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つくば集第四号感想【前半】
永井文鳥と申します。短歌は細々と続けていて、その中で、自分の短歌の原点であるつくば現代短歌会には注目し続けています。
昨年の11月に筑波大学の学園祭へ行ったとき、『つくば集第四号』を手に入れました。永井が卒業する前の年に創刊号を発行しているので、あれから3年経ったんだと思いながら読みました。後輩たちの計らいでOPの欄が設けられており、永井も寄稿しました。これからもつくたんの活動が、多くの人の目に触れながら続いていくと個人的に嬉しく思います。
つくば集の刊行から2ヶ月が経ち、その間に永井を取り巻く私的空間は大きく変容しましたが、そんな中で今更ながら、この機関誌への感想を述べたいと思います。
永井の個人的こだわりとして、全筆名の作品について1首or1句ずつ引用して感想を述べます。数えてみたら30筆名の方が作品を寄せているようなので(数え間違えているかもしれません)、計30の短歌or俳句について感想を述べることになります。今回は前半ということで、15の短歌作品について感想を述べるようにします。
まな板に横たわり一時間経つ うろこかがみに涙を拭う
ゲスト寄稿より。「本当かなあ」と考えながら読んで、読んで10秒くらいして「本当かも」と思った歌です。うろこが水分を失って(まな板にへばりついて)反射が強くなってくるのは一時間くらいかもなあと思います。主人公も、きっちり「一時間」という時間を認識していたというよりは、「そういえば一時間くらい経ってるな」みたいな把握なのかなと思います。
身支度のたびに犬歯は磨かれてわたしにある怪物の才能
「才能」までは感じたことないけど、わかるなあと思いました。どのような形であれ獣の要素がわれわれ人間に名残として残っている(尾骶骨もそう)のは、それを残す必要性があるからだとも思う。そうすると確かに、犬歯(しかも人間のそれはけっこう鋭いことが多い)が残存することによって、牙を持つ怪物として存在しなければならない時間があるのかもなと思って、説得力を持っていると思いました。
新雪を踏んでは遥かなる喜び 火をつけていないだけの放火魔
ここから会員作品。引用歌は連作の一首め。(下の句に引っ張られた読みかもしれないけど)暴力性に関する取り合わせだと思って読んでいます。新雪の、一面がなめらかで白い平面として眼前にあることに永井は強く価値を感じていて、それが人などの手によって足跡がついたりしてしまうと、「あーあ」って思ったりする。しかし、必然性なく新雪を「踏む」側の気持ちも(一種の快感的な要素を含むものとして)わかる自分もいて、でもその「快感」って、暴力性に起因するんだろうなって思う。おのが肉体で雪を踏みつけるんだから。それが「放火魔」の暴力的要素とマッチして読めて、気持ちがよかったです。
音もなく悪びれもせず平然とインクは君を意味づけてゆく
言うまでもなく記号論のことだと思うんですが、インクに託すあたりが、記号を前にする人間の「どうしようもできなさ」を示しているのかなと思って、面白かったです。文字はただのインクの染み(この媒体では光)でしかないんだけど、人間はそれに(「あ」の形をした染みを「あ」という文字だとして)意味を見出してしまう。本来、そこに勝手に意味を見出しているのは人間サイドなんですが、インクが「悪びれもせず」「平然と」意味づけていくことに、「あ」を「あ」として認識せざるを得ない感じが出ていて、共感しました。
鬼さんこちら手の鳴る方へこんなこと大すきな人にしか言わないよ…
「知らねぇよ、んなこと」と思った5秒後くらいに「いや、わかるかも」ってなった歌でした。嫌いな人(ないしは危険な人)だったらこっち来てほしくないもんな。上の句のフレーズは目隠し鬼の煽り文句ですけど、あれも「鬼が近づいてくることによるスリル」を味わうためにけしかける言葉であって、鬼が真に恐怖される存在なら黙って逃げるわけで。鬼に対する関心がなかったら成立しないフレーズですよね。で、そもそも「こちら」に来てほしい人って、すきな人であることが多いので、(ちょっと劇画的な表現だけれど)言われてみるとそうだなって思えた歌でした。
