つくば集第四号感想【後半】
永井文鳥と申します。つくば現代短歌会機関誌『つくば集第四号』の感想を述べます。この記事は後半で、前半はすでに公開しています。
永井のこだわりとして、全筆名について1作品ずつ感想を述べています。今回は会員作品のうち五十音順後半の方と、OP作品です。
「いるよねぇ」と思いました。発想としては番犬的なノリだと思うんですが、金持ちの住宅街特有のものがありそうです。金持ちの住宅街には当然金持ちがいるんですが、それゆえにその住宅街はセキュリティ厳しそうだし、近寄ることすら危なそう。やたら細い犬は金持ちの飼い犬だと思いますが、犬も犬でちょっと窮屈なんじゃないかな。その犬が眼前に現れることで、暗に警告を伝えてきているような気になります。
第36回歌壇賞候補の月島氏の連作より。真新しい雪が積もったところに足跡を積極的につけるのは子どものことが多いかなと思うんですが、子供が無邪気にはしゃいでいそうな感じと、おそらく大人である主人公がその感情を確かにしているところに「なるほど」と思いました。足跡って普段はそんなに可視化されなくて、雪であるからこそ自分の存在証明のひとつとしての足跡が見えるという点もあるのかなと思いました。
カラスと光の対比で読むんだろうなと思っています。カラスは言うまでもなく黒く、古くから闇の象徴としての存在を背負わされている生き物ですが、逆説的にいえば、カラス(闇)によって光が「光」として現前しているとも言えるわけです。人間は「ない」状態を知らないと「ある」状態を認識できないので。空には光が満ちていて、それを認識できるのもまた、闇によってではあるけれど、闇の象徴であるところのカラスはいなくなってしまった、という景なのかなと思いました。
古書店がテーマになっている連作で、中高生が『サロメ』という本を手に取るシーンだと思います。サロメはキリスト教で有名な人物で、中世のヨーロッパで様々な絵に描かれた人ですが、ここの『サロメ』が何を指すのかは確定しません。絵なのか、詩なのか、あるいは浜田マハの小説か、何かはわからないけれど、モチーフが教養化されてしまって少しとっつきにくい感じはある。「背伸びして」という描写は、とっつきにくい題材に手を伸ばす中高生の象徴的な動作になっているんだろうなと思いました。
「over sea」から「し」を押韻していく詞書を受け、そのまま「戦士、戦死」へと韻をつなげていきます。戦死のイメージから落葉へと自然に景が切り替わっている印象を受け、すんなりと読んでいけました。葉は落ちていくときも空気抵抗をうけてゆっくり落ちていくので、「空を舞うもの」としてのポテンシャルがある。その一方で、完全に「空を舞う」ためのものとしてあるわけではないから、動作としてはやはり「落ちて」いっている。「つばさ」は鳥のものとしても戦闘機のものとしても読める気はしますが、いずれにしても「つばさ」を侮り(本当は憧憬じみて?)見ている葉の様子がわかって、良かったです。
ちゃんと数えたわけではないけれどおそらくこの機関誌に短歌が最も多く載っているのは穂波氏だと思います。引用歌はその数ある短歌の中でいちばん素朴な感情を詠っているような気がしました。飛行機雲はもちろん飛行機が作っているんですが、その飛行機は、飛行機雲を眺めている中ではギリギリ視認できるかどうかくらいの大きさしかない。でも空港に行ったりすると、飛行機という金属の塊の、あのあまりの大きさに度肝を抜かれたりするんですよね。この歌も肝になっているのはそんな大小の対比で、それによって空の高さを思い知るような感情かなと思いました。暗に自分の小ささも際立っていて、それもおもしろいなと思いました。
教師に恋愛感情を抱く生徒の連作かなと読んでいます。引用歌は家庭科でライフプランを考える授業のことだと思います。高校生にもなると家庭科でも結構ガチでいろんなことをやって、そのひとつに「人生」に関することがあるわけですが、それを考えるには高校生はまだ経験不足という思いが主人公にありそう。そのひとつの鍵が恋愛で、自分は手を繋いだこともなく、ひとの手のほとぼりも知らないのに、ライフプランなんか立てちゃうんだ、っていう素朴な驚きを詠んでいるんじゃないかと思います。かなり好きな歌で、連作全体を通してみても面白かったです。好きな歌は前半に多かったです。
「とおく」はよく分かっていないんですが、頭に血がのぼっている状態の頬に冷たいリンゴをつける感覚と、「晩夏は火のころしあい」というゾッとするような言い切りが良い距離感がリンクされているのではないかなと思いました。下の句の言い切りは永井はかなり共感できて、夏の茹だるような暑さが、様々な季節的要素によってどんどん分解されて、秋になっていくという過程を、「火(あついもの)」を殺していくようだというのは分かりました。
