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THE DESIRE AND PURSUIT OF THE WHOLE 邦訳版③ 本編① 第1章 フレデリック・ロルフ著   雪雪 訳

『アダムとイヴのヴェニス』

第1章

プラトンの『饗宴』の第193章に次のような言葉がある。

『全一への希求と追慕は愛と呼ばれる。』(河村錠一郎訳)

親愛なる読者よ、この言葉を選んだのは、ニコラスとジルダの物語において、あなたの感嘆を誘うためだ。

そのためには、たくさんのこと、ここで起きたこと、もうすでに起こってしまった出来事の説明の核心について触れなければならない。
私がそれを請け負うが、これらの出来事は私の過失ではない。
もし、予め出来事とエネルギーとに決定的な軋轢あつれきがデザインされていて、それによって一人の男と一人の女中メイドが引き合わされたとして、そのことに対して異議を唱えるつもりはない。
私はこの世界の支配者ではないし、単なる記録係にすぎないのだから。
個人的には、この特別なメイドを、この特別な男に引き合わせることについては、明確な意思があったとはあまり思えない。物事全般について私が気付くある種の合理性というもので考えれば、この神の仕事というものは、二つの地方を破滅させ、また、数十万人ものキリスト教徒を大虐殺することなく成し遂げられたのではないか、と、そうちゃっかりと想像してしまう。
だから、私も、他の誰にも理解できないような理由を詮索するつもりはないし、偶然の一致を説明しようとも思わない。物事は、彼らの行動どおりに起こっただけだ。
私の仕事はただ、私の友人であるニコラスとジルダについて、彼らが私に語ったありのままの事実を書き記すことである。もしその結果が断定的に過ぎると思われるならば、それはもちろん私が悪い語り部だということだろう。その責任を負うことを拒むつもりはない。
親愛なる読者よ、私が言いたいのはこれだけだ。これらの驚くべき出来事は私が語る物語の通りに起こったことなのだ。個人的には、面白いし、ウィットにも富んでいると思える。
あなたは私と同じ嗜好かもしれない。あるいはそうでないかもしれないが。

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ニコラス・クラッブは、ギリシア語の教授の悲鳴と羽交い締めされたかのような唸り声とを交互に聞かされ、暴力への希求をふとこるほどに退屈していた。

彼は11月末にヴェネツィアを出発した。6トンの重さのトポ (漁業用の船)に一人で乗り込み、イタリア沿岸を南下する航海に出た。他者とのあらゆる会話を避けて、自分自身の社交を徹底的に楽しむこと以外には、何も考えていなかった。
ちょうどその時、彼は多くの人々に嫌悪を抱いていた。

トポとは、チオッツァやガステッロのスクエライウオーリがラグーンやアドリア海近辺で使うために建造した、不格好だが、高性能な小型船の一種である。それは頑丈で底が深く平らで、丸く鈍い曲面でノーズで構成されており、船体の下には奇妙に湾曲した大きな舵がついていて、熟練者の手にかかれば、操舵装置を兼ねた役割を果たした。速く進みたい時は、立って漕がないヴェネチア式で漕ぐのだ。

1900年代のイタリアの都市キオッツァ


トポ ※画像をお借りしました。

ニコラス・クラッブの舟は、言うまでもなく、彼のために特別に作られたものだった。彼は他人と同じようなものを持つことはなかった。舟の外側には、他のトポと同じように勾配があった。
しかし内部は、スクエライウオーリの仕事を終えた後、家具職人によってきれいに仕上げられていた。その無地で重厚な、よく削られたオーク材は、半ダースも塗られた上質なコーパルがキラキラと輝くニスの下で、いつまでも甘く清潔に見えた。船尾には、通常よりやや小さめの帆が1枚張られていた。

コーパルはナワトリ語で香りを意味する。樹木の樹脂で、18世紀にヨーロッパにおいて上質な木工用ニスに使うために重宝され、家具や馬車などで使用された。アメリカでも20世紀に列車などに使われている。

コードとウィンチと滑車プーリーの独創的な配置によって、ニコラスは舵を握ったまま帆を張ったり降ろしたりすることができた。
ニコラスはこの船を「セレーネ」と呼んだ。一般的なトポは、前後部に甲板を備えた馬車のようなものである。しかしクラッブの船には、風と水に強い低い長方形の船室が、船尾の中間に設けられていた。船室にはカポックのマットレス4枚で作られた快適な長椅子と、小さなストーブがあり、その鉄の煙突は、煙やガスが戻るのを防ぐ障壁になっていた。
屋根の上には本がぎっしりと詰まった棚があり、ベッドの上には衣服の入った箪笥、それから他のものとが入ったチェストも置かれていた。また、前甲板の下には、食料用の広々とした戸棚があり、真水とキャンティワインとがそれぞれ1樽ずつ積まれている。キャビンとの間のスペースの防水シートの下には、ストーブ用の月桂樹のまきが積まれていた。船尾にあるもうひとつの同じような戸棚には、石油タンクと雑多な必需品が収められている。

