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『メメントラブドール』な『ブルーピリオド』
『ブルーピリオド』の最新刊、16巻を読了する。ネタバレも書く。
もう16巻、然し、1年ぶりの新刊である。売れると、刊行スペースが遅くなっていく。売出中の新人さんは年間5冊とか6冊出す。これは殺人的なペースだ。
最近は、休載に寛容な社会だし、やはり、面白い漫画を描くのには時間もかかるのだろう、いいことだ。まぁ、待つ身としては辛いところだが。
で、『ブルーピリオド』の16巻、最近は巻を跨いでの長編エピソードが多かった気がするが、今回は1冊で終わっている。
藝大2年時後期の『二人展』にまつわるエピソードだが、ようやく、八虎に焦点が合ってきた感じで、まぁ、単行本で、こう、断続的に読むから、そんな印象、けれども、実際は、前回のエピソードもきちんと主人公へと還るように、物語は丁寧に組み立てられている。
八虎が二人展の相手に選んだのは、まずはフランシス・ベーコン。そして、その後にはアンディ・ウォーホル、どちらも偉大な偉大な芸術家である。
八虎は、自分の絵には、自分の創作活動には、軸がない、テーマがない、そう考えていて、まぁ、彼の場合は、人間、というものが、それに近しいと自己分析しているのだが、まぁ、確かに、読者も無論そのことを理解していて、だからこそ、門外漢的な立ち位置だからこそ、感情移入がしやすいわけだが、そのテーマの無さが、7巻から続く藝大編のモラトリアム的な空気の、最終的には突破する壁であろうし、それが、突きつけられた形。
で、はじめに、ベーコンを通して、彼は制作のテーマなどを考え始めて、被写体として選んだ歌舞伎町で、久方ぶりの龍二と出会い、彼(彼女)が服を作って、それがSNSで目を留められて、仕事に繋がっていることなども識り、龍二のツテで歌舞伎町でホストとして働き、街をその身で識ることに臨む。
私は、今巻を読んでいて、最近読んだ太宰治賞を受賞した、市街地ギャオさんの『メメントラブドール』を思い出す。
まぁ、令和文学であり、今様の言葉に満ち溢れた、なかなかにハードパンチャーな小説で、主人公は、院卒のシステムエンジニア、Tinderで男を漁りノンケ食いを趣味にしていて、男の娘コンカフェで働いている、様々なペルソナを使い分ける人だが、まぁ、青春小説だ。
私は、今年読んだ小説の中では、相当に好きだ。この人は芥川賞とか取りそうだな〜。
この小説の空気感、なんか、『ブルーピリオド』を読んでいると、それを思い出した。
で、ベーコン。で、ウォーホル。
この二人は同性愛者であると言われている。そのことは作中では特に触れられていないけれども、まぁ、トランスジェンダーである龍二も登場していて、同性愛、LGBTQ的なものがこのエピソードの裏のテーマとしてあるのかなぁ、と思ったり。舞台が歌舞伎町、というもの、水商売的な、性を感じさせる空気感、その辺りも、非常にデリケートではあるが、個人的には、八虎のアイデンティティにも関わることのようなことを、間接的に描いているような気がする。
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多くの同性愛、男性の美しい絵を残して、それは本にまとめられている。
彼は、基本的には如才ない男であり、すごく気を使う男であり、1巻では人生なんて上手いこと平均以上にやっていけばいいでしょ、みたいな、斜に構えた感じなのだが、アートと出会って、人生の方向転換をさせられてから、それこそ、段々と、子どもに帰っていくように、様々なことに驚き、新鮮な目を開かされて、自分のダメさを痛感しては、時々褒められては(つか自己評価低すぎるだけで、相当に才能がある男なのだが)嬉しくなって、武装していた弱い心がむき身に晒されて、傷つきながらも成長していく(なんか八虎ってキルア的だな)。
この、臆病だからこその強がり的なもの、それが、『メメントラブドール』の主人公にも似ていて、彼も、始めはクールなやつかと思わせつつ、仕事、人間関係で心を傷つけられている。足元が、グラグラぐらついている。
普遍的な話であり、まぁ、最近の若者は、Z世代は、とか、よく言っているが、基本的には、若者は、誰だって、どの世代だって、弱い心を必死に守っているのだ。
八虎が人間をテーマに、出会ってきた人たちをテーマに描くのは、斜に構えた彼が、実は誰よりも繊細で、誰よりも人間が好きで、然し、それを怖がっている、その感情を芸術に昇華しようという、そのようなものなのだろう。
世の中、そういうもので、厭世的な人は、本当には誰よりも人間に期待している。
個人的には、八虎は、まだ童貞のようで、1巻の人物造形から考えると妙な話だが、然し、彼のセクシャルの方向性は龍二に近しいのかもしれない、などと、考えたりする。
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まぁ、それはわからないが、結局、人間を描く、ということ、芸術を描く、作る、ということは、他者を見ることで、自分を見出す、自分と向き合うことでしか達成はされない。
嘘はすぐに見抜かれるし、作品に反映される。八虎は今はそれを模索中だろうが、彼は基本的には本音ではあまり話さない。空気、他者の感情、評価、そういったものに、敏すぎる。
それを、創作を通して殻を剥いていくように、自分の芯に何時しか出会えるだとしたら、これほどに素晴らしいことはないだろう。
芸術とは、自分以外の何物でもないのだから。