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少年愛の哲学


『一度きりの大泉の話』を読んだ感想は前回書いたが、この中に、やたらと『少年愛』という言葉が出てきた。

要は、竹宮惠子とその友人の増山法恵(おけけパワー中島)の二人が目指している耽美な世界を、この本の中では指しているわけだが、それはつまりボーイズ・ラブ、ということである。
増山女史は、作中では鐘を鳴らす人として、萩尾に称される。プロデューサーとして、作家の魂に火をつけて、創作を促すのだ。そういう役割が、彼女にはあったと、萩尾は書いている。

今作にも、一箇所だけ稲垣足穂の名前が出てきた。言わずとしれた、『少年愛の美学』のことで、萩尾望都は増山に勧められて読んだという。稲垣足穂先生は1968年に『少年愛の美学』で第1回日本文学大賞を受賞して、約40年間黙殺されていた文壇に綺羅星のごとくに復活した。そして、今はまた消えている。
稲垣足穂先生は20代には文壇で認められていて、一度消える。そこから40年間は只管に自分の書きたいものだけ書いてきた。
田中一村タイプである。画家で芸術家の田中一村も、幼少時代から神童と目されていた。後年は奄美大島に移り住み、誰からも顧みない日々を送っていたが、極彩色の日本画という全く新しい芸術を産み出し、死んでいった。けれども、一村は死後評価された。

三島由紀夫は稲垣足穂先生に憧れていたが、タルホ先生は三島を山師と罵って、彼の文学を偽物の文学と断罪した。ちなみに、谷崎潤一郎は書割の御殿と一蹴されていた。タルホ先生は佐藤春夫の元弟子なので(結局、菊池寛の太鼓持ちと罵って、最終的には袂を分かった)、谷崎とは知り合いで、随筆などにちょくちょく登場する。私の好きな川端康成は、タルホ先生に言わせれば、悪人であり、三島は悪党だと言う。

賞の受賞は三島由紀夫の推薦が強力な後押しになっているが、私が、三島由紀夫がすごいなぁと思うのは、本当に様々な作品をよく読んでいる、というところで、プロもアマチュアも、知名度の有無はそこには関係がない。批評家としての彼は恐らくは最強の一人ではないか。
まぁ、男色に関わる本だから、特に意識して読んでいたのかもしれない。
三島由紀夫は少年愛、というよりも、どこまでも、ヤマジュン的な感じではあるが、心の拠り所にしていたのかもしれない……。ナイーヴな男である。

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萩尾望都の、『少年愛の美学』に関するそこでの感想が、シュールなファンタジーだと思って、よくわからなかった、というものだったが、本当に全て読んだかどうか疑問である。恐らく、部分部分を摘んで読んだのだろうと推察される。
そもそも、『少年愛の美学』というものは、随筆であり、ファンタジーではない。シュールなファンタジーという形容が、広義では当てはまるかもしれない(様々な事例や多岐にわたる引用や暗喩など)が、首を捻らざるを得ない感想だ。

今作は、同人誌に長年に渡って連載されて、改稿に次ぐ改稿で、時折読者からの手紙や情報も寄せられて、それもまた作中に取り込まれていく、非常に物量の多い、大作である。
作中で、所謂、A(アナル)感覚とP(ペニス)感覚、V(ヴァギナ)感覚に関しての洞察と思考を深めていく。一連の流れでの文章ではなく、上手くハマらなければ読み通すことも出来ない代物である。
この中では、V感覚は所詮、A感覚の借り物であり、VとAを所有する女性としては、A感覚が広まることは由々しき事態だと感じている、というのが、タルホ先生の話である。ここから、更には稚児、スカトロジーの話なども展開していく。

一方の竹宮惠子は、稲垣足穂に関しては『一千一秒物語』と『少年愛の美学』だけしか読んでいない、そして、読み返さなかった、と昔の雑誌に書いてある。稲垣氏の名前も知らずに、書店の棚からそのタイトルを抜き取って読んだと書いてあったが、増山氏に勧められたのが本当ではないかと推察する(私は『少年の名はジルベール』を読んでいないので、その辺り記載があれば申し訳ない)。実際には、わからないが。

彼女が21歳の頃に抱えていた、もやもやとした感覚に、上記の作が実像を与えたというようなことを、前述の30年以上前の雑誌(私は古書で読んだ)に寄稿エッセイに認めていたが、結局はお二方(増山氏含めて)どちらも、足穂先生における少年愛の美学とは違う、少年恋愛の美学を進んでいるように感じられた。

男色、或いは、少年への郷愁を書いた足穂先生は、どこまでも男目線であり、美少年同士の恋愛、というのは、どこまでも女性目線なのではないかと思う。
少年愛、という言葉の響きだけが、彼女たちを推進させる強力なガソリンとなっていたようにしか思えない。
無論、『少年愛の美学』にも、男色行為は描かれるが、もっと実践的でもあり、古今の芸術論や、少年期の郷愁へと還っていくため、少年同士のセックスを交えた恋愛、というのは一要素に過ぎず、それは、よく言われるように、安全圏からの恋愛代替行為なのだろうと思われる。

つまり、自身が本当には夢に見ていた、理想とする美少年に愛し愛される姿を、半身である男性の偶像に仮託して、その様を眺め愉しむ行為、がBLの大本にあるのではないだろうか。

萩尾望都の書く、少年同士の友情の方が、意識的ではなく、男性的に少年愛の美学に寄り添う形になっているのが不思議である。

あがた森魚が本に書いたように、詩人のジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』における、主人公ポールと、彼の憧れる凛々しい美少年のダルジュロス、彼に白い雪玉を胸に当てられた時のポールの心情こそが、そのエッセンスを的確に捉えているという指摘は、非常に正しいと思われる。
憧れるダルジュロスの雪玉を胸に受ける幸福、クラスメイトで、その人に関わりたいと思えるような、憧れの少年との交差。憧れの少年の気に入りになりたいという感情。それはまさしく少年愛的である。

萩尾望都は、1979年に『恐るべき子どもたち』を漫画化しているが、彼女は『一度きり〜』では『少年愛』は私にはわからない、友情はわかる、だから、少年愛はあなた達で勝手に楽しんでいてください、と言っていたが、寧ろ、その友情こそが、タルホ的少年愛に親しいように思われてならない。

そして、増山女史という存在は、とてつもない人だというのも感想である。
両漫画家どちらも稀代の漫画描きではあるが、モティーフと遭遇させ、鐘を鳴らしたという意味で、増山女史はある種の天才的なセンスを持っていたことに、疑いようはない。

男から見た少年愛、女から見た少年愛、それらは交わらないものではないかと思える。それは、百合も又然りである。
少年愛というのは、いくらかにも枝分かれしているわけだ。




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