特に船乗りの知識もなく、秋の終わりに近いこの時期に一人で航海に出るというのは、月並な視点から見れば、狂気の沙汰としか言いようがなかった。 つまり、朝食の前にお湯を飲み、夕食の3時間前に紅茶を飲みクランペットを食べたがるような俗物の感覚からすれば、シンプルに狂っていた。

茶色のブーツをきちんと履いて、リネンを固く糊付けし、靴下とサスペンダーは念入りに干してある。クラッブが取り憑かれた欲望は俗物のそれではなかった。彼は新鮮な空気と広い空と素敵な孤独を求めていた。獣のようにあからさまな嬌声を聞かされることもなく、眠ることも、考えることも、そのすべてを広い視野に置ける絶対的な自由を手にすることを望んでいた。
そして、秋と冬の厳しい寒波にもかかわらずも、彼はその望みを叶えた。
ブランケット・オーバーオールのよく手入れされた楽なスーツを、上質な英国製オイルスキンの下に着ていたからだ。二枚重ねにすることで乾燥も保たれていた。


オイルスキンは防水性の布で、船乗りや湿気の多い地域で着用される衣服(カッパなど)で使用される。


6枚の英国製毛布は、端から端まで縦に縫い付けられていて、それをカポックマットレスの下に敷き、毛布は両端が開いているだけなので、息苦しくもなく、悲惨なことにはならなかった。水やコーヒーやワインは、必要なときにはストーブで沸かして飲んだ。彼は自分の高貴な血によって、自然な熱を産み出していたから寒くはなかった。そのバネのような足で舵を握り、セレーネを誘導する。

彼はこうして日々を過ごした。たいてい、午後にはどこかの小さな港に寄港した。陸地から2~3マイル以上離れた場所にいることはなかった。彼は出来るだけ陸上には上がらずに、水、ワイン、燐寸マッチ、煙草、油、ポレンタ用のミール、パン、卵、マギーコンソメスープ、 チーズ、オリーブ、エンドウ豆、レーズン、ナッツ、オレンジ、フェミール、たんぽぽ、コーヒー、サラダなどの物品を補給するためだけだった。


ポレンタは北イタリアを代表する食べ物で、トウモロコシの粉を火にかけて湯や出し汁で練り上げたもののこと。

イタリアの海岸線はすべて(もちろん、アドリア海に面したモンテ・ガルガーノのブナの原生林を除いては)、ブナの原生林にに覆われて、鉄道に囲まれている。


現代のモンテ・ガルガーノ

つまり、鉄道に触れようと思えば、あるいは、触れざるを得なくなれば、文明から離れることは出来ないのだ。文明との接触を絶つことはない。ニコラスは停泊したいときにだけ停泊した。それは、チェルヴィアやジュリアノーヴァ、ヴィエステやビシェグロといった辺鄙な場所である。それぞれの場所で飼い慣らされた漁師を捕まえては、賄賂を与えて自分の用事をさせ、そしてまた出航して漕ぎ進み、月のない夜や悪天候の夜を過ごすことのできる寂しい停泊地へと向かった。港や船着き場でも、彼はじっと座っていた。別にそれを恐れることはなかった。戦いにうんざりしていたからである。彼は長く、そして辛く戦ったのだ。

12月の終わりに、彼はプロモントリオを一周した。クリスマスを荒れ果てた海で過ごした。
クリスマスは彼にとって、全世界が完全に否定している素朴さと友情と愛を意味する。
「だから、一人でいる理由がある」と、彼はそう言っていた。

天候は最悪だった。雨は絶え間なく降り続いた。ニコラスはトポ全体を防水シートで底までぴったりと覆った。錨泊びょうはくのための居心地のいい巣が出来た。しかし 彼は、オイルスキンを着て舵を握り、シーツを手に外に出た。
雨に顔を打たれて、彼の目から苦く醜い幻影を洗い流した。

12月27日の夕方、古代レギウム、イタリアのレッジョ・ディ・カラブリアで、彼は見た。
大都会とその膿みきった人間の集合体を避けるのが彼の習慣だった。そこでは全ての人間が愛を持ち、しかしそれぞれに憎しみも抱えていて、全ての人が彼への無知、知的無関心あるいは欠如を持っていた。そのくせ彼も愛は不在でいて自身への愛への貪欲さがあり、常に非難の的だった。

約11キロメートルほど離れた左前方に、もうひとつの大きな都市があった。
古代メッシーナ・ディ・シチリアである。神父たちが疫病や昼日中の貧しい人々を避けるように、彼はそこも避けた。
帆を広げ、重くボロいオールを漕ぎ、狭い水路をできるだけ早く抜け出し、岩礁スキュラ(※スキュラはギリシャ神話の王女、或いは怪物。岩礁に変えられた)と灯台のその向こうにある大海原に出る。
しかし、その一方で、南側からしとしとと降り続く雨に、暖かい突風が来ていて、彼は岸からかなり離れた場所に停泊することにした。そこは理想的で安全な停泊地ではなかった。
イタリアの蒸気船19隻がこの海峡を利用している。
他の国の船は言うまでもない。しかし、季節は冬だった。天気は単純に言って、最悪だった。海流は北から南へと強く流れていて、喘ぐような風が南から北へと吹いていた。ニコラスは雨に濡れ、そして退屈だった。彼は南への風を待ちわびていた。彼は、マストヘッドと船首と船尾にハリケーン・ランタンを灯した。そしていかりを下ろし、トポがうねりに勇敢に乗るのを確認した。そして火を付けると、服を脱ぎ、乾かした。それから、食事とワインを取り、煙草で一服、その後に、毛布にくるまりながら、ピンダロスのテッサリアのランナーについて叙情詩を読み、眠りへと落ちた。
その夜、眠りの中で、黄昏たそがれの神の柔らかく温かい胸の上で、何も言い寄ることもなく、彼は三度、祝福された忘我ぼうがの境地に達した。

