
THE DESIRE AND PURSUIT OF THE WHOLE 邦訳版⑥ 本編④ 第4章 フレデリック・ロルフ著 雪雪 訳
『アダムとイヴのヴェニス』
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※本文中の写真下の注釈は私が記載しております。
第4章
マリーン・ファリエルとは、ヴェネチア共和国のドージェの名前である。
(※ヴェニスとヴェネチアは同意であるが、ヴェニスは英国側からの呼び名ヴェネチアはイタリア側からの呼び名である。)
1354年、聖母マリアの懐妊の年に、共和国の裏切り者として斬首された(※原文ママ1355年が正史)
親愛なる読書諸君は、ヤハウェのように父の罪を子らに背負わせ、裏切り者の子孫について上から目線の冷笑の泥沼へと真っ逆さまに落ちる前に、成功した裏切り者が同時に栄冠を手にした愛国者でもあることを覚えておくのが賢明であろう。
そして、彼の裏切りは最も純粋な愛国者であるが故である。



実のところマリーン・ファリエル公爵がその短気さのせいで支払った裏切り行為に関しては、何ら不名誉なところは何もなかった。イタリア語で言うのならば、彼はgraziatoのであった。
彼はいい加減な神々の「寵愛から外れていた」のである。いわゆる「不運」であったということだ。
彼の敵たちは、彼の城へと行進してきた。腐敗を浄化しようとした彼の試みは、たしかに単純で、血腥いものだった。そしてまた、腐敗を恐れる人々によって、同じように血腥く挫折させられたのだ。
不器用な犠牲者であったために、彼は歴史に残る悪名高い人物となってしまったわけだ。イングランド王であるエドワード1世が歴史にその高名を刻んでいるのは、彼が如才ない主君だったからである。
彼らにはそれぞれに、そのように語られてしまう状況というものがあったということだ。

父バスティアンの娘のエルメネジルダは、祖父にマリーン、曽祖父にバスティアン、高祖父にマリーンを持つ。エルメネジルダが自らをファリエルと呼ぶのは、この上ないほどに最高の理由からだった。
父と祖父と曾祖父と高祖父の名前が梯子段のように交互に昇格していく古代的な方法で、それも全て男子系であることは、この時代の人ならば事実知っていた。
例を挙げるならばー、ボルジア家の元となった家系は、ヴェッレトリのピエトロゴリオ・ボルジアの子孫である。そして、その家系は今も栄えている。


無敵の教皇アレクサンデル6世の息子であり、そして紛うことなき彼の右腕でもあったとされるチェーザレ公爵によって財産を築かれたヴェッレトリのピエトロゴリオ・ボルジアの子孫たちは、今でも「チェーザレ・ボルジア」と「フランチェスコ・ボルジア」の名を交互に名乗っている。
この2つの名前は、彼らの一族が持つ最も輝かしく著名な名前だ。チェーザレは彼らの恩人であり、 フランチェスコは聖人として列聖されている。


ニコラス・クラッブが芥の山から救い出したのは、ドージェの娘に違いなかった。
正確には3人のドージェ、すなわち11世紀〜12世紀、14世紀、それぞれのドージェである、ヴィタール・ファリエルとオルデラフ・ファリエル、そしてマリーン・ファリエルである。
他のあらゆる身体的輪郭と同様、エルメネジルダ・ファリエルの首と肩の見事な筋肉の円みには、穏やかな公爵の気品が顕れている。
ほとんどのヴェニスの女性、純粋なヴェニスの血筋を引く者は確実に女神たちのような足つきをし、眩しいばかりのエレガントさ、ラグーンの太陽と海のような甘く豊かな静けさを持っている。
しかし、母なる自然は、エルメネジルダを造形する際に、試行錯誤を繰り返したであろうことが彼女から見て取れた。エルメネジルダは、サトゥルヌスのような見事な体型、澄んだ眼差し、その昔、世界が、今よりも500年若く、新鮮で、踏みつぶされることもなく、疲弊することもなかった頃、この甘美な肉体を生み出す塵であった頃に存在した奮い立つことのない気概と冷静さをも彼女に与えていた。
彼女はニコラスに、自分がヴェネチアのドージェの代々の子孫であることを話した。
ヴェネチアとダルマチアとクロアチアのドージェであり、ビザンツ帝国のヒパトス、それからビザンティオンのプロトペドロとプロトセバステの専制君主と領主の代々の娘であると。先祖はローマ帝国の16分の1の領土の領主だったのだ。彼らは朱色のブスキンを着用する権利を持っていた。

