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die guten alten Tage
彼女からは教会の香りがしました。だから、惹かれたのかもしれません。
彼女と会ったのは、ちょうど、そのバルコニーから神戸の街並みと海を見渡す事ができる、一昔前は外国人倶楽部のメンバーが会食に使っていたという、高台にある迎賓館でした。
そこで行われた会員制のパーティーに、なぜ私のような者が闖入していたかというと、先生からその招待状を頂いたからでした。
「君は僕に背格好だけじゃなく、顔まで似ているだろう。紛れていてもわかりゃせんよ。」
そんな馬鹿な、私はそう言いましたが、けれども、先生はもう決めてしまっているようで、私は仕方なく奮発して買った薄緑の一張羅を来て、それとは反対に、集めに蒐めたネクタイの中から、一等気に入りの、紫のものを首に巻き、ハンカチを胸に忍ばせると、そのパーティーに足を運んだのです。
道中、先生に似ていると言われた私は、三宮にある写真館の前を通り過ぎた時、少し前に撮影されてショーウィンドウに飾られたままになっている、自分の横顔の写真を見つめました。私は、昔撮った先生の写真を一葉、胸ポケットから取り出して、それを自分の写真に横に置いてみました。二人とも鼻眼鏡をしていて、二人とも顰め面です。ポケットに写真を戻すと、私は山の手へ向かって夕暮れの街を歩き出しました。
その迎賓館は、昼間に見ると、ノアの大洪水が引いた後、小高い山の上に取り残さたインカ帝国の石船を思わせるものでしたが、タクシーで乗り付けたそこで目にしたそれは、昼間とは打って変わって、サーチライトを浴びて輝きながら星空に飛び出そうとする帆船でした。
招待状を求められて、私は慌てて胸ポケットからそれを取り出して、ドアの前に立つ背の高い紳士に見せました。紳士は、私と、その招待状に書かれた名前との間に視線を行き来させて、訝しげに見ています。
「貴方が、あの名高い『都会の夜の森』を書かれた大先生?」
私は恐る恐る頷きました。バレてしまうかもしれない……。すると、彼の、その警戒心に曇った顔がさっと色を変えて、にこやかな微笑みが現れました。彼は私の耳元で、後でサインを、とだけ囁くと、そのままドアを開き、私の背を押しました。
ドアからは、様々な音楽と、光と、中で何かを焚いているのか、虹色の淡い煙とが渦を巻いていて、私に迫ってきました。そこでは、喧騒が喧騒を呼んで、会話も音楽に変じていました。時折、金切り声が聞こえて、それはどうやら、御婦人方が何やら喜びの声を上げているようなのです。見たこともない金銀の皿に盛り付けられた外国のオードブルが私の目の中を滑っていきます。
ウェイターの差し出すワインを手に取り、それを一口だけ含むと、このパーティーの乱痴気ぶりには、もうここには10分も持ちそうもないと、逃げられる場所を探して視線をウロウロ、足をウロウロとさせました。
幼い頃から憧れて、今こうして初めて歩く迎賓館の中は和洋折衷で、様々な調度品が置かれ、、弥勒像とマリア像が恋人めくように並んで置かれているのが目に留まりました。幾何学的な窓枠に色硝子が嵌られている広間の大階段を登ると、そこは喫煙所か、二階の廊下にはシガーの煙でいっぱいでした。
そして、ほぼ裸身で、真っ白に身体を塗りたくり、目隠しをした男娼の楽隊が、紳士淑女たちを相手取り、軽快なリズムを奏でていました。彼らからは、タバコとは違う、甘い匂いがしました。それを吸うと、気分がとても良くなるのです。
私はそれらの香を避けながら、廊下をずんずん進んでいくと、畳敷きの部屋があり、そこでもタバコを燻らす、今度は目隠した女性たちです。彼女たちは、敷かれた布団に寝転がり、気怠そうに吐息を吐いています。
私は、その場からも逃げ出して、ずんずんずんずん、廊下を進みました。やはり来るのではなかった、こんな所は、あの魔術師めいた先生の専売特許じゃあないか、そう悔やみました。
そうして、後悔しながら歩いたその先に、ちょうどドンツキにある部屋に入ると、そこには赤、緑、青、黄、黒、銀、金、玉虫色の輝きの蝶々の標本が所狭しと敷き詰められて、私は、これはこの屋敷の主人の部屋ではないかと、そう理解しました。年代物のグランドピアノが置かれていて、気付くと喧騒はドアのその先に、もう置き去りにされていて、微かに耳が震えるだけでした。
ふと、カーテンが揺れて、そこにあるバルコニーの掃き出し窓が少しばかり開いていることに気付きました。掃き出し窓は大きな四角形の鏡になっていて、私は、あっと、一瞬、その鏡に映った人を、先生だと勘違いしました。然し、それは私であって、先生ではありませんでした。先生は、私が先生に似ていると、頻りに言っていましたから、それが頭に残っていて、そのような幻覚を見せたのかもしれませんでした。
