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ヨコハマに行きたい……。人は見たいものしか見ない。

久方ぶりに『ヨコハマメリー』を鑑賞する。15年ぶりくらい。

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『ヨコハマメリー』は2006年の映画なので、今から19年前の映画。ドキュメンタリー映画だ。
ハマのメリーさんを追った作品で、当時のメリーさんを識る人や、メリーさんに興味を抱いている人などへのインタビューや証言を交えつつ、戦後の横浜の文化風俗などを語る作品だ。

横浜、ブルー・ライト・ヨコハマ。横浜には一度だけ行ったことがあるが、それは幼い頃、で、あり、然し、やはり、こう、港町、神戸、長崎、そして横浜、全てが、ハイカラーであることは疑いようがない。モダンかつハイカラー文化は、やはり異国との窓口から産まれる。然し、その中でも、横浜、は、こう、何か、危険な香りもする(勝手な偏見)。

で、ヨコハマメリー、白塗りの老娼婦、そして、様々な伝説を纏った人、この人の吸引力に、大勢が取り込まれている。この映画の中でも、多くの方々がメリーさんについて証言している。

昔この映画のポスターを観た時、ホラーかと思った。確か、映画秘宝か何かで記事を読んだ記憶がある。で、昔、とはいえ、2000年代、なので、まぁ、DVD全盛期、だけれども、ミニシアター系は、なかなか観ることがない出来ない。TSUTAYAで借りるか、それとも買うか、どうするか、まぁ、借りたのだが、そこには、私の識らない世界が広がっていた。

いい映画なのである。91分の映画だが、メリーさんを軸に、横浜文化というものが語られている、様々な文化人が登場するが、まぁ、ほとんどがローカルな感じであるが、そこで形成されている世界がいい、カメラに収められている横浜も、やはり雰囲気といい、モダンで異国の匂いがする。
メリーさんは、比較的遭遇している人が多い。都市伝説的な存在であり、異形な人であるが、生前の写真も多く、動画にも残っているので、これよりも更に昔の奇人たちよりも実像がわかりやすいが、然し、この映画の中ではあくまでも他者が語るメリーさん像なので、ご本人がどういう人なのかは相変わらずヴェールに包まれている。

まぁ、この映画、は、最終的には素顔のメリーさんも出てくるし、作品の帰結としては感動的で、すごく重要なフィルムにもなっているが、然し、それは、やはり、メリーさんと親しくしていたシャンソン歌手、永登元次郎さんのお陰だろう。まぁ、実質の主役は彼である。永登元次郎さんは、撮影中には病に侵されていて、公開前に亡くなってしまったのだが、彼が歌うシーンはとてもいいし、人当たりの良さや持っている空気感などもこの映画の基調になっていて、底支えしている。

それから、五大路子さんの、『横浜ローザ』という一人芝居の舞台も今作では重要な要素である。五大路子さんはライフワークとしてこの芝居を長年している。既にこの舞台は28周年を迎えており、去年も公演されている。

で、こう、永登元次郎さんや五大路子さん、それからカメラマンの森日出夫さんなど、文化的な空気、要素を監督は見事に取り込んでいて、飽きさせない作りになっている。
一番驚いたのは、当時は気にしていなかったが、大野慶人が出演している。メリーさんと親しかったそうで、親父さんの大野一雄、まぁ、この人も、白塗りで、『ラ・アルヘンチーナ頌』など、確かに、メリーさんを思わせるところもある。

この、大野慶人の、インタビューの際の、動き、喋り方、声、癖になるなぁ、いいなぁ。声が特にいい。ずっと聞いていられる。

大野一雄、と、いえば、ドキュメンタリー映画、ではないが、どちらかというと、イメージビデオ、実験映画、近いかもしれないが、大野一雄主演の映画で、『О氏の肖像』、あれは60分くらいだが、あれは眠たくなる。多分、90%の人は寝るだろう。
まぁ、イメージビデオなので。全部で3本、『О氏の肖像』、『О氏の死者の書』、『О氏の曼荼羅』、私は『肖像』しか観ていない。

白塗りで、バイクに跨って、仮面ライダーばりに疾走するシーンには眼が覚まされるが、こう、眠たくなる映画、と、いうものはあるものだ。然し、この『ヨコハマメリー』は、全く眠たくならない。
大野慶人が、メリーさんの白塗りと、暗黒舞踏の白塗りについて尋ねられていて、「あれは白く塗るのではなく、白くして肉体を消すんですよ。」と言っているのが印象的だった。

