THE DESIRE AND PURSUIT OF THE WHOLE 邦訳版② 序文② 雪雪 訳
前回はこちら↓
※本文は翻訳。写真下文章は注釈、詩は引用になります。
フレデリック・ウィリアム・ロルフの幼少期の仔細な記録はない。
カムデン・タウンにある音楽学校に通わされたあと、彼の道楽と不満によってその学校生活は短命に終わった。若きロルフは1875年、15歳で家を出た。
その後10年間、教師として生活費を稼ぐことに成功した。その経験は彼に、人生と文学に関する狭い、けれども深遠な知識をもたらした。彼の家族の宗教理念はプロテスタントの英国国教会であったが、しかし、ある日突然、ロルフはローマ・カトリックに改宗した。
1年後、ロルフは自ら司祭候補者に名乗り出た。そのとき彼は25歳だった。
しかし、この時も、そしてその後の聖職叙階(※カトリックの秘跡の一つ。聖職者は任命する儀式)の試みも失敗に終わった。彼の気質はすでに、その芸術的嗜好の奇抜さによって明らかにされていた。
彼の上司たちは、聖ウィリアム・オブ・ノリッジの絵である『埋葬』を描いた風変わりなこの神学生の中に、神聖を見出すことは出来なかった。そこに描かれた聖人の鼻を、自身の鼻と同じ形に描くようにして、それをロルフは自画像としたのだ。
司祭になることは、この英国国教会信者であり、ピアノの製作者の息子でもあるけして裕福でない息子にとって、永遠の夢となった。
その波乱に満ちた生涯を通じて、彼の服装は聖職を連想させるものだった。時には自分のことを司祭と呼ぶことさえあった。
『フレデリック』というファーストネームを「神父様」と読まれることを期待して「Fr.ロルフ」と名乗った。
このような拘りの理由を辿るのは難しいことではない。ロルフは自分は他の男性とは違うと感じていて、女性には嫌悪感を抱いていた。神に仕えるものは必然的に独身なのだ。
しかし、彼は普通の人々の世界に引き戻された。自分を慰めるために、彼は「コルヴォー男爵」と名乗った。その肩書きで、画家、或いは司祭候補として落選した彼を無視するような人々にも注目されるようになったが、収入源にはならなかった。
6年間、「コルヴォー男爵」は運命に翻弄され、あちこちへと転々としていた。
奇想天外な不運の生涯は、おそらく現代の作家の中に比肩する者はいないだろう。
彼は、海中写真を撮るための新しい機器を発明し、写真を自然な色で再現できるプロセスを発見したと主張した。しかし、資金繰りに失敗し、写真家の「学習者」としてのはした金を受け取ることに留まった。
それから、彼は家具をデザインし、特派員を務め、家庭教師という有り難くもない仕事に戻り、オリウェル神社のために横断幕を描いた。
しかし、これらすべての仕事を通して、彼は無一文のまま、餓死寸前になり、スコットランドでは「パジャマ」姿で宿舎から追い出され、ウェールズでは労役場に逃げ込んだ。
けれど突然、『イエロー・ブック』に掲載された6つの物語をまとめた『トト物語』の作者として、マイナーな名声を勝ち得た。
ヘンリー・ハーランド、ケネス・グラハム、ジョン・レーンらが拍手喝采を送り、文学の道へ進むよう励ました。彼はロンドンに戻り、そこで新たなキャリアをスタートさせた。
その後10年間、ロルフは苦悩の日々を送った。彼の仕事は広く称賛されたが、ほとんどのものはお金にはならなかった。状況だけが問題だったのではなく、彼自身の性質がそうさせたのだ。聖職者としての野心を拒絶されたことと、自分が一人の男でしかないという自覚が相まって、迫害と不公平の慢性的な感覚が彼を苦しめた。
全ての人を疑い、自分に好意を寄せてくれる人までも恨めしく思うようになった。
ヘンリー・ハーランド、トレバー・ハドン、ショルトー・ダグラスをはじめとする十数人の作家が、苦闘する彼を支援するために身を投じてくれた。
しかし、偶然の出来事に神託を見出す信心深い者と同様に、ロルフは全ての不幸の中に敵の手を見ていた。敵だと見做すと、彼は吠えた。彼は、不必要な口論で時間と気力を費やす悪意のある恩知らずとして、人々から敬遠されるようになった。
しかし、ロンドンで活躍したその10年間に、彼はいくつかの驚くべき本を書いた。
「ボルジア家の年代記」である『ドン・タルキニーオ』は、1495年を舞台に、ボルジア家の若い貴族の24時間の生活の記録を書いた作品である。
『彼自身のイメージの中に』は、最も驚くべき、幻想的で気まぐれであり、奇怪で不規則な、ウサギのような本と評された。また、『ルバイヤート』はルシャの詩人ウマル・ハイヤームの「ディアフォティック」な詩(皮肉やユーモアたっぷりの作りの詩)の翻案したものである。