ビザンツ帝国の皇帝は、金色で双頭の鷲の刺繍を施した紫色のブスキンを着用していた。
ローマ・カトリック教会では、ブスキンは絹製の典礼用のストキッキングを指し、金糸の大きな刺繍が施されている。
彼女は孤児で、3日後の1月1日には17歳になる。
彼女の父親は、トラゲッタのゴンドリエーレでありヴェニスのトリニティ教会のguastaldoでもあった。
彼女は自分の母親を知らない。
しかし、父のバスティアンが、同じ舟に乗っていたバンカロのカミソリによって、本当にあっけなく虐殺され、当のバンカロは即座にアルゼンチンに逃げ去ってしまった。
それは、ベピ総主教がローマ教皇として赴任した前年のことである。母の兄は、残された唯一の肉親として、彼女をカラブリアのラ・タスカの農場に連れて行ったのだ。
ニコラスは、彼女の話に出てきた、この奇妙なTraghetto della Trinitlkという名前に少し戸惑った。
彼はヴェニスの舟の名前は全て識り尽くしていると思っていたのだ。そして、その舟の名前を、現在はゴンドリエーレだけが使っている古代の名称であることを知ったのは、彼がヴェニスに戻ってからのことだった。
Traghetto della Trinitlkとはどれほど古いものなのか?まあ、これから話すことと同じ程に骨董品だ。
1256年、セレーネ共和国は当時既に骨董品だったトリニティ教会と修道院をドイツのチュートン騎士団に与えた。

336年後の1592年、教皇クレメンス8世は、そのトリニティ修道院を弾圧し、サン・チプリアーノ・ディ・ムロヴァの神学校をそこに移設した。そしてその39年後、セレーネ共和国がサンタ・サリア・デッラ・サルーテ教会を建立するために、また、その年1631年、ペストから救われたことへの感謝を込めて、神学校は現在の場所へと移された。
260年以上にわたって人々の記憶に刻まれてきた名前が、今もなお残っているわけだ。