メリーさんの化粧を、仮面であるという証言も出てくるが、白色は全てを呑み込む、仮面である、自分とは違う誰か、なのか、自己主張、なのか、それとも自分を消すのかー。と、まぁ、そんなことを考えたり、考えたりしなかったりしながら観て、然し、昔観たときは大野慶人のことを識らなかったし、気にも留めなかった、のだが、こう、やはり、人間というのは興味のあるもの、興味のある人にしか目がいかないものなのだと、そう改めて思う次第。

人は見たいものしか見ない、とは、まぁ、今回の件とは意味が異なるが、然し、人は、如何に偉大な物や人でも、その時に感性、知識がないと、触れていても気づかないものなのだ。私も、日々色々なものを観たり、読んだりしているが、多くのものを識らず、多くのものを見過ごしているのだろう。
それは、私に限らずほとんどの人間がそうで、今日は大切だと気づかないそれが、10年後に突如光芒を指すこともあるのだろう。もう出会っている、なのに、まだ出会えていない、ひとえに、無知のなせるわざである。

で、まぁ、『ヨコハマメリー』、最近、昨年出た書籍を購入した。

『白い孤影 ヨコハマメリー【増補改訂版】』で、ある。以前、これの文庫版(増補無し)が新刊棚で出ていた時、購入を見送ったが、今回は増補版、私が増補版を選んだのは、まぁ、装幀、である。
白と紫。この組み合わせは、貴族的色合いであり、私のカラーである。この美しい表紙、今までのメリーさん絡みの本やポスター、映画もそうだが、それらの中でも、一番美しい。
ちなみに、メリーさんの本はもう1冊あった、けど、こっちは読んでいない。『ヨコハマメリー』監督の書籍だ。

で、ヨムヨム。この本の中では、実在する人間としてのメリーさん、伝説として文化芸術的存在となったメリーさん、まぁ、大まかにわけて、この2つのメリーさんを切り分けて研究、調査、論じている本である。

そして、メリーさん伝説の前提として存在する、若い頃に離れ離れになったアメリカの将校を待ち続けている説、を検証、まぁ、本著に書かれているように、将校、確かに、現在のメリーさんの伝説、というのは、あまりにも甘く、美しい物語として、大衆の胸のうちにストンと落ちる、滑りの良さがあり、この、実は将校とか関係なく、アウトサイダー・アートとしてのメリーさん、というのは、面白い話だと思う。
メリーさんと谷崎潤一郎が会っていたんじゃないか説、これに関しては、私は、松子夫人の白いドレス姿を初めて見たので、その写真が良かったねぇ。
メリー&タニジュン説、こう、他にも言えることだが、まぁ、ノンフィクションの醍醐味、点と点が結ばれる瞬間、もしかして……と、いう瞬間、この高揚はたまらないものがある。

で、メリーさん、という存在は、あまりにもあまりに、伝説として、物語として、完成されすぎている。この完成された物語は、ある種、周囲の人間が作り出した共同幻想の上によって保たれている砂上の楼閣で、本当には全然関係のない理由で白塗りをしているのかもしれないが、然し、けれども、もはや、それは、我よりほかに、という谷崎同様、それはもう、メリーさん以外には識りようがないことであって、だからこそ、逆説的に幻想は巨大になり続ける。
本当の理由はもっと得体のしれないものかもしれないし、聞けばするすると謎が解けてしまうような簡単な理由かもしれない、或いは、謎などなにもない、伽藍洞なのかもしれない、が、一種の狂気的なものはそこに存在しているだろうし、この楽屋裏への秘密の鍵は探すことこそが美しい演劇の一部であり、その扉は永久に閉ざされたままであることこそが、永久に生き続けることになる、そのような、シュレディンガーの猫、的な存在、それがメリーさん、なのである(使い方間違っている)。

本著でも書かれているように、【横浜幻想】としてのメリーさん、と、いうものは、他の汎ゆる事象で存在している。現実と虚とは、誰が見るか、誰が語るか、何を信じたいか、でその姿は変わっていく。メリーさんは、その中でも特大の幻想であり、今後も肥大化、固定化していく、そうして神話は産まれる。

で、私は、この本は、まぁ、取材が徹底している感じがするのと、映画『ヨコハマメリー』がメリーさん幻想であるのならば、『白い孤影』はメリーさんという人間に迫ろうとしているわけで、結構な頻度で、メリーさんが嫌われている証言など出ていて、私はノンフィクション的な要素、真実を探す、的な話は好きなので、大変おもしろく読めた。


で、一昨日、1月17日、阪神・淡路大震災から30年、であり、どうやら、メリーさんの命日が2005年1月17日、なので、そこから20年、そうして、デビッド・リンチも逝ってしまった。
デビッド・リンチは1月16日没だが、然し、彼もまた、異形を撮り続けてきた。
 
 
 
 
 
 
 
 

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