そして何よりも、『教皇ハドリアヌス七世』である。このロルフの傑作は、英語圏で最も注目に値する書物の一つなのである。この本をまだ手に取ったことのない人は幸福だ。これは彼の自伝を劇的に表現し、 彼が人々に記憶されることを望んだ「ロルフ神父」の物語として理想を藝術化した作品だ。いや、それだけではない、彼が望んであろう将来もがこの中に輝いている。
『教皇ハドリアヌス七世』はあまりにも素晴らしい作品だった。しかし、この作品は広く称賛されはしたが、悩める作家本人には何ももたらさなかったのだ。彼はオックスフォードに引きこもり、まだ喧嘩してはいない友人の秘書を務めていた。ジーザス大学の校長だったハーディ博士である。
ロルフがロバート・ヒュー・ベンソン神父やC・H・ピリ=ゴードン氏と親交を持つようになったのは、1905年から1906年のことである。
この関係が彼の最後の仕事である本書へと繋がっていった。文学的なプロジェクトにおけるコラボレーションは、この2人の新しい友人との間に始まった。
しかし、やはり彼らも、ロルフとの友情に長続きはしなかったようだ。ロルフ神父は別の友人に連れられてイタリアに1ヶ月の休暇に行った後、その友人との関係も途切れたのである。
ロルフ神父は、ヴェニスという街、そしてヴェニスでの生活にすっかり惚れ込んでしまったのである。彼はイギリスに戻ることをきっぱりと拒否した。その代わりに ヴェニスのホテルに落ち着き、請求書の支払いを無視し、自国の友人たちに助けを求めた。彼らの援助の条件はイギリスへの帰国だったが、しかし、ロルフはそれも拒否した。どころか、彼の友人たちへの手紙はますます頻繁になり、罵詈雑言にまみれた。そしてついに、ベンソンによって未開封のまま破棄された。彼の著書の成功が期待されることで、訴訟の判決が出るまで小遣いを貰えるように説得していた弁護士との関係も、笑えるほど辛辣な手紙のシャワーの中で終わりを告げた。
ロルフは無一文でヴェニスに残された。
しばらくして彼はホテルを追い出された。その後、彼は新しい信用を得ることに成功した。しかし、それでもまた追い出された。その恩知らずさ、貧しさ、そして性的倒錯の疑惑の両方から、彼はイギリス人居住者の間で、それらの言葉の代名詞となった。
1910年、彼は肺炎によりヴェニスにある英国診療所に入院した。しかし、その3年後、退院してから、夕食後にベッドに戻り、ブーツを脱いで横になると、そのまま息を引き取った。
『アダムとイヴのヴェニス』は、ロルフ自身の晩年の記録であり、彼の立場から見て、彼に手を差し伸べるべきだった友人たちへの復讐の書でもある。
最も注目すべきは、ボブーゴ・ボンセン牧師である。C. H. ピアリー・バスローは、ベンソンとピリ=ゴードン氏から取ったものであることは明白だ。ベンソンとの諍いについては長くなるのでここでは割愛するが。
双方に非があったのは間違いない。幸せそうに仲良くしていたピリ=ゴードン氏との喧嘩では、ロルフは恩知らずの極みに達した。彼は1年以上、ピリ=ゴードン家の費用だけで生活していたのに。ヴェニスでの休暇を与えられたのも、彼らの紹介によるものだった。
彼らは100通りもの方法で、ロルフを大切にしてきた。経済的援助だけではなく、愛情をも与えてきたのだ。
そして、彼らがイタリアでロルフを支援することを拒否したとき、ロルフが彼らへの報酬として贈ったものは、一連の、非常に愉快ではあるが、同時に辛辣な手紙で糾弾されること、そして『アダムとイヴのヴェニス』の作中人物として風刺されることだった。
『アダムとイヴのヴェニス』は細心の注意を払って書かれた。4つの原稿(写本)が現存し、それぞれに文章のヴァリエーションがある。
それらの原稿からは、ロルフ神父の誇りであり、趣味でもあった精巧で美しい筆致を堪能できる。この点からも、ロルフはもちろん、彼自身の英雄ニコラス・クラッブとも同一視もできる。
この本の手法は、クラッブを彼の創造主の冒険と不幸に(実際の書簡や言い換えた言葉で書かれた架空の書簡を含みながら)委ねる一方で 、それらの現実を抜粋し、女性であり男性でもあるヘルマフロディトスとの魅力的な幻想の恋愛に重ね合わせている。
このような方法はロルフの自己劇化の完全性を示してはいる。けれども、完璧な芸術作品を生み出すことは期待できない。そして、それは実現していないように思われる。
『アダムとイヴのヴェニス』は、絶妙でロマンチックな夢物語とそうではない陰惨な細部との不調和な組み合わせで出来ている物語だ。
この本の中でありえないと思われ、場違いだと思われるのは、実際の生活の微細な部分だろう。
ロルフの芸術性は、次のような場面で説得力を発揮する。主人公ニコラス・クラッブがボートに乗って地震から逃げる冒険を語るとき、ロルフの芸術性は確信に満ちている。