そして、風の勢いでカーテンの揺らめきが大きくなると、私はその先に、夜景を背景にして佇む、赤いドレス姿の女性を見たのです。
振り向いた彼女は、山猫めいた目をしていました。そして、私は、その彼女の目を見つめながら、そのまま、流れるように、彼女が視線を向ける神戸の夜景へと意識を向けました。きらきらと光る星空が、上にも下にあるようで、夏の夜風が頬を撫でています。
「パーティーはお嫌いですの?」
彼女に問われて、私は頷きました。
「嫌いではありません。でも、それよりも一人で本を読んでいる方が性に合います。」
「まぁ。どんな本をお読みになるの?」
彼女は嬉しそうに振り向くと、夜景を背負ったまま私に顔を近づけてきました。
「いろいろとあります。文学作品など。」
「例えば?」
「稲垣足穂に、佐藤春夫。」
「星の王様に、田舎貴族。」
「ご存知ですか。」
「ええ。いくつかだけれど……。」
彼女はまた夜景に目をやりました。時折、微かに夜船の汽笛が聞こえました。
「貴女はパーティーお嫌いですか?」
「いいえ。好きですわ。神戸は美少女の都ですから、今夜も美しい人がとても多いの。」
「東京は美少年の都。」
「ほんとうに。でも、お星さまやお月さまが出ている日は、こうして夜空を見ている方が、パーティよりももっと好きです。」
「今晩来て驚きました。あのパーティーは、まるで100年前のようですね。」
「この夜だけ、いいえ、この場所のこの夜だけ、一世紀前のパーティーなのかも。」
「1920年代の……。」
彼女は、黒曜石めいた目を瞬かせました。そこには、人形のような連なる美しい睫毛が反り返っています。
「それならとても素敵なことですね。」
彼女はそう言って、私に顔を近づけると、そのまま手を延ばしました。彼女の手は美しい白いレースに包まれていて、触れればサラサラとした感触がしそうです。彼女のお目当ては、私のネクタイでした。
「紫がお好きなの?」
「ええ。紫は王様の色ですから。」
「禁色ね。」
「識っていますか?」
「もちろん。王様の、高貴な人の、やんごとなき人の色。ムラサキ貝の体液からその色を染め上げるのは、とても大変な仕事だったそう。」
「僕はそれを先生に教わりました。幼い頃に。」
「私は学校で。その貝の内臓を絞って染料にするときの音がパープルの語源だって……。プワプル、そうして言葉は始まるんだって、私の先生が教えてくれましたの。」
「とてもお詳しい。学者みたいだ。」
「受け売りですから。でも、その話は、どうしてかいつも心に残っていますの。」
「子供の頃の記憶の幾つかは、死ぬ間際まで覚えているものでしょう。」
私がそう言うと、彼女は微笑み、すると、はっと天を指さして叫びました。
「ほら!」
複葉機が飛んでいるのが遠く、月に影を作るのでわかりました。そして、今後は汽笛の代わりにプロペラーの音が聞こえます。
「月に複葉機に。何か縁起がいい事のような。」
私がそう言うと、彼女は頷きながら、窓辺に飾られていた白薔薇を一輪手折って、それを髪に挿してみせました。
「月の女神。ポイペーですね。ジョルジュ・メリエス閣下ですか。」
「まぁ、複葉機では『月世界旅行』には行けませんわ。」
笑う彼女はまさにアルテミスで、ボール紙や粘土を捏ねて作られた月に乗る女よろしく、そのままひょいと、彼女がバルコニーに腰掛けると、あのムーヴィーを今こうして眼の前にしているかのようで不思議でした。
「でも、楽しいだけじゃありません。このパーティには悪徳の栄えもありますもの。」
「と、言いますと?」
彼女の含みのある言葉に、私は興味の無いように尋ねました。
「たくさんの小部屋がありますでしょう。鍵のかかった部屋。このお屋敷のパーティーには、街中の美しい少年たちがお呼ばれしています。皆、お気に入りの化粧や制服、そうね、セーラー服みたいなものを着せられて。小さな海兵さんね。そのマリーンたちが、あの小部屋で上級士官に遊ばれますの。」
「『蝶々夫人』を識っている?」
「まぁ、お詳しいのね。そう、そんな可哀想なマルチェロたちが、鍵穴を覗けば怖い怖い、そんなことをされていますの。青髭公の城だって、噂されていますわ。」
先生なら、彼女の言葉にきっとこう言うでしょう。
「それはまさにシュトロハイムの映画だね。彼女の話も魔術がかっている。彼女は魔法使いかな。」
彼女が魔法使いなら、先生はやはり魔術家ですよと、私は頭の中の彼にそう答えました。そうして、彼女はその美しい眦をゆっくりと下げて、
「美少年だけならまだ聖いけれど。」
「蝶々夫人で誘い出されたマルチェロに、私はイナガキタルホの『つけ髭』を思い出します。『つけ髭』で、青年将校が少年に軍服を着せて、口づけをするのです。目隠しをさせてね。」
