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『屋根裏のラジャー』に見る空想シェアリング

Netflixの配信で『屋根裏のラジャー』を鑑賞する。

昨年の12月に拡大公開され、興行的に大コケしてしまった作品だが、本当には映画館で観ようと思っていた。
私はそれなりに当たると思っていたのだが、然し、世間はそれほど興味がなかったようだろう。
それでもスタジオポノックの『メアリと魔女の花』など、興行収入で30億円を超えているのだから、夏休み興行と冬休み興行の差はあれど、20億円くらいは稼ぐと思っていた。然し、最終的には3億円ほどの稼ぎで、凄まじい失敗作と見做されてしまった。

映画は、イマジナリー・フレンドをテーマにした作品だ。

子供の頃、持ってる人は持っている、いない人にはいませんよ、というイマジナリー・フレンド。まぁ、大人になっても、イマジナリー・フレンドがいる人はいる。『アイアムヒーロー』でも、序盤はよく出ていたなぁ。

然し、今作では、まぁ、子供映画なので、基本的には、大人になると忘れてしまう、雨の中の涙のような存在として描かれており、作中では、イマジナリ、と呼ばれている。確か、『インサイド・ヘッド』にも同様のイマジナリー・フレンドが登場していたが、あの映画は、少女ライリーの脳内で起こることのため、イマジナリー・フレンドや感情たちを擬人化して会話が発生するのは、理解できる。

然し、今作では、主人公ラジャーを作り出した女の子アマンダの脳内で起きていることとだけではなく、イマジナリは人格を持ち、他人のイマジナリとも会話できるのである。そして、忘れられたイマジナリは、図書館などの空想力が集う場所に集まり、新たな宿主を探す……みたいな、そういう展開が待ち構えていた。
え、そういう設定なんだ……。と、私は面を食らったが、まぁ、全体的には楽しく観た。観た、が、普通にもう二度と観ることはないだろう。

想像と現実、その境界を、ラジャーや登場人物たちは行き来する。いずれは消えていく空想のお友達、ラジャーを生み出したアマンダは、冒頭明るく夢見がちな感じで登場するのだが、然し、空想に逃げる、空想を拠り所にして耐える、ということは、現実に耐え難いことが起きている、だからこそであろう。
アマンダは父を亡くし、ある決意を胸に、日々を過ごしている。それは、何か大それたことをやろうとか、そういうものではない。冒頭、ラジャーに大して、消えないこと。守ること。絶対に泣かないこと。を唱えるシーンがあるが、まぁ、ここらへんは中盤で泣かせにかかる伏線になっている。

絵は抜群にキレイだ。ジブリ、宮崎駿と比べると、塗りがのっぺりしていても、宮崎映画は絵の美しさが群を抜いている。それとは比べると、アニメーションの官能性に乏しいが、作画の背景はとてもキレイで、舞台がヨーロッパなので、その街並みなどはいつまでも観ていたくなるほどだ。

然し、映像の美しさと物語の面白さは比例しないものだ。
特に起伏のない物語と、あまり魅力的ではない人物たち、特に、イマジナリの世界の描写が退屈極まりなく、新鮮味がない。汎ゆる意味で古臭く感じるのだ。

また、前述したイマジナリの設定も、私には飲み込み難いものがあり、それはイマジナリー・フレンドなのか?という疑問が最後まで拭えなかった。

声優はほぼ有名俳優が担当しているが、寺田心さんの演技はすごく良かったと思う。あの少年期の終わりの声は単純に美しく感じる。
そういう意味で、ラジャーはショタキャラであり、途中、オーロラというバレエをする別のイマジナリになっちゃうのだが、そのあたりは杉咲花さんに声優が変わり、図らずも、女の子であり男の子でもある、両性具有的な倒錯が顕れて、私は目を見張った(私のテーマが両性具有なので)。

そして、イッセー尾形演じるMr.バンディング、とかいう完全に児童を狙った性犯罪者にしか見えないこの変態だけが物語の中で面白みのあるキャラクターなのだが、彼は何百年も生きていて、イマジナリを手放さずに他者のイマジナリを喰って生きてきた人である。彼にも、空想に縋るしかない理由、若しくは妄執の理由があったのかもしれないのだが、然し、それが上手く語られることがなく(炎でバンディングの出自を語る演出は良かった)、悪役を全うして消えていった。まぁ、やられ方は綺麗な円環になっているので、良かったと思う。

イッセー尾形、と、いえば、10月に京都で、11月に神戸で、一人芝居を演るのだが、一度生で観てみたいものだ。私は、本当には、たくさん演劇など観たいのだ。然し、金がなく、時間もない。何よりも、人が多い場所が嫌いだ。


然し、この、イマジナリ、という存在、これはもう、映画、アニメ、小説、漫画、アート、音楽、演劇、それらの藝術そのもののような気がする。
忘れられていく作品もあるが、然し、誰かの心に埃をかぶってはいても眠っていて、ふとした時に蘇る。そして、誰かのイマジナリが、誰かのイマジナリへと変化してわたっていく。誰かが作った想像も、形を成すことで、それはイマジナリではなくなり、現実に侵食していく。悟空だろうが、ルフィだろうが、ナルトだろうが、はじめは空想だが、今ではもはや空想ではない。
そういう芸術論的な映画なのかもしれない。


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