ジルドの発見は純粋な創作である。
しかし、聖ソフィア騎士団の若き中尉と怒れるニコラス・クラッブの間で交わされた手紙は、真実ではあるが、薄っぺらで誇張された茶番劇のように思われる。
とはいえ、それで『アダムとイヴのヴェニス』に対して主張できるすべてのことを天秤にかけてみても、この本が立派で驚くべき本であり、作者の天才的かつ特徴的な才能の産物であることは紛れもない。
そして、記憶に残る美しい文章が何百とある。
例えば、賢者が述べる「乞食だけが選り好みをすることができる」という言葉や、フランソワ・ド・ラ・ロシュ・フーコーのような野蛮さがある「雨は冷たい槍となって降り注いだ」といった描写だ。これ以上のことを言える作家はあまりいないのではないか。そうではないと思う人は、読んでみることをお勧めする。
そして、ロルフの句読点は終始美しい。彼が字を書くときに文字の形に気を使ったように、彼のその筆致はカンマやセミコロンに気を配るのが特徴的だ。色々な意味で、 本質的なロルフは、次に紹介するページでその姿を現す。
236ページ(原著)の敵についての彼の見解は、ほとんどの人には思いも寄らないことだが、喧嘩というもの、喧嘩をするということは、その相手を最も面白く見せるものだ、という指摘。
ヒロインの少年のような美しさに対する彼の態度、また残酷な緊張を孕んだ中での使用人であるヒロインへの態度、地震の恐怖に対するニコラス・クラッブの好奇心、ジルドの顔色を90もの言葉で正確に表現しようとしているところ、13ページ(原著)の女性への美貌に対する彼の敬意、変わりゆくヴェニスへの絶え間ない恋心などである。
このような例は簡単にいくつも挙げることができる。
最も特徴的なのは、172ページに書かれた、自分の作品が、数百ポンドもの収入を簡単に生み出す価値があるに違いないと信じて疑わないことである。
もし、仮にそれが「そんなはした金」を生み出すことができないとなると、彼はどうするか?
もちろん、「他人の手に委ねる」のである。
ロルフがこの『近代ヴェニスのロマンス』を書いたのは、主に1909年である。
その時彼は、故ヴァン・ソメレン博士の客人としてモッチン宮殿に滞在していた。
しばらくの間、彼は自分が携わっている仕事をホストファミリーには見せないように気を配っていたが、しかし、不運なことに、彼は作者としての虚栄心に動かされた。ヴァン・ソメレン夫人の好奇心を満たそうとしたのだ。夫人はページを捲りながら、次から次へと自分の友人たちを見つけたことに驚いた。というのも、登場人物のほとんど、あるいは脇役でさえも、実在の人物を想定して描かれているからである。当然ながら、レディ・レイヤード、ホレイショ・ブラウン、そしてヴァン・ソメレン夫人の英国植民地の親しい人たちが書かれており、自分の知人のほとんどをこのように揶揄することを奨励することは、彼女には決して受け入れがたい相談だった。
ロルフ神父には、本を書くのを止めるか、家を出ていくかの選択肢が与えられた。彼は1時間も躊躇うこともなく、後者を選んだ。
そのまま通りに出た。3月初旬のことだった。厳しい寒さだった。その1ヵ月後、彼は倒れ、かつてあれほどまでに痛めつけられたヴェニスの英国診療所に運ばれた。彼はゆるしの秘跡を受けることになったが、恢復できた。
『アダムとイヴのヴェニス』は、ロルフの他の著書と同様、スターになりかけた男によって書かれたわけだ。
飢えた男は良い本を書くかもしれないし、悪い本を書くかもしれない。しかし少なくとも、彼らの書くものには炎と感情があるはずだ。本書もその例外ではない。
ロルフの負けず嫌いだが不屈の魂の激しい情熱、そして生きる力が伝わってくる。
言葉と学問への愛、彼の奇妙な心の捻じれや隙間は、精神の鏡のように作中に正確に映し出される。
ロルフは、自分の本が生前に出版されることを、ほとんど期待していなかったに違いない。現在の版でも、ある人物の描写には大幅な変更が加えられている。
ロルフの死後にホレイショ・ブラウンが未払い債権者の代理として読んだところ、出版不可能と宣告されたそうだ。当時は、間違いなくそうであったのだ。
原稿はイングランドに送られ、カトリックの脱会者と親交のあった英国国教会の聖職者のもとに送られた。
そして、その12年後、フレデリック・ウィリアム・ロルフに興味を持った私は、彼の遺品を探し始めた。
この宝の山に対する情熱を分かち合える人たちが見つかることを願って。
W・H・オーデン
『THE DESIRE AND PURSUIT OF THE WHOLE』 序文より
次回より本編が始まります。
続き、9/24に更新しました。