「まぁ、この上ないムーヴィーね。それなら美少女に男装させて、つけ髭をつけるのも素敵だと思いませんこと?」
「それこそシュトロハイムの映画です。マーロン・ブランドに士官をやらせてみたいものだ。」
彼女の言葉を聞きながら、私は、先程話していた自分の中の先生と同じようなことを言う自分が、不思議でしょうがありませんでした。そうして、それをきっかけに、先生のことばかりを考えてしまうのです。先生は今頃お屋敷で何をしているのだろう、原稿と格闘中だろうかと、そのように考えていると、彼女はこちらを見つめて、
「何を考えてなさるの?」
「いいえ。私の先生、私の……父親、とでも呼べる人のことです。」
「その方がどうされたの?」
「いいや、何も。ただ、今、何をしているのかって。僕はよく、先生に似ていると言われるのです。そのせいかな、気になってしょうがないのです。」
「寂しいのですね。」
「寂しい……?私がですか?」
彼女は頷きました。
「ねぇ、貴方は、御父様に恋しているのかもしれませんわ。」
「恋?そんなことはありません。」
「いいえ。だって、私だって一応はレディなのに、それなのに、貴方は御父様のことを考えているだなんて。そんなのギリシャ神話でもありませんわ。」
彼女にそう言われて、私はネクタイの結び目を指先で弄りながら、また先生のことを考えました。彼女は夏の風に髪を揺らしながら、何か、思いを巡らすかのように呟きました。
「1920年代のパーティー……月の女神、月世界旅行、ジョルジュ・メリエス、それから、パープル。複葉機。美少年談義。これは本当に現実のことかしら。」
「そういえば、私がパーティ会場に入ったときに、虹色の煙がむわっと、部屋いっぱいに広がりました。あれは私に幻想を見せる魔薬だったのかも。」
「今のこれは夢かもしれません。でも、夢じゃないかもしれません。いいえ、大人になるまでは全て夢ですわ。真夏の夜のね。これは、その御父様が見ている夢で、同時に貴方が見ている夢で、それから、もしかして、きっと未来の貴方の子供が今ここにいる貴方なのかもしれない。」
彼女も相当な魔術家ですよ、そう、私は心の先生に向かって呟きました。
「君は私に驚くほどよく似ているよ。」
先生の言葉が耳朶に谺しました。都会の夜景はいよいよきらめきを増していきましたが、それは線香花火のように、いつ散るとも限りません。
山猫は美しい瞳で私を見ています。私はバルコニーにいる自分自身を、両面鏡になった張り出し窓にそっと映しました。その横顔は、驚くほど、先生に似ています。私も、先生も、魔術家だ、そう人に言われて嬉しかったのを思い出している今の自分が鏡に映っているー、然し、けれども、その自分の横顔を少しズラしてみると、思わず若い頃の自分がちらりとそこに映るのです。いいえ、それは、若い頃の自分よりも、幾分も聡明な顔立ちでした。その彼は、そのまま鏡から出ていって、この大人の男女のやりとりなどまるで興味ないように、蝶々を愛でているようです。もちろん、それこそは幻想でした。
「今ここにいるのが誰なのか、もう私にはわからなくなってきましたよ。」
「それはみんなそうですわ。ねぇ、ほら、見てください。あの街の灯を。あそこには青いモスクも、白亜の教会も、それぞれが瞬いています。それから、あの赤い屋根のシャトーのような学校。きっとあそこで、御父様も、貴方も、それから貴方の子供だって、同じ時間を過ごすの。だから、この夜は20年代のパーティーと同じ、幻よりも、本当のこと。古き良き時代。」
彼女が指差すシャトーめいた学校を見て、私は、自分があの学舎にいる幻想を見ていました。幻想、というよりも、これは記憶であり、予覚でありました。そのデジャ・ヴを胸に遊んでいると、彼女は言いました。
「女の子はいつでも置いてきぼりです。ねぇ、貴方が御父様に恋い焦がれるのもいつかは終わりますわ。貴方が御父様になればね。御父様になることほどの喜びはありませんわ。だって、もう一度、理想の美少年だった自分に会えるんだもの。見てください。彼処にベツレヘムの星が瞬いています。きっと、貴方の愛息ね。貴方の理想のdie guten alten Tageをこれから生きる人。彼に、佳き友人が出来ますように。」
彼女とあの後、どのような話を交わしたのか、それはまるで覚えておりません。どのように帰ったのかも。ただ、お土産にもらった紙袋の中には、金銀の小さな金平糖が転ばるばかりでした。
明け方、屋敷に戻ると、先生の姿はありませんでした。もう、ずっと、先生の姿は見ていません。
私は二階に上がると、蚊帳の中で眠る鴇色の唇をした息子の手をそっと握りました。
彼に、佳き友人が出来ますように。die guten alten Tageをこれから生きる人よ。それは彼への祈りと同時に自分に語りかける魔術のようでした。