エルメネジルダの次のように話を続けていった。
彼女がサン・ステファノの歪んだ鐘楼のすぐ下にあるマラティンと呼ばれる小さな中庭にある、4つの部屋からなる小さな家(ナッツ材のベッドとアンティークの絵が壁いっぱいに架かっていた)に、父バスティアンと2人きりで住んでいた9年間をなんと形容し、説明すればよいだろうか、と。
彼女には、その小教区の外のサン・マルコ広場とそのバジリカ、リアルトの市場を除けば、ヴェネチアの他の場所はすべてが未知のものに思えた。しかし、この街の迷宮めいた水路は、彼女にとって最も身近なものでもあった。
彼女の最初の記憶にあったのは、確か3歳くらいのある主日(キリスト教における日曜日、聖日)のことだった。エルメネジルダは父バスティアンと一緒に玄関先でサクランボを食べていた。すると、バスティアンは突然彼女を抱き上げて、笑いながら運河に投げ込み、こう言った。
「ここからゴンドラまで泳いだら、珊瑚の首飾りをあげよう。」
彼女は恐ろしかった。しかし、彼女はそのコースを泳ぎきり、珊瑚を勝ち取った。それは、この残酷な地震が彼女から奪ったのと同じ珊瑚だ。
彼女は顔を赤らめ、素早くニコラスを一瞥した。これ以上話すことはない?いや、まだあった。
彼女は他の子供たちと遊ぶことはなかった。バスティアンがそれを禁じていて、「誰もが、私のジルドと話すのには相応しくないからだ」と。
バスティアンはいつも彼女のことを「ジルド」、あるいは「fio mio」と呼んでいた。なぜならば、彼は彼女を娘よりも息子にしたかったからだ。そのため、彼女は父親が生きている間は、男の子の服以外を着たことがなかった。ヴェニスでは、彼女はいつも男の子で通用していた。 カラブリアの叔母は、そんな彼女に閉口して、ペチコートを着せたため、エルメネジルダは絶え間なく自分自身が引き裂かれていた。
バスティアンはとても賢くて勇敢な男だったとエルメネジルダは言う。彼が市から表彰されて獲得した19個のバナーロールと17個のメダルが彼のレガッタの側面に飾られていた。
全ての森に住む裕福なものたち、特にイギリス人は彼を尊敬していた。彼は彼女に祈祷書の読み方と自分の名前の書き方を教え、ゴンドリエーレの料理と裁縫の作法を教えた。
自然、ゴンドラを漕げるようになると、それを磨くのも彼女の仕事になった。それはいつ頃だったか?はっきりとは覚えていない。泳げるようになったのは、そのすぐ後だったに違いない。
それ以上は話すことはなかった。この冗談のような話を除いては。
彼女は、しかるべきときに、彼女をrioに投げ入れたバスティアンに復讐を果たした。それは、こんな方法だった。彼女は小さかったので、バスティアンは古ぼけたオールを切り、それを割れたガラスの切れ端でとても細く削った。というのも、船尾側のオールは当時の彼女には重すぎたからだ。
そしてバスティアンはゴンドリエーレの秘儀を彼女に教え込んだ。
ある夏の朝の4時、彼女の漕いでいる座席の前に跪いていたバスティアンは、彼女がオールをforcolaから滑らせたとき、彼女を罵った。
二人はいつものようにカナラッツォを下っていた、 突然、彼女を誘惑が襲った。バスティアンが偶然にもゴンドラの自由席に立っていたからだ。カスカリラ製の舟がFornaceのいくつかの川から合流してきた。
彼女は舟を避けるために船尾を勢いよく脇に寄せ、急に動いたためバスティアンは平衡感覚を失い、壮大にcapitombolo、そのままカナラッツォに落ちた。
O Mariavergine!(※英語ではgood heavens)
しかしその時の彼は滑稽だった!彼は醜く彼女を批判したとき、彼女はオールを投げ捨て、自分もカナラッツォに飛び込むと、泳いでトラゲッタに戻った。そして泳ぎながら叫んだ。
「もうこんなユーモアのない人とは会いたくない!」
そして彼女は、バスティアンが取り落とした自分の小さなオールを回収し、他のゴンドリエーレたちが彼のユーモアの無さを批判するのを恐れるせいか、とても不機嫌そうな顔を作って戻ってくるのを見た。
それから彼女は家まで舟で戻り、彼のために栄養のあるものを家中で探して、リゾットを作った。大人になった彼女は、私の作ったあれはきっと毒だったに違いないと思った。彼女は米にペーストとレーズンと油とガーリック、レバー、クローブに赤ワインと塩とアーモンドとチーズとマスタードとオレンジと酢とコウイカと茴香に、あらゆる種類の栄養を混ぜてリゾットを作った。
彼女がおずおずとそれを彼の元へ運んできたとき、彼は全て食べてくれた。彼は彼女を再び勇敢な息子と呼んだ。
バスティアンは全てにおいて最高の父親だった。
それから、彼女が覚えている唯一のことはこれだけだった。
彼女がまだ小さかった頃、バスティアンは彼女をゴンドラの船尾の下に座らせて、死者のように善良に静かに、森林の中を漕いでいた。彼は、アンティークの硬貨やメダルを磨いては、船尾の箪笥に釘で打ち付けて飾っていた。
偶然にも森の番人たちが、イギリス人特有の詮索好きな態度で、彼女に気づいたとき、バスティアンはこう言った。
「私の小さな息子は喋らずに黙っている。そうすれば、彼らは鼻を鳴らして、彼女を放っておくだろう。」
バスティアンはとても誇り高い心の持ち主で、よくこう言ったものだ。
「ファリエル一族は卑しく、多くの不当な扱いを受けてきたけれど、ヴェネト全土でこれほど名誉ある血筋を持つ者はいない。一族の一人が、聖マルコの聖遺物(聖骸)が柱の中に隠されているのを発見したのだ。そして、御自身もバジリカの回廊に埋葬された。一族の他の一人は、サン・マルコ寺院にパラ・ドーロを建立し、そして、ダルマチアで大きな戦争が起きたとき、工廠も建設した。」