文字は産道を経る子のごとくして丁寧なあとがきの暗唱
「あとがき」を暗唱するのはやったことないですが、言われてみると理解できるなあと感じました。あとがきって作者の「作品を生み出した意図(換言すれば「作品を生み出した際の苦しさ」)が最も出やすい箇所だと思って(歌集とかまさにそう)、それを暗唱するという行為を「丁寧」にやるのが、この主人公なりの創作物に対する意識なのかなって思いました。「文字は産道を経る子のごとく」は物書いたことある人ならきっと一度は感じることだと思うんですが、その「苦しさ」を表現できるのってあとがきくらい(たぶん作中に「産みの苦しみ」を残すと、「作為的」とかなんとか言われて忌避される)だと思って、そういう面で腑に落ちた歌です。
神奈川って答えてもけっきょく神奈川のどこ?って聞かれて面倒じゃんか
名古屋っ子として共感できます。連作を通して、横浜が出身地の主人公によって「外からの横浜の見られ方」が意識されていて、それを象徴してすらいるのがこの一首めかなと思います。神奈川も横浜方面と箱根方面でけっこう、文化というか雰囲気というかに違いが見れるんじゃないかと思っているんですが、だからといって「出身どこ?」「横浜です」みたいに答えると「あ、やっぱ『神奈川です』とは言わない感じね」的な反応されたりするんじゃないか。ただ、それを避けようとして「神奈川です」って答えたところで、「神奈川のどこ?」って言われてめんどくさい。そんな感情かなって思いました。名古屋もまったく同じことが言えます。
吐き出せ嘘後輩口調で話すときわたしは抜かれた刀のようだ
後輩口調っていうのは「〜っすよね」的なやつかなと思ってます。冗談を飛ばしたりするのに打ってつけで、それゆえに先輩との距離を縮めやすいポライトネス・ストラテジーだと思うんですが、同時に「ガチで思ってる」ことを、軽い口調に乗せてちゃんと伝えられるという性質もあるのかなと思いました。永井は職場ではほぼ最年少なんですが、同期が飲み会で度を越したいじりにあった時に「それパワハラっすよ」みたいなことを発言したことがある。真に訴えている感じになれない口調で嫌は嫌なんですが、こうでもしないと言いづらい気はしていて、そういう意味では、若い側から刀を抜ける有効な方法なのかもって、はっとなった感じがしました。でもこの読みだと「嘘」の必然性がないか。ちょっとわからなくなってきました。
授業名は英語コミュニケーションになる
コミュ英は今ないらしいアメリカに一人も行かないクラスから私語
永井は神乃の短歌が現代歌人の中でトップクラスに好きで、この連作やもう一つの連作「ゆ」について語りたいことはたくさんあるんですが、今回の感想の趣旨に照らして一首の感想を試みると、この短歌は「私語」に収束していく景色がいいなと思いました。学習指導要領の改訂に伴って「コミュニケーション英語」が「英語コミュニケーション」にマイナーチェンジされたことを詞書と初句で言っていて、それをきっかけに学校の教室シーンをうたっています。英語はすべての中高生(今は小学生も)に課せられ続けていて、あれこれその正当性は唱えられるんだけれど、当の中高生たちにとってそんな「正当性」とやらは意味なくて、とくに将来海外に行こうと思わない人にとっては、ほんとに「ただ覚えるもの」でしかなくなってしまう。視点人物のクラスにはアメリカに行く(少なくとも「そのつもり」の)人が一人もいない。こんな感じのバックグラウンドの先にある「私語」は、とうぜんなんの変哲もない私語かもしれないけれど、たぶん生徒たちにも一定程度の切実さがある。この収斂の感じが永井にはよく思えました。一方で、永井は国語の教員として、「じゃあ古典では誰もが私語だよなあ」と思った点も付記します。
八百屋さんがむこうを向くとやってきてCD見て帰るカラスだな
発行時の会長にして第七回笹井賞最終候補の小池氏の連作。連作を通して距離のある比喩や飛躍が多くて、たぶん「わかる人だけ取ってください」的なノリの連作なのかなと思いました。引用は最終首。初読のときにはカラスの頭脳を現実より高く見積もることの面白さを詠んでいると思いましたが、これ割とリアルかもと思い直した一首です。カラスにはたぶん八百屋(を含めた「人」)の顔の向きくらいわかる力はあって、その上でCDに騙されちゃうくらい力がない。こうやって説明するだけだと面白くないんですが、それをカラスの行動に落とし込むと、きれいに歌になっていくというのは、一本取られた感がありました。