クスッとなるタイプの歌です。最近のiPhoneとかには、人物だけを勝手に切り取ったりしてくれる機能があって、それをいじっている(またはPhotoshopとかでぐるぐる画像を動かしている)のかなって思いました。伸身ルドルフはたぶん体操の技で、「伸身」っていうくらいだから体をまっすぐにしたまま回るんだと思うんですが、回している「弟」がその動きをしているんだと捉えるのは理解できたし、面白かったです。
「火花を散らすように」という笑い方の比喩から「自爆」へとつなげていく構成で、飛躍のある比喩がすんなりと受け入れられました。「火花」って、たしかに燃えているものの中身(火薬)を燃やしながら散っているものだから、あの美しさは滅びの美しさなんですよね。そんな感じで笑うんだけれど、その笑いもまた「自爆」というのは、人間も自分にある何らかのものを消費しながら笑っている人もいるかなと思えて、腑に落ちる表現でした。連作は一貫して喪失感を持った主人公によって展開されていて、この歌に至って自傷的に自分を傷つけようとする「笑う人」の姿が見えて、いいなと思いました。
ここからOP作品。竹下氏は永井の同期でつくば現代短歌会の創設者。「心の花」所属で、現在は明治大学大学院博士後期過程で日本文学の研究者として研究に邁進しているようです。引用歌の感情はきわめて素直なものだと思っています。「君」の二の腕に主人公は価値を見出している反面、夏は腕を出す服が多いので、それを「街行く人」に見せてしまうことになる。秋になると袖が長くなっていくので、「君」の二の腕を自分だけが認知できるようになるという、ちょっとした独占欲みたいな感情なんだろうと思います。詞書の和歌の「心尽くしの秋」という表現、これは源氏物語にも出てきますが、「心尽くし」という言葉と、引用歌の相聞的な気配がよくマッチしていると思いました。
永井はこのnoteを書いている人です。自分の歌に客観的な感想は持ちえません。ひさびさに外部に短歌を出す機会になってよかったなと思いました。
橋本氏は永井の同期で「未来」所属、現在とくに注目されている歌人のひとりです。この人と永井はいつも短歌の価値観が合わないんですが、この人なりの実践はウケているようなので、いいことだと思います。引用歌は記憶のいい加減さの歌だと思います。「思い出す」と言っているので上の句の景は過去の主人公が経験したことだと思うんですが、「思い出す」ってのは記憶の再構成をしていることなので、自分の頭の中でうまいこと編集されていってしまう。そうやって思い出していく過去の景色には、どうしても「嘘」が混じってしまうというのは共感できました。
文芸ユニット「おわりの、」の森野氏の連作は、追憶の意識にあふれたものです。引用歌も「懐かしさ」の意識を述べたものですが、「そのとおりだな」と思える把握でした。わたあめは子ども時代にお祭りでよく食べるもので、大人になってからたまに食べると「懐かしい〜」みたいなこと言っちゃうんですが、味に懐かしさを感じているかと言われるとそうじゃないんですよね。おそらく「わたあめを食べる」という行為そのものに懐かしさがあって、あのでっかいふわふわを目の前にした時に立ち現れるかつての記憶が慈しめるものだと思います。それを的確に言っていそうだなと思いました。
今年から「雪華」同人になられた島崎氏の俳句連作は、学校教員になった主人公が、夏休みをあけてから運動会を経るあたりまでの時期の話だと読みました。連作として読み応えがあって、主人公の人物像をイメージできてよかったです。引用句は教員として「明る」くあるべきという努力をしようという、(結構この努力は苦しいものですが)決意を述べているものと感じました。教員は生徒の前で「どういうキャラクターを演じるか」というのを考えるんですが、主人公もまさにそのような状況にあって、少し無理しつつ「明るい人」を目指そうとしているんだなと思います。「二学期」という時期特有のしんどさと、「努力」に要するしんどさが良い取り合わせだと思いました。
以上、感想でした。短歌作品は難解なものが多くて読むの大変でしたが、「これはどう解釈するんだろうな」と考えていく楽しさもありました。『つくば集』には歌集評も載っていて、新しい歌集を知ることができたりもしてとても良かったです。この号ではこれだけたくさんの会員が作品を寄せ、とても分厚い冊子になったことはOPのひとりてして嬉しいです。今後もさまざまな試行を重ねつつ、この回が続いていくことを願います。
P.S.サムネイルの写真は『つくば集第四号』を、名古屋・栄のテレビ塔下にあるHUBに連れて行ったときの写真です。黒いビールが美味しいです。