当然、彼女はそのような父を誇りに思った。
そして、彼女が大きくなり、より熟練してくると、もちろん船尾の任されて、バスティアンが舳先で漕いでいる間、いつも船尾のオールを漕いでいた。
森林地帯に住む裕福な人々が、ムラーノのガラス職人やブラーノ島のレース職人たちのところへ行くために漕手を2つ持つ彼らを重用した。
あるいはトルキセロ島やサン・フランシス・イン・ザ・ワイルズ島、あるいは 聖エンジェル・イン・ダスト島、リド島、その他の小島などへ行くために。
このようにして、彼らは大量に稼いだ。1日3フラン、豪華なゴンドラを欲しがる金持ちの領主のために、船尾に金箔を貼ったゴンドラを海に浮かべてやると、そのlordoは30フランになることさえあった。
しかし、バスティアンが死体となって埋葬されたとき、彼の所持金はわずか91フランだった。というのも、彼らはいつも、欲しいものを欲しいだけ持っていたからだ。
ポロ・アナペストと名乗るエルメネジルダの叔父が、そのとき偶然、父に挨拶に訪れていた。彼について話すことはたくさんあった。
その貧弱な叔父は、とても裕福な善良な人で、家には、24頭の牛とオリーブ畑と19ヘクタールの農場があり、無数の七面鳥の群れを飼っていた。叔父の妻は、彼女の三人の年老いた姉妹たちと家に住んでいた。
「彼はみんなの宝物だった。安らかに眠りたまえ」。
とポロ叔父さんは言った。
バスティアンを埋葬したとき、200フラン(彼自身の貯蓄から)をかけた豪華な葬儀が行われたという。
彼が今、彼女のためにしたことを想像してみてほしい。彼はゴンドラを1514フランで売った。ザッテレに住んでいたイギリス人は、そのferroだけを500フランで買っていった。それは骨董品でゴムの銃弾のようにしなやかだった。そして、箪笥を飾るコインにも価値があった。
ポロ叔父さんはまた、絵や寝台やその他の家財道具を1433フランで売った(そして銀行にある91フランは戻ってきた)。

これで合計3,038フランとなった。彼はこの莫大な富を、商業銀行で1枚25フランの価値を持つ金貨に換えた。そして、全てで122枚もの金貨へと化けた。これほどに美しいものはなかった。そして、そこにはフランがまだ13枚残っていた。
彼女は、そのフランを手付金として彼に贈ろうとした。
「でも、彼は私にこう言いいました!Sacramented Jesus! 私は孤児から強盗するわけだ!」
そして、彼は自分の財布から12枚のフランを取り出して、その銀行の紳士に、渡して、金貨を一枚受け取ると、百二十三枚にした。
彼はこれを、新生児の頭の大きさ程の新しい革製の聖体符入れに入れさせた。それを、誰も開けることがないように、重苦しい銀行のシジルの紋章で封印した。

ジルダは話を続ける。
そして、私たちをカラブリオまで運んでくれた鉄道の荷馬車の中で2人きりになったとき、ポロ叔父さんは私にこう言いました。
「ジルダ。この金貨は君のものだが、誰にも知られてはならないよ。私達2人以外にはね。君はまだ若いから、これは私が預かっておこう。君が15歳になったら、これを差し上げよう。もし君が望むならば、妻を娶り、私の家の近くに自分の油田を買いなさい。 そして、兵士になる前に、自分のためにたくさんの子供、そう、息子たちを作りなさい。君の老後は息子たちが面倒を見てくれるだろうから。」
ポロ叔父さんは私を男の子だと思っていたんです。生きているうちはずっと。だから、私は彼にそのことを伝えました。
彼は笑ってこう言いました。
「Oysters!なぁ、バスティアン!」」

