すべてが『N』になる ダンス・マカブル⑤
また能の話である。
まぁ、11月に、私の愛するダンス漫画であり、お能の漫画、『ワールド・イズ・ダンシング』の最終6巻が発売されたので、その感想である。
私は、今作が欲しくて、トータルで5件ほど書店を巡り、そのうち3件は京都の書店であるが、どの店にも置かれていなかった。
おそらく、部数も少ないのだろう……。然し、こういう本を置かない時点で心底ガッカリである。
そりゃあ商売であるから、売れる本を置くのは当たり前だろうが、最早刷るだけで金になる何十万、何百万の、実売ではなく発行部数を大々的に喧伝する超人気漫画たちは、そんなに仕入れなくても良くね?と思ってしまう。刷られてるだけじゃん、誰も読まない本が何十冊と在庫として棚に眠るだけじゃーん!と思ってしまう。
基本的には、『スパイファミリー』とかは私が読まなくても大多数の方が楽しんでいるので、私が読むことは永久にないだろう。その代わり、あんまり売れていない作品をこそ、私が代わりに読むべきなのだという気持ちである。
どうせ、来年は『サカモトデイズ』が鬼のように刷られるのだろう……。でも、『サカモトデイズ』は面白いし、演出がかっこいいね〜。
そういえば、先週も『サカモトデイズ』に能が出てたな。
まぁいい……。私は今作を手放さずに、稀覯本になったとき、欲しいと懇願されても絶対に譲らず、何度も耽溺しよう……そう決心したのである。
『ワールド・イズ・ダンシング』は美しい漫画であり、藝術的な作劇、演出が楽しめる作品である。今作では鬼夜叉こと世阿弥の少年時代がメインとなるが、室町の世の残酷さの中で、芸事に邁進する鬼夜叉が、父との違い、またライバルたちとの違い、そして、肉体とは何か、踊りで何を顕すのか、
そういう自問を重ねながら、その天才性を発揮していく。
4巻で描かれる『卒塔婆小町』から、この漫画の格はグッと上がる。つまりは、能を描いていながらも、どこまでも漫画的であり、動的であり、ヒンリギであるのならば、『動だ』(意味が違うが)と言うこと請け合いの畳み掛けるような演出で持ってして、最終的には頂点、つまりはピークへと持っていく。それは、読者の感情を押し上げていき、作中の観客同様に、心を天上へと連れて行く見事な演出になっている。
5巻では、『松風』の『汐汲』が謡われるが、ここら辺は鳥肌モノの完成度である。
ダンス漫画では、私は『ダンスダンスダンスール』も好きだし、『ボールルームへようこそ』も、『テレプシコーラ』もみーんな好きだが、特に前者二つなどは、詰まるところは主人公の華、天才性、カリスマ性などが最重要ファクターになっている(気がする)。そのカリスマが花開いていくことこそが、読者のカタルシスへと繋がる。
『ワールド・イズ・ダンシング』の鬼夜叉も、無論その輪に入るキャラクターなわけだが、然し、読んでいて思われるのは、今作はキャラクター以上に、お能の演目にこそ、輝きを齎すという構成で出来ている、ということである。
鬼夜叉という媒介を通して、霊たちが語りかけて、そこに、日本の幽玄がふっと顕れては、また消えていく。その縹渺たる美しさは、鬼夜叉が最終6巻で掴み取るものと同質のものである。
今作の6巻では舞比べが行われる。同じく天才である犬王の限界を超えた最高の舞、つまりは、個人が成し得る最大の美を将軍の前に見せつけたあと、さぁ、鬼夜叉はどうするのか、というところで、鬼夜叉の、あまりにも時間を破壊していくゆったりとした舞が始まる。
それは、肉体とは何か、踊りとは何か、ということを表現してきた鬼夜叉にとって、ただ一つの普遍性の獲得であり、藝術への奉仕であり、誰でもが繋がれる藝術という、個をより全を取る、という、犬王とは対象的な価値観である。
天才が死ねば、藝術は産まれないのか。
そうではない、藝術は、連綿と紡がれていく糸なのである。クライマックス、鬼夜叉は一気に、つまりは、三島由紀夫が寺山修司に語るところの、「お能の時間感覚ってのは、すごい速さだ。一歩で時代が変わるんだから」よろしく、時空を駆けて、私達の時代へと到達してみせる。このラスト3ページは三度の鳥肌の、素晴らしい構成であり、藝術、つまりは演目に奉仕してきた今作において、その伏線が見事に回収される作劇となっており、静かに終幕を迎える。
ああ、美しい、素晴らしい漫画である。
最終巻の表紙、作中では見ることのない、青年となった鬼夜叉、世阿弥が微笑んでいる。
たくさんの方に読んでいただきたい、傑作ダンス漫画である。
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