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書店パトロール39 具象と抽象の間

先日、『太陽』で『日本のグラフィックデザイン百五十年 ポスターとその次代』というものが発売されていた。

日本のデザイン。有名どころのデザイナーたちの作品がずらりと並んでいる。
やっぱり『太陽』はいいなぁと。2,200円(税抜)。そっと棚に差し戻す。

けれども、やはり、こういう美意識のあるデザイン、レイアウト組の雑誌というのはいいものだ。

私は印刷されたものの匂いが好きなので、立ち昇る紙とインクの匂いも好きだ。

私くらいになると、どこの印刷所で刷られたものか匂いでわかるのだ。
私は本において一番大事なのは、1に匂い、2に中身、3に装丁、だと思っている。
匂いこそ、人間の営みの本質だからだ。なので、いくらいい本でも匂いが駄目だといやぁよぉ。
中身なんていらないんですよ。

で、そうこうしているうちに、最近気になっていた本、『映画を追え フィルムコレクター歴訪の旅』を発見する。

蒐集家、というものに、私は猛烈な心配しー、いや、シンパシーを感じる者である。何故ならば、私もまた、蒐集家であるからだ。とはいえ、モノホンの足元にも及ばない。所詮エセコレクターである。
そしてこの本の主人公はフィルムコレクター。フィルムのコレクション、なんていうものは、まぁなかなか大変だ。
貴方方あなたがたがご存知か識らないが、フィルムが紛失、消失、焼失した作品というものは山のようにある。
つまりは、もうこの肉眼では観ること叶わない。そのような作品がこの世界にはたくさんあるのだ。なんと、この本によると、日本の戦前の映画で残っているものは4%ほどだという。

以前、noteでも書いたシュトロハイム映画でも、『Devils Passkey』、即ち、『悪魔の合鍵』という作品は、現在ではもう、スチールでしか拝めない。この、『悪魔の合鍵』という作品は、主婦にお金の使い込みをさせて、
最終身体を売らせる……的な、そのような作品のようだが、やはりシュトロハイム、タヴーに挑戦する男、いや、それが性癖なのだろうか……。

まぁ、そんなこんなで、外国映画だけではなく、先ほども書いたように、日本映画にもまた、そのような感じで、たくさん紛失してしまっているフィルムが存在している。フィルムコレクターの物語、というのもとても面白そうだが、然し、私はやはりお金なし。なので、買うことはしまい。寧ろ、私くらいになると、その本のタイトルと装丁だけで、勝手に脳内で本の内容を補完してしまうのだ。つまり、脳内フィルムにおいてね。

まぁ、それは嘘だし、何を言っているのかすら不明だが、然し、やはり書店に来ると面白そうな本がたくさんある。
お次は文学コーナー。今回気になったのはこの1冊。
私は橋本治は全く詳しくないが、ついついその真白な装丁に手が伸びてしまった。

できたてホヤホヤの本である。然し、結句、評論本を読むにも最低限の知識はいるだろう(この前はそんなことなくてもいいのねん、とか書いていたが)し、この知の巨人の評論はまぁ、今はもう、後回しである。
私の中では、後回し後回しにしていて、このままでは読まなそうな作家、というのが何人もいて、その筆頭が橋本治なのだが、本当にたくさんの作家がいるため、いや、それ以前に、たくさんの中の作家で、自分に合う作家と出会えるのって、それってなんて奇蹟、ってなもんであり、私はこの作者が一番好き!と思いきや、意外や意外、たまたま手を伸ばした作家でもっと好きになる、なーんてこともあったりで、まぁ人生適当である。

さて、そんな私の目に飛び込んできたのは、角を生やした一角のような象である。

どうやら昨年発売された本のようで、彫刻家の大森暁生氏のエッセイだという。美しい彫刻である。私は具象、抽象、とあるのならば、絵画や彫像は具象が好きで、文章芸術は抽象が好きである。
そうして、この彫像を見ていると、私は1人の作家を思い出す。以前、京都の町家で個展を開いていた瀬戸優氏のことである。
まるで知り合いのように書いているが、一切知り合いではない。だが、作品に引き込まれて、時折Instagramなどを拝見する。

人の手により作られたテラコッタの動物たちは、永遠の生命を齎されたように見える。それは剥製もそうで、死んだ筈の生命が息吹を返すとは如何なる魔法なのだろうか。剥製された肉体は無論保管方法を誤れば腐ちるものだが、メデューサの瞳に睨まれた者の如くに石化したように永劫にも近い魂を得たようにも見える。生きているように生きているようで、神話に近い空気が宿っている。死んでいるのに、生きている。これは不思議だった。どうしてだろうか、それは、汚い言葉というものも何も無い、静寂の成せる技だろうか。



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