その後、彼は私にこう言いました。
「それじゃあ、君の場合、妻ではなく、夫になるわけか。」
「そんなことは望んでいないの。」
と、私はそう答えました。
「結婚に関しては好きにすればいいさ。でも、叔母さんのアルクメーナが、君を立派な娘にしてくれるだろう。まぁ、最初のうちは、ペチコートを着た姿を見せておくのが賢明だろうね。」
汽車がバーリという都市に停車したとき、ポロ叔父さんはそこで女性用の衣服を買いました。私はゴンドリエーレの服の上から、ズボンを膝までまくり上げて、旅の荷車の中でそれを着ました。そして結局、それはいつも私達の旅の荷車の中で眠っていました。
叔父の妻、叔母のアルクメーナは、私を見て、多くを聞いてきました。
「ねぇ、ジルダ、Domeniddioが妃にするために選んだ聖母マリアより、あなたはいいものを持っているのかしら?」
そうして、ヴェネツィアのジルドはカラブリアのジルダになった。
しかし、女性らしい習慣に不器用だった。
「ラ・タスカで私はどう過ごしたかって?こんな感じ。最初のうちは、農家の男の子にping-pong-pang-pang-pang。
だって、度胸試しに私に話しかけようとしたから。その結果、近所の農民は誰も息子をポロ叔父さんの所に手伝いに行かせなくなったの。そう、叔父の家族であるー彼らが言うところのー野蛮な娘を恐れて。だからいっそう。
私はポロ叔父さんにこう言いました。今は私があなたの農場で働く少年なんだから。女っぽいけど、とっても強いからって。それで、私が農夫の技と神秘を物にしたら、従兄弟のアルキメデに教えてあげようって。ねぇ、旦那様。アルキメデは私の二つ年下だったの。今、彼はラ・タスカで真っ二つに引き裂かれて眠っている。彼は勇敢だった。でも私の半分も強くないのよ。ああ、かわいそうに!」

私はポロ叔父にもこう言いました。
「すべては神の愛のために。」
私は舟を買って、アルキメデと一緒に、毎朝その舟でミルクをムクリトのバーズまで運び、夕方にはボヴァ・マリーナとアボロの聖ヨハネの塔まで運びました。馬車賃を節約するためにです。私たちはその仕事を続けました。それから、私はオリーブ畑でも働きました。ポロ叔父さんはこう言いました。オリーブの木が、私が触れたとき、その近辺で最高の実をつけたって。私以外、誰もそのオリーブの木には触れていなかったの。従兄弟のアルキメデでさえも。
他の話?
私はアルクメーナ叔母さんが赤ん坊を産んだ時にその世話をしました。それから、若い頃、牛に背骨を折られてしまって寝たきりの年老いた彼女の妹の世話も。その事故は、彼女が信奉する夫と結ばれるのを邪魔したの。彼女はとても古風で、聖なる人でした。
彼女は私にキリスト教の教理を教えようとしてくれました。
私がクリスチャンかって?Mah!他になんだって言うんですか?旦那様。
べピ神父がローマに行かれる前、私たちの総主教であった時、サンマルコの大聖堂で私にクリソムを被せて洗礼を与え、クリスチャンにしてくれました。

そしてアルクメーナ叔母さんの二人の姉妹(二人共、年老いていましたが、一番年老いた姉ほどではありませんでした。彼女は信じられないほど年老いていたの)、彼女たちは私に、清らかで有用な美徳に満ちた秘儀を教えてくれました。
「あなたの叔母さんがご覧になったように。このことに関しては、これ以上はもう何も言いません。さぁ、話を続けましょう」
と、そう言って。
2年前の1月1日。その日は私のnatalizio(イタリア語)であると同時に、オクターヴもある、お祭りが重なっていた日でした。
ポロ叔父さんは私にこう言いました。
「ジルダ、今日で君は15歳だ。金貨123枚と商業銀行の四つのシジルの紋章が封印されている聖体符入を君に託そう。」って。
なんと誠実で勇気を持った人なんだろう!
ただ、私は、その莫大な富に怯えていました。だから私は彼にこう言いました。
「お許しをいただければ、まず叔母のユーフェミアとこの件についてお話したいのですが......。」
彼女は聖なる年長者でした。そして彼女は私にこう言いました。
「ジルダ、わからないの?その聖体符入の金貨は貴方のものなのよ。貴方はそれを受け取るべきなの。そうすれば、次の4月13日の聖ヘルメネジルドの祭日にーあなたの聖なる名前の由来よー功徳を積むことができる。あなたは3ヶ月間、聖人に祈りを捧げる時間を与えられるのよ。」