亡骸に身分はなくて肉体は分け隔てなく大地に還る
有体に言えば一連が「かっこいい」連作です。古代ローマの古典的な世界を匂わせつつ、酒と戦の雰囲気を歌っていると読みました。引用は最終首より。戦って現代においても強固な身分制が保持されているところの典型な気がして、たいてい身分(階級)の低い者が戦場に駆り出され、死んでいくんですが、最後は(神なる)大地に吸収されていくというのが、ローマ的神が最後に残した救済手段なのかもしれないなと思いました。
轢死(ロードキル) 仔猫の背からかたばみが芽生えるように天国も春
結句の「天国も春」への飛躍が、(こういうモチーフで天国に飛躍させる試みは他の歌にもあると思いますが、それにしても)きれいにまとまっているなと思いました。轢死した仔猫がいて、たぶん轢死してからそれなりに時間が経っていて、主人公としてもそれが仔猫だとかろうじてわかるくらいのところだと思うんですが、すでにその背からかたばみが生えているという描写は、死と生の対比構造をきれいに作っているし、そこから天国に(死後に)飛躍させるのもきれいだと思いました。よく分かって乗っていけた歌です。
埋められたスタンプラリー・執着はいつか速度を失っていく
スタンプラリーは埋めることを目指しているのに、埋めた瞬間に無価値になる気がします。というか、それだけじゃなくて、「あと◯個」的な楽しみもちょっと乏しいかもしれない。スタンプラリーでいちばんたのしいの、前半が終わる直前くらいな感があります。この歌はその感覚をズバッと言い当てているような雰囲気があって好きです。前半をピークとして、スタンプラリーへの執着は萎んでいきそう。
個室まで入ってこようとしなくても助けの来ないblue(let) oceanよ
重いテーマを扱っている一連に思えます。性的被害を受けたトラウマに関する連作で、食事を提供するアルバイトの景のなかで語られているのかなと読みました。引用した歌は「ても」の解釈が鍵のような気がしています。「ても」は逆接のとりたて詩で、前件から予想されることとは反対のことが後件で述べられる形式ですから、「個室まで入ってこようと」しないことは、「助けほ来ない」ことを予想していないということになるんですが、永井の直感からは外れます。個人的な解釈としては、「(個室まで入ってこようとしても、)個室まで入ってこようとしなくても、助けの来ない」というような、「ても」重複形、すなわち「いかなる条件でも助けの来ない」というような絶望感として読むのがいちばん理解しやすかったです。結句の「blue(let) ocean」は、トイレの水溜めがブルーレットの液体の色に染まっているのを、競合者(これは「加害者に混じって加害してくる」競合者とも読めるが、「自分を助けるという意味で加害者に抗する」競合者とも読める)のいないブルーオーシャンを皮肉っているものと読みました。
おほやけの園 とはいえど小さきゆゑわれと鳩との距離わづかかな
第三回角川U-25優勝者の渓氏の連作より。この連作は「デバッグといふ永遠(とは)の作業」や、「十月の液晶のまへ」など、ちょうどいい距離感の飛躍が用いられていて、ハッとする歌が多いです。引用歌は公園の話で、「公(おほやけ)」っていう割には面積的に小さい公園、たしかに多いよなって思わせつつ、「われと鳩との距離」に持っていく。公園の大きさと鳩と人との距離に因果関係はないんだけれど、妙に納得させられる言い方がされていると思いました。
前半はここまで。後半では、会員作品の五十音順後半の筆名の方の作品と、OP作品の感想を言うつもりです。今回は作品の感想をメインで書いていますが、『つくば集第四号』のほかの企画も面白いです。永井は吟行記録が好きでした。このnoteを読んだ方の中で、まだお手に取られていない方がいれば、ぜひ、なんらかの方法で読んでみてください。
P.S.サムネの写真は名古屋・栄のカフェ「長靴と猫」に、『つくば集第四号』を連れて行ったときの写真です。店内がかわいらしいのと、ケーキが豊富なのがおすすめです。