短歌と俳句はムズカシイ
以前、山形県の銀山温泉を訪れたことがある。
お目当ては温泉と、銀山温泉の光景、そして、近くの大石田にて催されている古今雛の展示だった。
その古今雛の展示は大石田でやっていて、銀山温泉からバスで大石田駅まで送迎して頂いた後、歩いてかの場所を探した。
田舎だった。何もないが、空気が旨い。雪が多い。
雪国の雪は都市部の人間の想像を遥かに絶する。音のない街だった。
大石田の民俗資料館に展示されている古今雛を眺めていると、施設の人が、話しかけてきた。お客らしき人は私だけだった。
隣の建物も見ていきますか?と尋ねられて、なんとはなしに頷いた。そのままついていくと、古い家屋に通された。
「ここは歌人の斎藤茂吉さんが疎開されていた場所なんですよ。聴禽書屋(ちょうきんしょおく)と言いまして、フクロウとか、ああいう猛禽類ですね、そういうものの声を聴く場所という意味で……。」
歌人の斎藤茂吉は偉大な人である。然し、私はこの時点では、斎藤茂吉の歌なんて読んだことはなかった。
「なるほどですね。」と、仕事のできないリーマンの定形の受け答えをしながら、案内してもらった。言われるがままである。
聴禽書屋は古びていて、寂れていた。そして、静かだった。窓から、山々が見えた。
「白き山っていうのは、あの山々のことで……。」
私は、その『白き山』が斎藤茂吉の歌集だとは識らず、
「なるほどですね!」とわかったように相槌を打った。
私は短歌を詠まない。短歌、俳句の類は難しすぎると感じる。
31音、17音の言葉を紡ぐのは、どれほどの感受性、どれほどの知識、どれほどの技術が必要なのだろうか。
短歌ではないけれども、私の好きな漫画、『あかぼし俳句帖』では、そのように、限定された言葉の文学を丁寧に紹介していて、是非全文章を愛する方に読んでいただきたい作品だ。
この漫画は全6巻で、打ち切りになってしまった。
窓際族のサラリーマン赤星が俳句に出会い、そこで仲間と切磋琢磨していく話である。
有季定型の句会に入り、そこで吟行なるものをする。吟行とは、様々な場所に行って、そこで見たもの感じたものを句にすることらしく、今作でも吟行が2回行われる。
1回目は句会で鎌倉へ、2回目は思いつきで田舎へ美女二人と、という感じで、この2回目の吟行は一つのクライマックスである。
俳句は皆で批評しあい、添削を受けたりする。
句会の先輩の勝さんがいい。勝さんは怖い感じのじーさんだが、然し、本質的なことで叱ってくれるし、優しいのである。ちゃんと作品を見てくれる。この俳句結社の人はいい人が多い。
作品の後半では、才能のある女性が出てきて、彼女が尾崎放哉が好きで、尾崎放哉は自由律俳句の俳人だった。彼女もまた、彼女の美しいと思うものを作るためには、定型では難しいと悩んでいる。
また、ヒロインは真面目な女性だが、彼女は『つまらない』自分の俳句に対して葛藤を抱く。先の才能のある女性の、自分にはない毒気に対して、弱腰になってしまう。この葛藤の昇華も、2回目の吟行でなされる。
自分らしい表現というのは難しい。研鑽を積んだ後、壁は現われる。
その壁を突破するのは、結局は己しか出来ないわけだから、自分を好きになる以外にはない。自分の特性を知るべきなのだ。
どうでもいいが、尾崎放哉と言えば、川端康成は遺作の『隅田川』で、あの有名な『咳をしても一人』の句を作中に引用している。
孤独の極地を詠んだこの句を作中に取り入れてから筆を置いて、川端は逗子にてガス自殺をした。