ヘルメネジルドは王冠、剣、十字架、そして反乱の象徴である斧を持って描かれることが多々ある。イタリアの枢機卿であるフランチェスコ・スフォルツァ・パッラヴィチーノによる1644年の悲劇『Ermenegildo martire』は、17世紀のイエズス会の聖体劇の傑作とされている。

そうして、私はそのようにしました。しかし、聖ヘルメネジルドは私に一言もお告げをくれませんでした。もし私がエルメネジルドであったなら、何か教えてくれたはずです。私はエルメネジルダだったから。
そして、私のonomasticoの4月13日、ポロ叔父さん聖体符入れから123枚の金貨をくれました。私はそれを木立の真ん中にあるオリーブの穴に隠しました。というのも、そこが最も安全ば場所だったからです。
なぜなら、そこの木に触れることは、私以外には禁じられていたからです。
それが私の人生の悩みの種でした。私には、その金貨の山は必要なかったんです。私は上手く仕事をこなしていましたから。私の叔父さんも、叔父さんの家族もそうでした。私たちは皆働いていていましたから。私たちはそれで充分だったんです。
叔父さんも叔母さんも従兄弟たちも、それぞれ自分の分をしっかり確保していたし、私はこれまで働いた数年間の賃金も確保していましたから。
彼女は突然、ジェスチャーで言葉を切ってみせたあと、彼を真っ直ぐにみつめた。
「その基金、お金は今どこにあるんです?」
と、ニコラス・クラッブは問い詰めるように尋ねた。
「旦那様、お話したオリーブの中以外のどこにあるとお考えになって?昨日まではそこにありました。いや、一昨日まではあったはずです。私はあれに触れて感触を確かめましたもの。革はびしょ濡れで柔らかくて、金貨が透けて見えました。でも今は、聖ヘルメネジルドが持っています。神様の思し召《め》しね。私はあれから解放されたように思います。そして、他のすべても失いました。」
2人はスパルティヴェント岬の周りを旋回し、セマフォ・ステーションを過ぎて北東に向かって航行していた。ニコラスは鋭く舵を切った。彼らがもと来た道への航路を取っていた。
「旦那様、どこへ行きますの?」
と少女が不安そうに尋ねた。
「ラ・タスカに戻って、あなたの分お金を取りに行きましょう。」
と彼はそっけなく答えた。
彼女は素早く立ち上がった。彼女の柔らかさ、優しさ、絶妙な上品さが、完璧なまでに際立つ。そうして、彼女の不変の精神そのものが、憤怒による緊張で固くなった猫のように体を透かしている。
「旦那様、お願いだから、私があなたのものを海に捨てる間、目を逸していて!私、この舟ではラ・タスカには戻りません!」
彼女は自分のネッカチーフを引き裂いた。
「じゃあ、君はどうやってあそこまで行くつもりなんだ?」
「だから、生きているうちに、ラ・タスカに戻るつもりはありません。」
彼女はマントを投げ捨てた。
「でも、じゃあ、君の分のお金はどうするんだ……?」
「あれは私のものではありません。私は聖人から頂くと言ったのです。でも、聖人は私に授けてくれませんでした。だから、お金は聖人のものとして置いておくのです。」
彼女は脈打つ喉元のガウンの紐を解いた。
胸が顕になり、両方の緋色の逞しい肩と腕も広げ、ガンネルに飛び乗った。
「しっかり立つんだ!頭に気をつけろよ!船室に行って、今君が犯した罪を泣いて償いなさい!君はイカれたのか?!」
ニコラスは叫んだ。
舟が大きく揺れて、彼は北東に再度舵を切った。
「旦那様、プレゴ。」
エルメネジルダは紫色の身体で泣きじゃくった。
身体をひっかき回したかと思うと、突然、地を受け継ぐ者のようにおとなしく、忍び足その場から去っていった。

柔和なひとたちは幸いである。彼らは地を受け継ぐであろう。
ニコラス・クラッブは、頭の上から爪の先までエナメル質の鎧で武装していた。
エルメネジルダ・ファリエルは、柔らかくしなやかでその姿は咲き展く百合のようだった。しかし、それはしなやかな鞘でもある。その中に、経帷子に包まれた無敵の武器があった。
ニコラスが優しく繊細な魂を鎧の下に隠しているように。
第5章へ続く。
次回は10/15頃更新予定です。
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