た『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD1987』(注1)の中で熱唱する尾崎は、ずっとずっと鮮明で、自分の中に残っている。
いろいろ考え事をしていたら、ふと、尾崎豊を普及してまわった転校生のことが懐かしく思い出され、noteを書いてしまった。彼女は、2年生に上がる前に大阪へ戻っていった。あれからウン十年と経ってしまったけれど、相変わらず好き嫌いがはっきり言えて、鋭いツッコミを入れながら元気に暮らしているといいな。そういうみっちゃんのこと、本当は羨ましくて好きだったんだろうなあ、私は。
(注1)1987年8月、南阿蘇・アスペクタで開催された伝説の野外オールナイトロックフェス「ビートチャイルド(BEAT CHILD)」のドキュメンタリー映画
※なんとなく「尾崎豊」には「さん」を付けたくなくて呼び捨てしてしまっている自分がいる。許してね。