見出し画像

愛は壊れてしまう。だから、美しい。

私が好きな映画に、2010年の映画、『ブルーバレンタイン』がある。

まずは、タイトルがいい。なんといっても、ブルー、と、つくと、なんでもよく聞こえるからだ。

『ブルーバレンタイン』は、夫婦の6年間の物語だ。とはいえ、6年前と現在、その2地点が交互に描かれる。


物語は面倒くさいの調べて欲しいのだが、まぁ、主演はライアン・ゴズリング、我らがK、なわけであるが、然し、今作では、ゴズリング、非常に辛い役柄である。
夫婦、の倦怠もの映画である。

6年前、引っ越し屋のバイトとかしながら、歌手か何かを目指しているのがゴズリングであり、作詞したり、ギターを弾いたり、これは、最近、アコーディオンを弾いていた、『瀬降り物語』におけるジローさん(光石研)に近しい、モラトリアム野郎であり、このゴズリングが、ミシェル・ウィリアムズ演じる美女に一目惚れしちゃう。

ミシェル・ウィリアムズは、この時付き合ってる彼氏みたいなやつがいて、そいつはまぁ、筋肉バカなのだが、その男とのセックスで子供が出来てしまう。

そんなミシェル・ウィリアムズと、ゴズリングが、まぁ、ゴズリングのグイグイアプローチ、夜のデート、君のために歌う、美しい夜景、路上のショーウィンドウ、その、煌めくような時間、二人は恋に落ちる、そうして、子供がお腹にいることをウィリアムズが伝えると、ゴズリングは結婚しよう、的な、そんなよくある流れ。

あまりにも甘い、甘く美しい、水色と白色でコーディネートされた結婚式、二人は、ここが絶頂である。

この二人のカップルは最高だね。
このレイアウト。美しいねぇ。

で、そこから6年後、ゴズリングが禿げ上がり、イケメンのオーラが消えている。私は腰を抜かした。いくらなんでも、6年でここまで別人になるのだろうか、物語的な誇張ではないだろうか、いや、まぁいい、何れにせよ、ゴズリング、今はペンキ塗りの仕事をしている、で、ウィリアムズは看護師で、ゴズリングより稼いでいる。然し、ゴズリング、優しい、優しいのである、ヒモ特有の、あの、ありったけの愛、それを持ち続けて、実の子ではない娘も可愛がる、実の娘のように。

服装なども全体的にだらしなくなる。まぁ、そんなもんだ。そもそも恋愛中の姿が嘘でありまやかしなのねん。

でも、二人の愛情は、いや、ウィリアムズの愛情が冷めている。哀しい、哀しい話だ。
ゴズリングはなんとか昔みたいな仲に戻りたいから、一生懸命、色々なことをする、然し、そのアプローチは尽く失敗する。

そういう、幸福な過去、冷めきった現在、この2つが、交互に描かれる。

男女の愛は、絶頂を迎えて、そこから降りていく。当然だ。これもまた、『瀬降り物語』なのだ(他の記事でも書いたが、『瀬降り物語』は今年で40周年だ)。

そもそも、愛、とは何か、と、問われると、これは難しい問い、愛は、人により様々であるが、然し、共通するのは、人の心は揺れ動き、愛情は永遠ではない、ということである。

然し、永遠であるものは、同時に、美ではない、美は、頂点、であるから、その頂点は、絶えず、汎ゆる摩擦に研ぎ澄まされていき、削られ、消耗していく、それは、削りたての鉛筆の芯であり、消えゆく思春の少年少女の麗しさであり、春夏秋冬であり、一輪のバラである。
それらと同様、愛の高ぶり、昂りが、そのまま持続すると、それは平坦になって、美は消えていく、日常は美ではなく、美は、あくまでも先端に宿る、その先端こそが、愛であり、それは、6年という日常で、ゴズリングが結婚を決意したその瞬間、二人が抱き合い、結ばれたその瞬間、先端だった煌めきの一瞬は平坦へと変わっていく、壊れやすい、鉛筆の芯と同様に。
まぁ、ゴズリングは、確かに、作中では、まだうだつの上がらない、ルーザー的な感じであるが、あるが、然し、ここから、もしかして、ヒットを飛ばすのかもしれない、そうしたら、きっと奥方の心は取り戻せないにせよ、また異なる種の美を、その手に掴むかもしれない。
車谷長吉は、直木賞を、男子の本懐だと、そう言っていた、これは、小説家志望の場合、人生は、愛だけではない、amourだけではない、そう、人生は、自己実現もある、それもまた、自己愛という愛、けれども、それも頂点がある。
いずれ消えていくものだから美しい、それは愛もまた例外ではない。

そんなことよりも、私は、この映画が1億円で出来ていることに衝撃を覚えるね、そして、監督の次作、『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』もいい映画なんだよなぁ。やっぱデレク・シアンフランス監督は天才だナ。


いいなと思ったら応援しよう!