古代ギリシアの詩人ピンダロス。

ニコラス・クラッブには、あらゆる偉大で特異な人物たちと同じように、彼を守る魂がそばにいた。馬鹿にしないで欲しいが、彼はそれを守護天使と呼んでいた。彼は、自分自身について知っているのと同じくらい、いや、それ以上にこの世の誰よりも、その存在について理解していた。

守護天使は常々つねづね彼に警告を与えていた。そのため、危険、危機が不意に彼を襲うということは、今までなかったのだ。どんなに親しい友人であろうともと、或いは敵であろうとも(長い目で見れば同じものだが)、彼の居眠りを見つけたと自慢することはできないほどだったのだ。
強いうねりの海に揺られながら、彼は朝の4時半過ぎまで、ぐっすりと眠っていた。そして彼は突然、何かが起きるのをあらかじめ知っていたのか目を覚まし、予感に胸を膨らませた。その日最初の煙草に火をつけ、船室のドアから顔をのぞかせた。

風は弱まっていた。夜はどこまでも暗く、静まり返っていた。雨は冷たい槍となって降り注いでいる。彼は一糸まとわぬ姿で外に出た。いくつものランタンが喫水差船尾トリムで舟を登っていった。無情な天の荒れ狂う涙が、2、3分は彼の肉体を傷つけただろう。そして再びキャビンに飛び込むと、体を乾かし、毛布のオーバーオールとオイルスキンに着替えた。火を付け、コーヒーを淹れる準備を始めた。彼は夜明けにいかりを下ろすつもりだった。
そしてもう一度、船室のドアから漆黒しっこくの夜の闇を覗き込んだ。

突然、何の前触れもなく、信じがたいほど恐ろしい4つの大災害が起こった。とてつもなく恐ろしい暴力が、彼の人生を真っ二つに引き裂いた。

メッシーナとレッジョの遠くの灯が、雨のヴェール越しに、彼の左右で燃えていた。何十万もの何百、何千という悲痛な叫び声が、まるで巨人の雄叫びのように黒い夜を、彼の脳天をも貫いた。小さな時計が5時を告げている。
彼は船室から飛び出し、叩きつけるようにドアを閉めた。視界に入るすべての海岸灯が突風に吹かれたように消えている。
静寂が訪れた。彼は一人、不可解な暗闇の中に立ち、何かを待っていた。雨は、水道の蛇口をひねったかのように止んでいた。クラッブは自分の鼓動を数えた。世界の下にある巨大な口が、彼を吸い寄せているようだった。
いや、彼は実際に、下へと吸い込まれるのを感じた。ものすごい速さで、下へ、下へ、下へ、下へ。船の全てのものが立ち上がっている。一瞬のうちにいかりを放し、潮流ちょうりゅうに身を任せて、舵を握ってしゃがみこんだ。下降は永遠に終わらないと思えた。カリュブディスのことが脳裏をよぎった。しかし 、カリュブディスは少なくとも10キロは彼の前にいるようだった。盲人ならば、この底のない暗闇の中で、見える限りのものを見たかもしれない。この緑色の、暗い、海の世界にある壁のない井戸の底に到達することはあるのだろうか?いや、決してない。

カリュブディスはギリシャの伝説におけるメシナ海峡に棲む怪物で、大渦潮を擬人化したものと言われており、近づく舟を飲み込む。

今度は吸い込まれるように、彼は舞い上がった。怪物のような高波の水面に噴き上げられたかのように見えた。そして、計り知れないほどに奇怪千万な撃墜音と、巨大な残骸の墜落が、彼の両脇にある遠くの岸辺の全方位から、彼の耳を襲った。

それでも、彼は信じられないほどの速さで立ち上がった。全神経を持ってして暴れる舵にしがみついていた。何が起ころうとも彼は心の準備をしていた。そのとき氷のような雨が再び降ってきた。彼はただ舞い上がっているだけではなかった。舳先が北を向いていることは理解していた。
しかし、背後から吹きつける風が、恐ろしい潮流が、彼を南へと押し流していることを告げる。即座に、彼は舵を反転させた。そして、少なくとも自分の知っている海原うなばらのある場所まで逃げ帰った。
海はその深みから持ち上げられた油のようになっていた。今まで、いや、いまだかつて、これほど傲慢な波を孕む海を航海したことはなかった。その底知れない大波は、まるで神々を追い求めるかのようだった。


第2章へ続く

次回は9/25頃更新予定です。




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